第8章 その5 告白チャンスは二度はない?
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風呂場でのぼせて全裸でひっくり返った。
ギャグか!
杏子は絶対、大爆笑するのに違いない。
おれはそう決めつけていた。
情け容赦ないツッコミと高笑いを浴びせられるものと覚悟していた、そんなバカなおれの予想は、実のところまったく当たってなかった。
おれが倒れて間もなく、杏子は浴室に飛び込んできた。
「雅人! どうしたの!」
咄嗟に返事ができなかった。
もちろん彼女は服を着ていた。
おれが湯上がりに倒れたから浴室の床は水浸しだ。
その水浸しのところに、ためらいもなく杏子は膝をついて、恥ずかしい姿で倒れているおれの頭に両手を添え、そっと挟んだ。
……え。
のぞき込んでいる杏子の顔。
すごく苦しそうだ。
ぽたり。
おれの額に落ちてきた水滴は。
杏子の、涙……?
「やだ……まさと……まさと……死な……ないで」
おれの顔にぽたぽた落ちてくる涙。
「杏子なに言ってるんだ……そんなわけないだろう」
この状況はなにか?
おれは、ただ風呂でのぼせて目眩がして派手にすっころんで。
水浸しの床に全裸で、仰向けに倒れているだけなのだ。
「死んじゃやだ……っ!」
どうしたんだ。杏子。
まるで小さい子供みたいに泣いてる。
おれは、だいじょうぶなのに。
泣きじゃくる杏子に、おれは何もしてやれない。
「だいじょうぶだから」
そう言い続けるしかできなかった。
どのくらいの間、そうしていただろう。
泣き続けていた杏子は、ようやく、落ち着いてきた。
「おれはだいじょうぶだから」
相変わらずそんなことしか言えない、おれ。
杏子は小学生の時、お父さんと死別している。
思い出させてしまったんだ。
おれのバカな行動が原因で。
どんなに辛いか……!
ごめん。
ごめんな、杏子。
なんか浮かれてたよな、おれ。
我ながら自分ってバカだバカだと思っていたけど、本当にバカだな。
「ごめん。おれ、バカで」
「謝らないで」
今にも泣きそうな声で、杏子が。
「何か言えるんだったら、だいじょうぶ、よね?」
「うん。きっとだいじょうぶ」
「よかった」
杏子が、笑った。
ほっとすると同時におれは気づいてしまう。
これって、やばくね?
おさらいしよう。
おれは浴室の洗い場に全裸で倒れている。
杏子は、おれの頭を膝に乗せて、笑っている、のはいいんだけど。
慌てて風呂に駆け込んできて、ずぶぬれのおれの頭を抱きしめて。
服は着ているけど濡れちゃってるんだよね。
濡れた服って、身体の線がくっきりっていうかなんていうか。
ああああああああ。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい……って、おれは大ピンチですよ! なのに。
「ねえ雅人、覚えてる?」
おれを膝枕したままで杏子は思い出し笑いをしたように、いたずらっぽく、笑う。
「あたしたち、出会ったのは桜の下だったよね。なんかすごく、懐かしくなっちゃった。ねえ、あたしね。いつか、雅人と一緒に見たい、大きな桜の木があるの」
しんんみりと、話しだす。
「一緒に見たいな……あの桜、もう一度だけ」
どんな桜なんだろうとおれは考えていた。
きっと、杏子の大切な思い出の桜なんだろうな。
が、突然、気づいた。
こんなにやばい状況なのに。
おれの身体、ぜんぜん反応してない。ぴくりとも動けないんだ。
もしや金縛り!?
ぜんぜん動けない!
麻痺してるのか!?
そのとき、強く、薫ってきたものは。
とびきりゴージャスなバラの香りだった。
あの並河香織が杏子に贈ったバラのエッセンスが、おれを包み、縛っているかのように思えた。それは柔らかいのに強靱でちぎれない、真綿のような感触だった。そいつがおれをいましめているのだ。
前から思ってたけど。
並河香織。
……魔女?
ふいに、風が起こった。
浴室の自動換気システムが、働きはじめたのだ。
酔うほどに濃密なバラの香りが、薄れていく。
「……あらっ」
急に杏子は、夢から覚めたみたいに、ゆっくりと目をこすり……
耳まで真っ赤になった。
膝枕をやめて無言で立ち上がり、急いで浴室の扉をあけて出て行った。
しばらくして戻った杏子は、おれに大判のバスタオルを投げた。
「あれ、起こしてくれないの?」
「いいから身体拭いて! 湯冷めしちゃうでしょまったく! 風邪でもひいたらどうするのよ!」
やっぱり杏子はツンなくらいがちょうどいい。
安心する。
※
風呂から出ると着替えがそろえられていた。
杏子も、おれのせいで濡れちまった服を着替えたらしい。
「雅人。ちょっとそこになおれ」
「え!」
リビングに正座させられました!
あ、やっぱり?
「ほんとに恥ずかしいったらないわ! 湯あたりで倒れるとか、カンベンしてよ! 高校生でしょ! コドモなの?」
「ごめん、もうしません」
顔を真っ赤にした杏子に怒られて、思い出してみれば、おれも恥ずかしい。
生活がだらしなかった親父に反発してたけど、これじゃ、えらそうなことなんにも言えないや。
ひとしきり怒られた。
「でもこれだけは覚えておいて」
杏子が、あらたまった声で言った。
「雅人に何かあったら、あたし、生きてられないんだから!」
そう言い切ったあとの杏子の顔は、真っ赤だった。
「お、おれも……」
自分もそうなんだよとおれは言いたかったんだが。
杏子は「知らない! 今の、なしね!」と言うが早いか、ばっと立ち上がり、二階への階段を駆け上がっていったのだった。
「なしね、は、ないだろ……」
これってどう考えればいいのか!?
杏子はそれきり自室から出てこなかった。おれはなんか眠れなくて一晩中リビングにいて、テレビを見ていた。
川野とは、どうだったんだろう?
何かあったのか?
でも、川野に気があったら、おれのこと、あんなふうに。大切なんだ、みたいに、言わないよな?
結局、眠れないまま、おれはぼんやりとテレビを見続けたのだった。
今夜は、もしかしたら告白するのにいい機会だったのかもしれない。なんで何も言えなかったかと悔やまれる。
次は、チャンスを逃さないぞ!
この章、終わります。
お読みくださいましてありがとうございます。




