第2章 その3 杏子、家出する
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いろいろあった1学期が終わり、ついに、夏休みに突入した!
期末試験の悩みも、もう過去のこと。
青い空にぽっかり浮かぶ、白い雲。夏の風に運ばれていくちぎれ雲の影が、アスファルトの道路に落ちる。
いよいよ、夏だ!
充は毎日のように顔を出して、飯を食っていったり、おれたちも沢口家に招ばれたり。
何しろ、全国的に夏休み! プールに行こうとか、旅行計画のお誘いだとか、ひっきりなしに友人たちから電話がかかってくる。
そんなある夜……。
夕食の後、おれが食器を洗い、杏子が拭いていたら、ふいに電話が鳴った。
「はい、もしもし……山本です。……国際電話?」
受話器を取り上げた杏子が、飛び上がって叫んだ。
「ママ!? 今どこにいるの!? ロンドン?」
「お母さんから電話か?」
おれは洗い物の途中で、しばらくは流しの前から離れられない。
ひさしぶりだから、杏子と桃絵さんはすっかり話し込んでいるようだった。
「あたしは元気。勉強? もち、絶好調。雅人とはどうかって? 仲よくやってるわ。ママこそ新婚生活エンジョイしてる? え……雅治パパ、出張中なの? ちょっと……もしかして、淋しいから電話してきたの、ママ!?」
どうも雲行きが怪しい。
怒っているみたいに、杏子の声がだんだん大きくなる。
ガッシャーン!
突然、杏子は受話器を叩きつけるように置いた。
「何してるんだ!? そんな切り方はないだろう」
「ちがうわよ!」
ゆっくりと、杏子は首を左右に振る。
「切ったのは向こうが先よ。さんざん、あの人が留守がちで淋しいだとかあたしに文句言って、雅治さんが帰ってきたら、さっさと切っちゃったわ。バカみたい」
杏子は電話機の前に、膝をかかえてうずくまった。
「幸せになってほしいって願っていたのに、なんか妙な気分なの。あたしのママじゃないみたい……以前は、誰かと付き合ってもすぐ別れて、あたしの所に戻ってきて……でも、幸せになったママには、あたしなんかもう要らないの。こんなこと考えるの、ガキっぽいよね」
「そんなことないだろ。桃絵さんは、いつだって杏子のお母さんだよ」
「ありがとう。……なんだか疲れちゃった。雅人、今夜はあたし、お風呂やめるから、入っていいわよ」
杏子は立ち上がって、2階への階段を駆け登っていった。
「おい、杏子……待てよ」
呼び止めようとしたが、彼女は振り返りもしなかった。
なぜだか、胸騒ぎがした。
落ちつかない。
おれは風呂に入っても寝つかれず、迷ったが、夜中に杏子の部屋の扉をノックした。
「起きてるか? まだ起きてたら、返事をしてくれ」
だが、返事はとうとう、一度もかえってこなかった。
ひどく、悪い予感がした。おれは眠れず、杏子の部屋の前に座り、彼女が出てくるのを待とうとした。
だが、いつの間にか眠ってしまったのだろう。
目覚めたのは、朝だった。
おれの身体の上には、杏子のタオルケットが掛けてあった。
「しまった!」
彼女の部屋の扉は開けっ放しになっていた。
箪笥の引出しも開いていて、フローリングに洋服が散乱していた。
家の中のどこにも、杏子の姿はなかった。
食堂のテーブルには、置き手紙が残されていた。
《雅人へ。黙って出ていくけど、心配しないで下さい。ごめんね。もしママから電話があったら、ママなんか大嫌い、って伝えて。》
「そりゃないだろ!?」
杏子のやつ、家出しやがった!!
気が動転していたおれは、後先考えず、何も持たずに玄関から飛び出した。
いつ出ていったともわからない杏子に、追いつけるわけもないのに。
玄関先で、おれはちょうど入ってきた充に、正面から体当たりしてしまった。
「あれあれ? どうしたのさ、雅人」
「どうしたもこうしたも……」
慌てるあまりに、おれは充の胸ぐらをつかんで詰め寄った。
「おい、杏子を見なかったかッ」
「へっ? 杏子さんが、どうかしたの?」
あ、しまった!
後悔しても、後の祭りである。
杏子が出ていったのを、充に知られてしまった!
「家出した女の子って、どこへ行くもんだろうな」
おれは充と顔をつきあわせて、頭を抱えた。
充は首をひねり、
「オレはそんなドラマチックな経験はないからねえ。心当たりないのか? 杏子さんの親戚とかは近くにいないの」
一応、相談に乗ってくれている。
……はなはだ頼りないが。
「親戚はいないって聞いたな」
「田舎とかは?」
「桃絵さんの実家、今はお祖母さんひとりで住んでる家は青森にあるって聞いたが。杏子のお父さんとの交際に反対してて、押し切って結婚してからは行き来がないと言ってた。この家を出たからって、そこへ行くかなあ?」
「ちょっと遠いな。でも夏休みだし。電話してみたら」
「おれはそのお祖母さんに会ったことないんだ。急に電話するなんて変じゃないか? 杏子に迷惑がかかったらまずい」
「雅人ぉ、ぐだぐだだよ? じゃ、そこは最後に聞くことにしたら。どっかないの。電話するようなとこ」
「おまえ……人の不幸を楽しんでないか?」
「えっ? そんなこと、ないって」
明るく言うから、おれも怒る気にもなれない。
「その他の心当たりはないの? 近くてすぐに泊めてくれそうな」
と、なると、一番、ありそうなのは……?
充がポンと手を打って、
「……並河香織さん!?」
「オレもそう思った」
おれは勇んで電話をかけようとした。が、はた、と手を止める。
「しまった。並河の電話番号……知らん」
途端に、充は吹き出した。
「あははは、ぎゃっはははっ、あー、おかしい。笑かすなよ、腹いてえ!」
「うるさいなあ、そんなに笑いたきゃ、死ぬまで笑ってろ!」
おれは充にエビ固めをかけ、足の裏をくすぐってやった。八つ当たりである。
「あは、あはははっ、やめろよっ、並河さんの番号、教えるから~」
「おまえがなんで知ってる?」
すると、充はけろっとした顔で、『知り合いに聞けば全校女子の住所と電話番号はわかるんだ』と言う。
どんなルートだか、怪しいことやってんなあ。
ともかく、おれは充の知り合いに頼んで、並河香織の電話番号を聞き出し、電話をかけた。プッシュホンを押す手も、もどかしい。
「もしもし、並河さんのお宅ですか。はい、香織さんを……あっ、並河! そっちに杏子が行ってないか? いない……?」
『そうよ、いないって言ってくれって』
電話の向こうで、並河香織がクスッと笑ったような気がした。
「いないって言ってくれ、だって!? 杏子だな?」
『ええ。興奮してるみたい。落ちつくのを待った方が良くないかしら。様子を見て、また知らせるわ』
電話を切って、居間のソファに腰を下ろした。
おれは、杏子の家族にはなれなかったのか。
お互いに、同居生活を仲良くやっていこうと努力してきたはずだけど、辛いときに、その気持ちをぶつけることができないのなら……家族と言えるのか?
杏子にとって、おれは、なんだろう?
おれにとって杏子はどういう存在なのか。
そんなことを悶々と思い巡らせていると……
「悩んでないでさぁ。並河さんとこに迎えに行けよ」
脳天気に、充が言った。
「なんだ、まだいたのか」
「なんだはないだろ。雅人、考えすぎんだよ。行って、どーんとぶつかってみればぁ。心細かったら、オレもついてってやるから」
「……いらん。おまえの付添いなんか、絶対、いらんわっ!!」
翌日の午後、おれは並河香織の家に向かった。
並河の家は、杏子が以前住んでいた麻布にある。
近くまで来てから、公衆電話で『これから行く』と並河に伝えた。
『思い切ったわね。じゃあ両親にはわたしから話しておくわ。杏子もここにいるから、出かけないよう引き止めとく。後でね、山本くん』
「なに緊張して電話してるんだよ」
充が横から口を挟む。
「うるさい、武者震いだ。それより、なんでおまえもついてくる」
「オレはご近所代表。心強いだろ?」
「嘘つけ。並河に会えるチャンスだってんじゃないのか」
「うっ! そ、それは」
どうやら図星だった。
充はちょっと赤くなったかと思うと、おれより先に駆けだした。
「雅人ー、早くこねえと、置いてくぞーっ」
なーに言ってんだか。
並河の親父さんは、幾つかの事業を手掛けているという話だった。
家に近づくにつれて、その大きさに、おれたちは目を見張った。
普通の住宅なら4軒ぐらいすっぽり入ってしまいそうな庭の奥に、これまたでかい洋風の邸宅が建っている。
「すごいね、雅人。オレん家とおまえの家と合わせたより広いや。2階建て8LDK以上ありそうだ。うっかりすると風呂場とトイレが最低2つはある……なんてね」
「冗談じゃなく、そうかもしれないぞ」
ワオ──ン……オオオ──ン……
どこか遠くで鳴っているパトカーのサイレンに刺激されてか、敷地内で飼われているらしい犬の遠吠えが聞こえる。
「番犬……だよね」
「そうだろうな。こんな広い邸宅だ」
「ドーベルマンだったらやだな……」
怖じ気づいている充を尻目に、おれはドアに取り付けられた『叩き』…扉に取り付けられている金属製の器具だ。ノックの音を響かせるものだろう。ちなみに、並河の家の叩きは、ライオンの顔を模していた…を、コンコンと叩いた。
「いらっしゃい、山本くん。沢口くんも? しばらくね、どうぞ上がって」
水色の地にひまわりを散らせたサマードレスを着た、並河香織が出迎えた。
居間には、並河に少し似ている、まだ若い感じの女の人がいた。30代後半ぐらいに見える。いかにも上品そうな、おっとりした感じの人だ。
「初めまして、香織の母です。娘がいつもお世話になっております。主人は急に仕事が入って出かけてしまいましたが、ゆっくりしていって下さいな」
「いえっ、こちらこそ……」
おれも充も、高級とは縁のない人種である。丁寧な挨拶に、どう受け答えすればいいものか、戸惑うばかりだった。
趣味のいい、落ちついた感じの調度品で揃えた居間だ。
いかにもな装飾のごてごてした家具などは置いてない。経てきた年月の重みをうかがわせる、素朴で頑丈そうな木工家具、北欧かどこかの手刺繍の壁掛けなど……。住んでいる人たちの人柄を反映しているのだろう。
「いい趣味ですね。オレ、好きだな」
充の奴、ちゃっかり並河のお母さんに話しかけている。
「まあ、ありがとう。香織が生まれたころ、私たちはフィンランドにいましたの。そのころに求めたものです。沢口さん、でしたわね」
「沢口充です。雅人の幼なじみで、すぐ近くに住んでます」
すっかり緊張しまくりの充が、焦って頭を垂れた。
「フィンランドっていうと、香織さんの持ってるルーンストーンと関係があるの?」
覚えていたのか、と驚いたように、並河は充を見つめ返した。
「いま使ってるのは日本で手に入れたものだけど。帰国するとき、わたしの子守りをしてくれていたお婆さんが、ルーン文字を彫った石をお守りにくれたの」
「帰国したとき、この子はなかなかお友達ができなくて。杏子さんが仲良くしてくれて、嬉しかったんですよ」
こ、こいつら!? 何ほのぼのしてるんだか。
充に自由にやらせておくと、肝心の話が切り出せない。
「あの、実は、今夜お邪魔したのは……」
「娘からお話はうかがっております」
意を決して話しかけたおれを遮って、並河のお母さんは意外なことを言いだした。
「突然ですが、山本さん。杏子さんをうちの養女にさせてはいただけませんか」
「えええ──っ!?」
おれは返す言葉を失った。
「年頃の女の子は色々と難しいことがあるものです。どうかしら、養女とまではいかなくても、当分の間、こちらで杏子さんをお預かりさせてくださいな」
情けない話だが、このとき、おれは、迷ってしまった。
おれは杏子の安らぎにはなれなかった。
いい家族だったとも言えない。
並河の家で暮らした方が、杏子には良いことなのではないか。
そのほうが、彼女のためなんじゃないか。
つまり、おれは、自分にまったく自信が持てなかったのだ。
ただ、杏子と一緒にいたい。その思いだけが、おれの持っているものだった。
そのとき……並河香織が、占いに使うルーン石を入れた袋をテーブルに置いた。
迷わずに、中から石をひとつ取り出す。
「占い方にもいろいろあって、ひとつだけ選ぶのを、オーディンのルーン、っていうのよ。これは『アルギズ』(またはエオロー)。防御……現在の杏子のルーン。傷ついた心を守ろうとして、近づく者を拒んでいるの」
そして、またひとつ。
「あなたは『ソウエル』(シゲル)太陽のルーン。影響を与えるもの。あなた次第で状況は変わる。大切なのは、あなたがどうしたいか」
惑い(まどい)の闇に差した光のように、並河の声がおれの胸に響いた。
自分には何もないこと、家族になれる自信なんてないこと、杏子にはおれは必要ないかもしれない、そんな思いが頭の中をぐるぐる回る。
でも……! おれは。
ひどく乾ききって、かさかさになった喉から、ゆっくりと、声が出た。
「おれは、諦めてない。杏子と本当の家族になりたい。杏子は嫌かもしれない、けど、おれは、まだ悪あがきしてみたいんです。親父と桃絵さん、いえ、お母さんの、信頼に応えたい。杏子にお兄さんって呼んで貰えるように、一生懸命やりますから」
一番最初の、杏子の言葉を思いだす。
『お兄さんなんて呼ばないわ! 妹だなんて冗談じゃない。あたしは雅人って呼ぶから』
それが始まりだった。
初めは、対等の関係が嬉しかった。
だけど、一緒に暮らすうちに、杏子に頼りにされたい、もっとおれに寄り掛かって欲しいと望むようになっていたのだ。
「ちょっと! あたしは、お兄さんだなんてぜ~ったい呼ばないって言ったでしょ。同じ日の同じ時間に生まれて、どーして年上風吹かせたいワケ!?」
この声……杏子!?
おれは驚いて、声の主を探した。
「あーっ、杏子! そんなとこにっ」
居間から奥の部屋に通じる扉の陰から、杏子が顔をのぞかせている。
「恥ずかしいこと言わないでよ。これでも、雅人はあたしのきょうだいなんだから」
杏子は肩をそびやかして、照れ隠しのように、おれの頭をペシッと軽く叩いた。
「痛いって!」
「お兄さんって呼んでほしいなら、あんまり情けないところ見せないでよね!」
「いいじゃないの、杏子さん。雅人さんが迎えにくるのを心待ちにしてらしたでしょ?」
並河の奥さんが、ころころと、さも可笑しそうに笑った。
「えっ! もしかして、杏子を養女にというのは、おれの尻を叩くために」
「ほほほ。もちろん、それだけじゃありませんけどね。それより、雅人さん。杏子さんに何かおっしゃることは、ないんですの?」
おれはソファから立ち上がって、杏子の目を見た。
「戻ってきてくれ!」
「……黙って家出したりして、悪かったわ」
杏子はおれの頭を撫でて、にっこり笑う。
「雅人が頼むんなら、帰ってあげてもいいわよ。ここで逃げちゃ、悔しいもんね」
相変わらず、意地っぱりな奴め。
「困ったときは、いつでもいらっしゃいね」
その夜、並河とお母さんに見送られて、おれたちは家路についたのだった。