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第1章 その2 妹なんかじゃない


          その2 「あたしは妹なんかじゃない」



「いやだーっ、この部屋、男の子くさーい!」

 月曜日の早朝、おれの部屋の戸を開けるなり、杏子はさも嫌そうに言い放った。

「んん~? くさい、かあ?」

 夢を見ていたような気がするが、急に起こされて、どんな夢だったか忘れてしまった。たぶん、おれはまだ、かなり寝ぼけていたと思う。

 白い割烹着をつけた女の子が、部屋の入り口に立っていた。

 ……あれっ!?

 まだ夢を見ているのかと思ったが、はたと、『杏子だ』と気づいた。

 白いブラウスの襟元に濃い赤のリボンタイを結び、襟ぐりに紺のラインが入った白い薄地ニットのベスト。紺のプリーツミニ、ひざ上20センチ丈……6月から衣替えになった夏の制服である……の上に、どこから出したのか、白い割烹着……エプロンではないところがポイント高い……をつけ、首の後ろで一つに束ねた髪に、緑のチェックのハンカチを結んでいる。


 ……お母さんみたいだ……

 母親の記憶なんて全然ないのに、何故だかふと、そう思って、胸の奥が熱くなった。

「割烹着、似合ってるよ」

 と言うと、杏子は目を丸くした。

「なによ、急に」

「いや、ほんとに似合うと思ったからさ……」

 つぶやきながら、おれは再び、急速に眠りに引き戻されていく。

 ああ、なんか幸せ……。

「そう、似合うかしら? 家から持ってきたの。それより、ここ、足の裏みたいなニオイね。あっ、雅人ったら、また寝ちゃってる! ねえ、起きてよう」

 床に落ちているものを踏みつけはしないかと恐れてでもいるように、杏子はこわごわ、部屋に踏み込んだ。

 うとうとしていたおれを、激しく揺さぶり起こす。

「朝御飯作ってくれなきゃ、困っちゃうのよ」

「なんだ、それは」

 困っちゃうって言われても。

「だって、鍋や食器がどこにあるか、わかんないんだもの。ご飯は炊いといたけど」

 おれは眠い目をこすった。

 心細そうに、おれの顔を覗き込んでいる杏子が見えた。

「ふわぁ~っ。わかったよ……」

 腹を掻きながら、布団から起き上がった途端に、

「きゃああ──っっっ!」

 杏子は真っ赤になり、悲鳴を上げて逃げだした。

 部屋の戸を開けっ放しにしたまま。

「なんだよ、いったい」

 わけがわからず、おれは立ち上がる。

 どこが変なんだ。いつもと同じだぞ?

「ぱ、パジャマ……下だけしかはいてないじゃない! 上、上も着てよぉ~っ!」

 階段の下から、泣きそうな声で杏子が訴えた。

 あれっ。これのせいか? そうなのか?

 おれは寝るときにパジャマだけど、たいてい下だけ、ズボンのほうしかはかない。布団に入ると冬でも暑くなるからで、ごく普通の習慣だと思っていた。

「なんだよ、このくらい。裸ってわけじゃないだろ。親父なんか風呂上がりにはパンツ一枚でうろうろしてたぞ」

 起き抜けのままの格好で階段に足をかけると、

「キャ──ッ! いやーっ、いやいや、下りてこないで! ちゃんと服着てからにして! でないと、あたし家出するわ!」

 甲高い悲鳴が家中に響きわたった。

「わ、わかった、なんか着るから。ご近所中に聞こえるだろ、勘弁しろよ」

おれは部屋に戻って、Tシャツを頭から被った。

納得はいかないが、あんなに嫌がってるんじゃ、しょうがない。

「もう、服着たの?」

 おれが一階に下りていくと、割烹着姿の杏子は素早く柱のかげに隠れ、やがてそーっと、

顔だけ出して、小さな声で尋ねた。

 ……ぷぷっ。

 思わず吹き出しそうになったが、こらえた。

 さて……台所は、荒れていた。


「おいおい、どうやったら、こんなに荒れるんだ!?」

「ああ……そこは、まあ。普通に、ちょっとだけ家事をしてみたのよ。へへん」

 杏子はにやりと、不敵な笑みを浮かべた。

 なんでそこで挑戦的!?

 いったい何をやらかしてくれたのか。

 吊り戸棚に入っている鍋を出そうとしたのか。冷蔵庫の横に踏み台が立てかけてある。フローリングの台所の床には、米粒がパラパラと落ちていた。

 鍋の場所がわからなかったと杏子は言ったが、しまっておいた鍋をよく見れば、底のほうに水気が残っているのがわかった。

 どうも、一度出して使って、また洗って戻したのではなかろうか。

 キッチンには、かすかに味噌のにおいが漂っていた。


 もしかして、杏子……味噌汁作ろうとして、失敗したんじゃ……?

 おれは敢えて何も聞かなかった。

 やぶへび、ってやつになりそうな予感がしたからだ。

 その代わり、黙っていつも使っているエプロンを着けた。

 味噌汁を作り、夕べの残りのほうれん草のお浸しをフライパンでさっと炒めて、卵を割り入れ、ほうれん草入りスクランブルエッグにする。

 その間に、杏子にはアジの味醂干しを焼いてもらったのだが……

 ふと、気がつくと、そこら中に煙がもくもくと充満していた。

「うわっ! 煙! 魚焼きが煙噴いてる!」

「いやーんっ! とめて、雅人っ、火を止めてようっ」

 もちろん、おれはすぐに火を止めたが、もう遅い。

 アジは、見事なまでに真っ黒焦げになっていた。


「ねーえ、雅人」

 焦げた干物を箸でつつきながら、杏子が切り出す。

 おれたちは朝飯との格闘バトルを終え、お互いに割烹着とエプロンを脱いで、食堂のテーブルを挟んで向かい合っていた。

「あたし、やっぱり、あんたと部屋を替わってもらわなくってもいいわ。男の子の部屋って、あんなに散らかるのね」

 言葉を選んではいるものの『あんたの部屋は男の子臭いからイヤ』と、暗に非難されているのは明らかだ。でも、しょうがない。

 と、思うことにした。考えてみれば、杏子は小さいころからずっと、母ひとり娘ひとりで、男っ気なしで暮らしてきたんだ。

 おれにしたって、『年頃の女の子』のデリカシーは理解できないし。


 朝食を終えて、おれは皿を洗う。

 杏子はTVのスイッチを入れた。

 モーニングニュースの番組をやってる。

《お早うございます。ただいまの時刻、7:30分です。今朝は晴れ間が見えています。これからご出勤のみなさま、気をつけて、行ってらっしゃいませ》

 爽やかな笑みを浮かべて、女性アナウンサーが言った。

「もうこんな時間なの! 急がなくっちゃ」

 慌てて、杏子は立ち上がった。

「おい、そんなに慌てなくてもいいんじゃないのか?」

「……あ、そっか。この家からだと、学校に近いんだっけ。そうか、あたし、雅人の家にいるんだわ」

 先週までとは違う環境にいることを、このとき、彼女は急に実感したのかもしれない。

「じゃ、準備してくるわ。いつまでに家を出ればいいの?」

 杏子は2階に上がっていった。

 トントントントン……

 階段をのぼる小さな足音が、リズミカルに響く。

 この家で、あんな小さな足音なんて今まで聞いたことはなかった。

 おれは洗い物の手を止め、しみじみ思った。

 そうか、おれはいま本当に、女の子と一緒に暮らしているんだ……。


         *


 東京都武蔵野市。つまり吉祥寺。

 駅からバスで15分の距離に、私立旭野あさひの学園高等学校はある。

 明治の末に創立して以来の、生徒の自主性を尊重する教育方針と、自由闊達な校風で名高く、海外からの帰国子女の受入れにも積極的である。

 校門の両側には、学園のシンボルにもなっている、樹齢4、5百年を経ているという一対の銀杏の大木が立っている。

 降りつづく雨を受けて、銀杏の葉は日ごとに緑の色を深めていた。


 おれと杏子は、銀杏の下を通り抜けて、昇降口へと向かった。

 校門を入って正面に見えるのは、赤レンガ造りの旧校舎……別名、南校舎。で、職員室や特別教室があるが、一般生徒の教室は、その奥にある3階建ての新校舎だ。

 おれたちの教室は1年C組。新校舎の3階にある。

「おっはよーさん! 山本くん、伊藤さん」

 下駄箱で上履きに履き替えていると、勢い良く、おれの背中を叩いた女子がいた。

 振り返ると、日焼けした少女が、にこにこ顔で立っていた。

 身長は杏子と同じくらいで、体重は少し多め。ふっくらした両頬に、くっきりえくぼが浮かぶ。肩まで伸ばした髪を二つに分けて、耳の下で束ね、細いリボンを結んでいる。

 同級生の、秋津直子だった。

「なんだ、秋津あきつか」

「おはよう、直子なおこちゃん」

「一緒に登校かあ。お熱いなあ! じゃのうて、ふたりとも、きょうだいになったんじゃもんなあ!」

 秋津直子は岡山県出身で、中学2年のとき、おれと同じ学校に転校してきた女の子だ。

「今日からは二人とも山本さんて呼ばんといけんね?」

「考えたんだけど、あたしのほうは、伊藤で通すことにしたわ。ふたりも山本がいたら、混乱するでしょ」

「それも、そうじゃ」

 屈託のない笑顔で、秋津は明るく笑った。


「おーっ、来た来た、山本!」

「杏子ちゃん、おはようっ!」

 予想はしていたが、教室に入った途端、クラスの奴らがどっと集まってきた。

 クラスメイト同士の親が再婚して、同い年のきょうだいになるなんて、世にも珍しい経験をしたおかげで、おれたちはクラス中の、いや校内中の注目を浴びている。

「どうだった、ご両親の結婚式!」

 こう尋ねたのは、クラス委員の上村洋子。

 真面目で、メガネをかけていて、第一印象はどうもお堅い感じがするのだが、話してみると気さくな、浅草生まれの女の子である。

 よく見ると、顔も可愛いし、メガネがよく似合っているのだ。

「素敵だったんでしょうねえ」

「二人とも中年で、再婚だけどな」

「そんなのは構わないわよ。ロマンチックだわ」

 上村が話しかけたのをきっかけに、クラスの皆が質問を浴びせかける。

「ふたりはもう一緒に住んでるの?」

「これから、山本がふたりになるのかあ! 」

「いいな、雅人。杏子さんが妹だなんて、羨ましいなあ~」

「……ちょっと待ってよ」

 教室に入ってからずっと黙り込んでいた杏子の我慢が、限界にきた。

「あたしは、山本にはならないことにしたわ。これまでもこれからも、伊藤杏子よ。勝手に決めつけないで。それに、こいつの妹なんかじゃないから!」

 シ──ン……

 水を打ったように、クラス中が静まり返った。

 杏子はいつも明るくて、誰にでも親切だし、男女問わずみんなと仲がいいけど、怒らせると怖いってのは、誰もが認めるところだ。

 決して、理屈の通らないことではキレない。正しいことでしか怒らないから、彼女の怒りをかうような奴が馬鹿なのである。

「……そうね。杏子も山本くんも9月9日の午前11時生まれだもの。アストロ・ツイン……占星術上の双子。どちらかが年上とはいえないわ」

 クラスの奴らの人垣の後ろから、静かな声が響いた。

 背の高い、大人びた面ざしをした少女が、ゆっくりと歩み寄る。

 背中の半ばまで届いている黒髪がなびいた。

 今すぐにでもファッションモデルになれそうなスタイルのいい長い脚に、膝上のスカートの細かいプリーツが揺れてまつわりつく。

 並河香織(なみかわ かおり)。クラスの中でも、ひときわ落ちついた雰囲気のある、美少女。可愛いというより、ただひと言、『綺麗な』少女だった。

「おはよう、杏子。お母さんの結婚式、ステキだったね」

 色の白い、ほっそりした顔に、穏やかな微笑みが浮かんだ。

「香織!」

 ほっとしたように、杏子の顔に笑みが戻る。

 杏子の幼なじみで、大の仲良し。占星術がどうの、とは、彼女らしい言い回しだ。並河香織は、占いが得意なのだ。

 それも、ものすごくよく当たるらしいと、もっぱらの評判。

 クラスの女子に頼まれて、休憩時間に恋占いなんかしてると、他のクラスからも、占って欲しいと女の子たちが尋ねてくるほどなのだ。

 ……霊感少女……と、

 ひそかに噂する向きもあるが、彼女は取り立てて自分には霊感めいたものがあるなどと言ったり、自慢するようなことはしないから、真偽のほどはわからない。

 大人っぽくて、もの静かで、成績は全校でも片手の指に入る。

 美人で頭もいいが鼻にかけることがないし、優しい。そんな彼女に憧れる者は数多いけれど、交際している相手はいないようだ。

 ちなみに、人気のランクは杏子も学年で1、2を争うくらいなのだが、特定の彼氏がいないらしいことでは、同じである。

 おれ?

 おれはもちろん、彼女はいないし、付き合った経験もない。

 自慢にもならないけどね。

「こらっ、騒いでるのは誰だ。ホームルームだぞ、席につきなさい!」

「わーっ、キシワダだ!」

「おはよーございます、先生」

「おう、おはよう。みんな、元気にしてるか」

 担任の岸和田保(きしわだ たもつ)が、教室に入ってきた。

 29歳、花の(?)独身。痩せていてひょろっと背が高い。ちょっと貫祿には欠けるが、穏やかそうな外見に反して、意外と熱血漢だ。

「静かに! 出欠を取るぞ。相田……」

 男子の一番から出席簿を読み上げていた岸和田は、女子に移る前に、咳払いをした。

「えー、伊藤……伊藤杏子」

「はい!」

 杏子は力いっぱい、返事をした。

 岸和田は出欠を取るのをいったん中断した。

「途中だが、言っておく。伊藤と山本のご両親が再婚されたのは、みんなも知っての通りだ。ふたりとも山本になるかというと、そうじゃない。伊藤の希望で、名字はそのままだ。間違えないように!」

「そうだよね、山本がふたりもいたら混乱するよね、先生」

 窓際にいた充が、大声を上げた。

「そういうことだ。はっははは」

 岸和田はがさがさと笑い、そして、また真面目な顔になって、つづけた。

「山本、伊藤。急に家族になって、戸惑うこともいろいろあるだろうが、おまえたちなら、だいじょうぶだと思う。自分の行動に責任を持て。先生の言うことは、それだけだ」

「はい!」

「もちろんです」

 おれと杏子は胸を張って答えた。

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現在、全面的に見直してます。
高校入学前のエイプリルフールでのお花見事件から始まり、
4月、5月のエピソードを追加して書き込んでいったり、文章の見直しをした
「妹なんかじゃないっ」というタイトルにしたものを、新たに連載始めました。
どうぞよろしくお願いします!
妹なんかじゃないっ
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