第2章 その1 ルーンは囁く
第2章
1
料理のことでケンカをしてから、杏子と、以前より理解し合えたような気がする。
おれたちはふたりとも、いろんな意味で不器用だった。
杏子はやっと『美味しい』という気持がわかってきた、と言う。それからは、少しずつ、料理の腕前も上達していった。
おれも、今までは手を出さなかった和風の煮物に挑戦してみた。
ぶつかり合うのも、いいことなのかな。
ふと、そう思う。互いに我慢してため込んでいたら、いつか取り返しのつかないところで、感情が爆発するかもしれない。
杏子のことを、もっと知りたい。理解したい。
おれは、以前にもましてそう思うようになっていた。
彼女のほうは、おれのことを、どう考えてるんだろう。少なくとも、歩み寄ってくれようとしてる気はするのだが……。
そうするうちに、7月7日、七夕の夜がやってきた。
毎年、七夕のころは曇りや雨が多くて、天の川がすっきり見えることは、あまりない。
これまではやらなかったけれど、杏子のために、おれは笹の枝を買って帰った。
思った以上に彼女が喜んでくれたのが、嬉しかった。
相手が喜ぶ顔を見るのが、嬉しい。
こんなキモチ……初めてかな。
そして、懐かしい、感じがする。
ふたりで、短冊に願い事を書いて、枝に下げた。
笹の枝は庭の柿の木に結んだ。
《世界中のみんなが幸せになれますように》
《ロンドンのパパとママが元気でいますように》
《みんな仲良く、ずっと一緒に暮らしていけますように》
ささやかな願いをかけ、祈りをこめた短冊が、夜風にひらひら揺れていた。
願いは、叶うのだろうか。
その年は、7月の半ばを過ぎても長雨がつづいたり、急に晴れて暑くなったり、天候が変わりやすく、ぐずついて、なかなか梅雨は明け切らなかった。
梅雨が明ければ、じきに待望の夏休みがやってくる。
しかし、おれたちの前には、期末試験という難関が立ち塞がっているのだった。
そんなある日の、昼休み。
「キャーッ、藤沢くんよ!」
突然、窓際で黄色い歓声が上がった。
男子一同が目を点にして呆気に取られる中、女子たちは窓辺に詰めかけて騒いでる。
「誰だ? 藤沢って。そんなに人気のある奴がいるのか」
「2-Bの藤沢由記(ふじさわ ゆうき)だよ。クォーターで、イギリスからの留学生なんだって。全校女子の人気ナンバーワンだ」
充はなぜか校内の噂にやたら詳しい。
野郎に興味はないが、杏子まで窓際に立って下を覗いているから、気になった。
「ちょっと見せてくれ。藤沢って、どんな奴なんだ」
秋津直子が、おれに場所をあけてくれた。
「あれじゃ、山本くん。中庭を歩いてる男子。私服のカーディガン着た背の高い人じゃ」
3年前の生徒会が制服の自由化を勝ち取ったおかげで、旭学園は私服通学も認められている。(嘘のようだが、チャイナドレスで通学していた留学生もいたそうだ)
確かに、藤沢は目を引くヤツだった。
並んで歩いている同級生らしい男子生徒と比べて、格段に脚が長く、背が高い。170センチ以上は確実にある。
遠目に見るかぎりでは、顔もわりといい方か。
「あいつか、なるほどねえ。だけど女子たちもよくこんなに騒ぐなあ……。秋津は、藤沢が好きなのか」
「ウチは、あの人のことよう知らんけど。藤沢くんは顔も性格も成績もよくて、気取らん、いい人じゃって、もっぱらの評判じゃ」
……杏子も、藤沢が好きなのかな……?
そんなことを思うと、どんどんイヤな気持になっていく。
おれって心の狭い、やな奴なんだなぁ。
「あーあ、行っちゃったわね」
窓際を占拠していた女子たちが戻ってきて、
「ねえねえ、並河さん、占ってよ」
教室の後方で本を読んでいた並河香織のまわりに集まる。
「いいわよ。わたしの前に座って」
並河は本を置き、鞄の中から小さなスエード革の巾着を取り出した。
「なんだい、それ」
興味を引かれたのか、充が並河の手もとを覗き込む。
「この中には、占いに使う25個のルーン石が入っているの。24個のルーン文字を刻んだ石と、何も彫っていない『空白』のルーンがひとつ」
「ルーンって何?」
「簡単に言えば、北欧のバイキングたちが使っていた独特の文字。彼らはルーンに力があると信じて、石に彫りつけてお守りに持っていたそうよ。それを使って占うの」
「面白そうだな」
「占ってみる?」
「ダメ、あたしたちが先よ!」
「休憩時間が終わっちゃうじゃない」
女の子たちが占ってもらいたがるのは、たいてい、恋の悩みだった。
並河の答えは明快で迷いがない。相手によっては、厳しい言葉を使わないように気をつけている。
……占い師に、向いてるかもしれない
最後に並河の前に座ったのは、杏子だった。
「ねえ、あたし、雅人とこれからも一緒にやってけると思う?」
な、なにーっ!!
「不安なのね、杏子? 急に、一緒に暮らすことになったんだものね」
並河は目を閉じて巾着の中をザラザラとかき回し、一個の石を取り出して、机に置いた。
淡いピンク色の水晶でできた小さな平たい板の表面に、アルファベットに似た、地面を釘で引っかいたような文字が刻みつけられている。
「それは、なんていう字なんだい?」
ワクワクしながら横で見ていた充が、とうとう我慢できなくなって口を挟んだ。
「これは『スリサズ』。本によっては『ソーン』と書いてあるわ」
「へーえ? 見ていい?」
「どうぞ。意味は、いばらの刺。氷の魔神の試練」
並河は充に石を手渡して、杏子に向き直る。
「スリサズの正位置。ルーンは試練を示しているわ。助言……内なる声。自分の中の嫌いな面も、否定しないで、認めて……」
難しい顔をして聞きいっている杏子を見やり、並河はやさしく笑った。
「わたしは杏子が好きだよ。お料理が上手でなくても、意地っぱりなところも、全部。そして、きっと雅人くんだって、そうだと思う」
「雅人が? そうかしら。きょうだいとしては、あたしは不満が残るわね」
疑わしそうに、杏子はおれを振り返った。
「そう言わないで。ふたりは占星術でも『同じ運命を共有する者』なのよ」
「運命共同体ってこと? 雅人と? なんかやだなあ。でも、しょうがないわね。もう始まっちゃってるんだもん。とにかく、やってみるっきゃないか」
試練のルーン。
その意味を、おれたちはその後、身に沁みて知ることになる。




