第3章 その1 夏への手紙
第3章
1
《親愛なるママ。元気ですか。
ママと雅治パパがロンドンに行ってからもう3ヶ月もたったなんて、なんだか嘘みたい。いろいろどたばたしてて、長いような短いような感じよ。
新婚生活はどう?
雅治パパは相変わらず忙しい?
あたしは、元気です。雅人くんとも仲良くやってるわ。
ご近所の沢口さんと、並河さんのお宅が、とても親切にしてくれています。
夏休みには香織ちゃんと雅人くんと、沢口さんちの充くんとプールに行ったの。
8月の中頃には、臨海学校に行きました。旭学園の所有してる臨時宿舎で、毎年、2泊3日のサマースクールをやるの。
宿舎は鎌倉の近くで、由比ヶ浜からそう遠くない、林の間に立っていて、静かで、環境のいいところでした。鎌倉も江ノ島も、とても素敵。
そうそう、江ノ島にはなぜか、猫がいっぱいいました! 可愛かったなあ!
ねえ、小さいころ、ママとパパと一緒に、海辺を走る電車に乗ったよね。
あれは、江ノ電だった?
あたし、臨海学校の自由時間に、江ノ電に乗ったの。鎌倉を出てしばらく、家の間をすり抜けるみたいにして走るから、ぶつかりそうでドキドキしたわ。
そのうち電車の中に潮の匂いがしてきて、稲村ヶ崎っていう駅のあたりから、電車が浜辺のすぐ近くを走るのを見て、なんだかすごく懐かしくなりました。
あたし、このごろ、ふっと昔を思いだすことが、よく……》
《ママ、覚えてる? 9月9日は、あたしの誕生日よ》
そこまで書いて、杏子はふっとため息をついた。
最後の行は、上から二重線を引いて消した。
「バカみたい。ママは幸せな新婚さんなんだもの。こんなの送りつけるなんて嫌味みたいだわ」
ごく薄い紙に桜の透かしの入った、エアメール用の便箋に綴った手紙。
杏子は書きかけの便箋を二つに折り、机の引き出しに放り込んだ。
「バカなのは、あたし。そうよ、あたしはひとりの人間なんだ。親ばなれなんて、とっくの昔にしてたと、思ってたのにね。雅人にも、迷惑ばっかりかけて。……あたしのこと、どう思ってるのかな? ……妹、なのかな……」
最後の方は少しばかり寂しげに、つぶやく。
そして、麦わら帽子を被り、外に出て行く。
軽やかな足音が階段を降りていく。
*
「あれ、杏子? いないのか?」
しばらくして、雅人が顔を覗かせた。
いつの間に出て行ったんだとぶつぶつ言いながら、ふと、窓辺に置いた勉強机に近づいて、ふう、と息をつき、部屋の中に目をくばる。
「変わるもんだなあ」
感嘆の声をあげた。
以前は客間だった、6畳の広さの洋間は、綺麗に整頓されていた。
窓には水色の無地のカーテンが揺れている。
昔風の和箪笥と、洋風のドレッサーとが違和感なく同居していた。軽やかさと、落ちついた雰囲気とがうまく溶け合っている。
涼しい風が吹き込んでくる。夏の間ずっと、庭の柿の木にやってきてはうるさく啼いていた蝉の声は、もう聞こえない。
畳に寝ころんで、臨海学校のことを思い浮かべた。
海風と眩しい日差しが、瞼に焼きついている。
そして、絶え間ない波の音が、身体を包み込む潮の香りが……鮮やかに蘇る。
*
「きゃーっ! ステキ、やっぱり本物の海はいいわねっ」
歓声をあげて、杏子が先頭を切って走りだす。
鮮やかなマリンブルーの水着をつけた並河が、追いかける。その後に、クラスの女子たちの華やかな水着姿がつづいた。
シャワールームから浜辺に行く途中には、アスファルト道路が横たわっている。
強烈な日差しで焼かれた道路を横断しなくては海辺にたどり着けない。
女子たちはビーチサンダルを持参していたが、おれたち男子、少なくともおれも充も、仲のいい男子グループの誰も、そんな賢いことを考えもつかなかった。
「あちっ、うわっち!」
おれの前を歩いていた名越森太郎が飛び上がった。
森太郎は勉強はクラスで一番できるけど、身体が弱い。
「もう少し日焼けしたほうがいいぞ、シンタロー」
「残念だけど、僕は日に焼いても赤くなるだけで、黒くなれないんだよ」
近視用の眼鏡を外しているから焦点が合わないらしい。目を細めて、おれを振り返る。
「森太郎、おれの顔は見えてる、よな?」
「……ちょっと、輪郭がぼやけてる」
「眼鏡してたほうがよかったんじゃないかな……」
足の裏を焦がされながら、おれたちはようやく浜辺にたどりついた。
寄せては返す波。
キラキラと陽光を照り返して、青い水面がゆらめく。
海から吹きつける風は湿気を含み、ねっとりと身体にまつわりつくよう。
裸足の指先に、濡れた砂の感触が心地いい。
波打ち際で、杏子や並河たちが、魚みたいに水を跳ねて戯れている。
「雅人ーっ、早くおいでよ!」
大声で、杏子が手を振る。おれはちょっぴり照れながら、手を振り返す。
「ヒューヒュー、お熱いっすねー!」
指笛を鳴らして冷やかす充を、おれは素早く捕まえた。
ポクッ!!
奴の頭に一発ヒット。つづいて二発目。
「おれたちは『きょうだい』なんだぞ! よけいなこと言うな」
「なんだよ冗談に決まってるだろ~。怒るなんて、かえって怪しいぞ」
おれは今度こそマジで充の首を締め上げようとした。そのとき、
「山本くん、沢口くん、こっち向いてぇ!」
呼ばれたほうに反射的に顔を向けると、
パシャッ!
秋津直子が、小型カメラのシャッターを押していた。耐水仕様の透明なケースにカメラをおさめて、首から下げている。
「さんきゅー! ええ写真じゃ。センパイが喜ぶわあ」
「先輩? どういう意味だ、秋津」
「どうって。ウチ、ようわからんけど、クラブの先輩たちがな、こういう写真、好きなんじゃ。Kinki-kidsとか、TOKIOとかSMAPみたいな。臨海学校でクラスの男子の写真撮ってきてぇって、頼まれとるんじゃ」
無邪気な笑顔で、秋津はニコニコ答えた。
「直子ちゃん、確か美術部だったよねぇ」
充がおれの肘をつついた。
「まずいよ、雅人。美術部の現3年のお姉さんたちったら、毎年、文化祭で男同士のラブラブマンガのコピー本を作って売ってるってよ。おれたちモデルにされちゃうぜ」
なんで充はこんなにも怪しい情報の『通』なんだろう。
「男同士のラブラブ……ってなんだ?」
森太郎が眉間に人差し指を押しつける。眼鏡をしているときの癖で、はずしていてもよくこんな仕草をしてしまうらしい。
「よく知らねーけど、撮られたもんは、しょうがないだろ」
おれたちが悩んでいるうちに、秋津直子は次なる被写体を求めて、走り去っていった。
「やめたやめた、もういい! 悩むのなしっ!」
「そうそう、海だし、夏だし!」
ウォーッ! とばかり雄叫びをあげながら、おれと充は勢い良く海に飛び込んだ。
「キャー、何すんのよ! 海水が顔にかかったじゃない」
杏子がおれにくってかかる。
「なんだよ、どうせ泳いでるんだから、濡れたってかまわないだろ?」
「そーゆー問題じゃないのッ! 雅人ってば無神経! 香織、沖のほうに行こう」
「えっ、香織さん行っちゃうの」
充は今年の夏、初のプールの後で、ようやくリード板なしでも泳げるようになったものの、とても沖までは行けないのだ。
「また後でね、雅人くん、充くん」
並河は会釈して、水中に身を沈めた。
つづいて女子たちが、沖へ遠ざかっていく。
おれは仰向けになって、海に浮かんだ。
背中は冷たくて、顔や腹は熱い。太陽が眩しかった。頭上にひろがる青い空に、入道雲。さらにその上空に、刷毛ではいたような薄い筋雲が見える。
二度とない高校1年の夏休みを、おれは身体中で満喫していた。
夏がいつかは終わるなんて、思いもしなかった。
けれど、真夏の空の彼方、遙か高みには、遠い秋の予感が確かにひそんでいたのだ。