第8章 その1 並河香織
この回、主人公は出てきません。並河香織の周辺の話。三人称です。
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豪奢な邸宅の一室。
学園祭もとどこおりなく終わり、自宅でくつろいでいるはずの、並河香織は不機嫌だった。いや正確には、面白くないのだった。
その原因は彼女自身よくわかっている。
本気の恋を、諦めようとしている。
何年も、誰にも知られぬように胸に抱き続けてきたものを。
誰にも負けないし譲れないと思ってきたのに。
正直、悔しい。
悲しい。
でも……
たったひとつ、一番の願いは、杏子の、幸せだから。
「香織さん、支度できたよぅ」
声を掛けられて我に返った。
「もう見てもいいよ」
可愛い声だ、と香織は思う。
神様からのプレゼントなんだわ、と。
大切に育ててきた宝物を失いつつある。
もっとも、宝石(杏子)は、香織の思いなど知りはしない。
自分が恋愛対象として見られているなんて考えもしないだろう。
そこがまた魅力でもあるのだけれど。
「香織さん。用意できたったら。見てくれないから、来ちゃったよ」
ドアが開いて、声の主が入ってくる。
「まあ!」
途端に破顔した香織は、入ってきた人物の足元から上へと視線を移していく。
白いレースで飾られた靴下。
光沢のある黒いエナメルの、ワンストラップの靴。
素足ではない。昔風の絹のストッキングである。
ふくらはぎの半ばまで届く黒いワンピースの襟元は清潔感のあるコットンレースで飾られている。
極めつけは、ぱりっと糊のきいた純白のエプロンドレス。ワンピースと同じ丈で、腰の後ろで紐を大きなリボン結びにしてある。
「すてき。とってもキュートよ」
「そ、そうかな?」
「ええ。これ以上ないくらい。完璧なメイドさんね」
うっとりとした微笑みを浮かべ、香織はメイドに近づいた。
彼女よりほんの少し小柄なメイドの肩を引き寄せる。
耳元で、ささやく。
「ねえ、あなたはわたしのメイドよね。……わたしだけの」
「そうだよ、香織さん」
メイドの唇に指で触れて、抑える。
「だめ。ご主人さま、って呼ぶの」
唇をなぞるしなやかな指先。
「んっ」
苦しげに新鮮な空気を求め、甘くかすれるハスキーな声を楽しむように、香織は艶然と微笑む。
「呼んで。さあ……」
しばしの間をおいて。
「ご、ごしゅじんさま」
困ったように、言う。
その言い方がぎこちなくておかしく、可愛いと、香織は笑う。
抱き寄せて、顔を近づけていく。
今にも唇が触れあいそうになる、そのとき。
「だいじょうぶだよ」
落ち着いた声で、彼女に呼びかける。
「いつまでも香織さんの側に居る」
メイド服をまとった少年が言う。
「絶対に離れていかないよ」
「……どこへも、いかない?」
香織の目が、潤んだ。
「誓うよ。どこへもいかない」
「信じるわ」
こう言ったそばから、続けて、香織は、はなはだ物騒なことを口にする。
「もしも裏切ったら、あなたを殺すから。……充くん」
「やだなぁ香織さん」
メイド服の似合う沢口充は屈託なく笑う。そして、
「ありえないよ!」
きっぱりと言い切った。
「香織さんのためなら、メイドだって女装だってなんだってするよ。でもね、ほかの誰のためにだって、オレ、こんなことしないからね!」
「……くっ。くすっ」
香織は少し泣いて、笑った。
そして、つぶやいた。
「そうね。わたし、神様に、ちょっとだけ感謝してもいいかな……」
 




