第1章 その3 義妹は残念な味オンチ!?
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杏子と同居暮を始めてから1週間が過ぎた。
カレンダーは、7月になっている。
お互いに、同居生活にとまどうことばかりだった。
食事の好みから、風呂に入る時間、TV番組、掃除、洗濯の仕方まで。
いざ一緒に暮らすとなると、ささいな生活の中のあらゆることが、話し合わなければやっていけないのだ。
掃除や食事当番は、ふたりのクラブ活動を考慮に入れて、決めた。
今のところ、魚を焼いたりとか、カレーだとか、なんだかキャンプ料理みたいなメニューが続いている。
「たまには煮物も食べたいなぁ」
なんて、おれが何気なく口にした、その日の夜のことだった……。
「きゃ──っ!」
ガッシャーン!
悲鳴とともに、何かがなだれ落ちて壊れたような音が聞こえた。
「どうしたっ」
野球部のクラブ活動で遅くなって、玄関の扉を開けた途端に、この惨状。転げるように駆けつけたおれが、見たものは……。
もうもうと黒煙を上げているフライパンと、引っ繰り返った鍋、おたま、ボール類。
放心してレンジの前の床にへたり込んでいる、割烹着姿の杏子だった。
「大丈夫か!?」
「また、失敗しちゃった……」
杏子は途方に暮れた顔で、おれを見上げた。
「いや、そうでもないぞ、ほら、これなんか美味そうじゃないか」
おれはガスレンジに掛かっていた鍋を覗き込んだ。
肉ジャガだ。ちょっと汁けが多いかな。だが、色はいいし。
味の方は……と。
ジャガイモをつまんで口に入れた途端、
「あっ、それはダメ!」
杏子が叫ぶ。それとほとんど同時に、おれは、
ブ──ッ!
盛大に、口の中のものを噴き出してしまった。
ま、まっずぅ──っ!!
激甘、極辛、おまけに舌に突き刺さるような攻撃的にして刺激的な味!
いったいなんだこれは!?
世の中にこんな不味いものがあるのかと、ショックを受けた。
「ああ……だから言ったのに」
と、杏子は小さく呟いた。
一緒に暮らして初めてわかったことだが、杏子は『超』の称号を謹んで進呈してもいいくらい、ものすごく料理が下手だった。
杏子の料理は、信じられないくらい、まずいのだ。
この1週間、なんとかこなしてきたカレーや焼き魚にしたって、杏子が担当すると焦げるわ、あり得ない辛さだったり不思議な味だったりしたのだ!
テーブルに突っ伏しているおれに、杏子は熱い番茶をいれてくれた。
「ありがとう」
受け取って、茶を啜った途端に、激しくむせた。
「げふっ!」
あんまり咳き込んだものだから、涙が出た。
肉ジャガへの期待と感激を裏切られて、情けなくなってしまった。
「どうなってるんだ、あの肉ジャガは!? まだ舌がおかしいぞ。番茶を飲んでも喉がひりひりするじゃないか!」
「あっ、ごめーん」
杏子は明るく受け流す。おれの向かい側の椅子に腰掛けて、悩み顔だ。
「お料理の本に書いてあるとおりにやったのに、うまくいかないの」
「ふうん。なんでだろうな」
「で、お砂糖を足してみたら、甘くなりすぎて」
「……へええ」
「今度はお塩を入れたら、なんか変になっちゃった。ブラックペッパーで味を整えようって思って、でもピンとこなくて唐辛子を入れて、ぽん酢も入れてみたの……」
「バカだな!」
おれは思わずテーブルを叩きつけた。
「常識で考えてみろよ! こんなとんでもない味、あるもんか!!」
後で考えれば、我ながらまずかった。
未知の味のあまりの衝撃に、つい、言いすぎてしまったのだ。
「ちょっと、あんまりよ。そんな言い方ってないわ!」
バンッ!!
杏子もテーブルを叩いて、席を立った。
「あたしは、そりゃあ料理がすっごく下手だけど、一生懸命やってるわ。それなのに……雅人のバカ! デリカシー欠如! 大っ嫌い!!」
言い捨てて、階段を駆け上がっていく。
しまった!
おれは慌てて後を追った。杏子は、おれが『たまには煮物もたべたい』なんて言ったから、苦手なものを作ってみてくれたんじゃないか!
好意を育てるのは地道な日々の積み重ね。
それなのに、嫌いになるにはたった一瞬の失敗で事足りる。
人との触れ合いって、難しい。
『雅人は言葉が少し足りないのよ』と、杏子に言われたことがある。思いやる気持ちがあっても、伝えなければ意味はないのだ。
今まで親父とふたり暮らしで、お互いにほとんど会話らしい会話もなく過ごしていたことに、やっと気づいた。
これではコミュニケイションが成立しないのだ、とも。
以前のままではダメだ!
一緒にいたいなら、杏子に伝えなくては……。
おれは、2階の奥の部屋を叩いた。
「ごめん! おれが悪かった、せっかく料理を作ってくれたのに」
しばらくして、ドアが開いた。
「……ごめんなさい。あたしも悪かったわ」
泣きはらしたような赤い目をしていた。
「あたし……なんとか、美味しい料理を食べさせてあげたいの。なのにどうして、いつも失敗しちゃうのかな」
こんな落ち込んだ杏子を、初めて見た。
気にするなよ。おれだってよく失敗してるだろ。そのうちきっと上手くなるよ。
言ってやりたい色々なことが、頭の中をぐるぐる回りだす。
だが、口に出せなくなる。軽々しい奴だと受け取られるのが怖くて、考えなしに何かを口にしてしまうのが怖くて。
だけど、言わきゃ、杏子にはわからないんだ。おれが何を思っているかなんて。
おれは自分の感情を持て余していた。このもどかしさは、なんなのか。どうすればいいのかわからなかった。
「……ママは、仕事が忙しくて、一緒にご飯を食べることって滅多になかったの」
うつむいたまま、杏子は話しだす。
「あたしは自分のぶんだけ作って、ひとりで食べて。そうしたら、いつの間にか……食事ってものに執着がなくなってしまった。美味しいってどういうことなのか、思い出せなくなってた。本当はね。あたし、味が、よくわからないの」
思い当たることばかりだ。
両親が再婚する前から、一緒にレストランで食事をしたりした、あのときも、彼女は、全然、おいしそうな顔をしていなかった。不機嫌なのかと思ったが、本当に、おいしいと感じなかったということか。
「でも、誰にも言えなかったの」
「淋しかったんだな」
おれは思わずそう応えていた。
淋しさは……それだけは、おれにもわかる。
毎日のように充や近所の悪ガキどもと転げ回って遊んでいた小さいころから、いつだって楽しいくせに、それなのに、どこか心の底に、どうしようもない淋しい思いがこびりついていた。
「そうかもしれない」
杏子は顔を上げ、涙の滲んだ目で、おれを見つめて、静かに応える。
……抱きしめたい!
そのとき、ふいに湧いてきた衝動は、おれをますます混乱に陥れた。
なんて……頼りなさそうな、かわいそうな表情をするんだ。
震える細い肩。衝動的に抱きしめそうになった杏子の背中は、薄く、ひどく華奢で、まるで、おれが触ったら壊してしまうような気がした。
女の子って、
……女の子って!
いったい、どういう生き物なんだ!?
「意地っぱりで、ごめん。あたし、ホントに味オンチなのね」
杏子はふっと、微笑んだ。
そのとき。おれの中で何かが、はじけた。
両腕を広げ、手をのばして、彼女を抱きしめる。
「まさと……?」
杏子は戸惑い、『どうしたの』と、問いかけるように、首を傾げる。
えっ!?
次の瞬間、おれは我を疑った。
激しく撥ねつけられるかと思ったのに、おれの胸に顔を押しつけて、
「……あったかい」
そう、言ったのだ。
にわかに動悸が早まる。
こ、これは……これは、どう……受け取れば!?
そして、杏子は、そっとおれの両脇に小さな手のひらを添えた。
どきどきどきどき……
高鳴る心臓の鼓動を、聞かれはしないかと心配になる。
どうしよう!?
おれは……
おれは、杏子が好きだ……!
もしかしたら、杏子も、おれのことを!?
いや、だけど両思いだとしても、おれたちは歴然と『きょうだい』じゃないか。
これから、どうすればいいんだっ!?
しかし、彼女の次の言葉は、妄想独走モードのおれを、はたと我に返らせたのだった。
「家族って、温かいんだね……」
安心したように、呟いた。
うわあっ!?
ふいに、ものすごい罪悪感が襲ってきた。
ああ、おれって最低!
杏子は新しい家族の一員としておれを認めてくれようとしているのに、おれときたら、勝手な思い込みで、なんて都合のいい解釈を~っ!!
♪キンコーン♪
救いの手を差し延べるかのように、そのとき、玄関のチャイムが高らかに鳴った。
「お─い、雅人ぉ、杏子さん。もう夕食すませちゃった?」
沢口充が、毎度変わらない愛嬌のよさで顔を出す。
「いや、今夜はまだだ」
「じゃあ、ちょうどいいや。ふたりともウチで晩御飯しない? 親父が知り合いから鰹を貰ってきてさ。ハンパじゃなく大量なんだよぉ。よかったら一緒に食べない?」
「鰹?」
杏子が身を乗り出す。
「そうそう。刺身もいいしタタキもね。それに、お祖母ちゃん家から送ってきた山芋もあるんだ。それで麦飯も炊いた。トロロご飯がまた、旨いんだぜ!」
「食べてみたいな」
……んっ?
杏子が食べ物のことで目を輝かせてるなんて、初めてのことかもしれないぞ?
「よし行こう! 充、おまえ、すっごくいいところに来てくれたよ!」
「えっ? そんなに腹減ってたんか? じゃあ、ウチ来る?」
「行く~!」
その夜、おれたちは沢口家にお邪魔して、夕食を御馳走になった。
気のいい沢口のおじさんは、鰹と枝豆をつまみながら、上機嫌でビールを呑んでいる。
「おう雅人くん。ビールはやっぱり、○ビスに限るな! 飲まないか」
「いや、まだ未成年なんで……」
「はっはっは! 雅治も、君が二十歳になったら、一緒に飲むのを楽しみにしてると言ってたなあ」
「え、そんなことを?」
親父も、おれに直接言ってくれればいいのにな。
妙子おばさんは、女の子が欲しかったのと喜んで、どんどんお替わりを勧める。
「来てくれて嬉しいわ。困ったことがあったら何でも言ってちょうだいね」
勧められるままに、杏子は遠慮なく、ばくばく食べた。
それはそれは、旨そうに食べた。
「美味しい! あれもこれも、すっごく、美味しいです」
鰹のタタキ、麦飯にかけた山芋のトロロ、大根と油揚の味噌汁……それらをじっくりと味わい噛みしめながら、じつに幸せそうな表情をしてる。
もしかしたら。
素晴らしい食欲に見とれながら、おれは思った。
杏子の中で、何かが変わり始めたのかもしれない……。