第6章 その2 悩め!青少年
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話の発端は、おれの義理の妹、杏子が美人で性格もよくて人気者で、とにかくモテることから始まる。
クラスメイトの川野昭二は、あからさまに杏子に好意を示していたのだが、思い切って告白して「お友達から始めましょう」などと言われたものの、実質、一回もデートさえしていないと、おれは相談を受けた。
おれだって杏子のことが好きなのに、なんで他の男との仲を取り持たなきゃならないんだ!?
先日行われた、おれたちの高校の文化祭、銀杏祭の打ち上げという名目で有志を募り、集団デートすることになってしまった。
しかし面白がってアドバイスしてきた葉月姉のシナリオ通りに事を運んだ結果、会場は超有名な、巨大遊園地に。
入場料は一人5,500円。えらく高いと思ったが、後で充から聞いたところによるとアトラクション乗り放題になるのだそうだ。しかし、園内レストランでの飲食や土産物などの買い物は別途、支払う。
そのために、金欠の不安に脅かされることになった、おれの様子は、杏子に疑いを抱かせるには充分であったらしい。
葉月姉からの手紙を後生大事にカバンにしまい込む、おれを、杏子はずっと見ていたのだったが、やがて、言いにくそうに、こう切り出した。
「ねえ、雅人……もしかしてホントに、お金に困ってるんじゃないの? それなのに、いつの間にか文化祭の打ち上げを取りまとめる幹事みたいになっちゃって。やめたくても断れなくなってない?」
「いや、そんなことはないよ」
「だって、葉月姉さんの手紙…」
杏子は本気で心配していた。
葉月姉から届いた手紙に同封されていたもの。
電車の隣駅にある「蓬莱」というラーメン屋でバイト募集をしているというメモ、そして連絡先の携帯番号。
杏子の問いにはあくまで意地を張り続けたが、実は明らかな金欠病予備軍であるおれにとっては、非常にありがたい情報だった。
けれどもそれは杏子には言えない。
兄として男として、どういう場合でも、弱い部分なんか見せられない。
バカだな、おれ。
「だから、葉月姉も気を回しすぎなんだって! 親父から生活費は受け取ってるし、おれは無駄遣いもしてないだろ。ほんとに金に困ってなんかいないし、杏子は何にも心配しないでいいんだから」
おれは言い訳を並べ立てた。言えば言うほど、どこか嘘くさくなっていくのを自覚しながら。
ついに杏子も折れる。どちらかが譲らなければこの不毛な議論も終わらず、どうにもならないのだ。
「……それならいいけど。困ったことがあったら、お互いに絶対、相談することって、決めてたじゃない。雅人、嘘はだめよ。なんでも打ち明けてね!」
杏子の前で、おれは葉月姉のラーメン屋情報メモをゴミ箱に入れた。
しかし、夜中にトイレに起きたとき、やっぱりメモは回収してとっておくことにした、小心者のおれであった。
杏子に気づかれずにバイトするなんて、無理なのになあ。
だけども、さ。
おれの中の「もう一人の、おれ」あまのじゃくで頑固なおれが、人に合わせて小市民的平和に浸かろうとしているおれを、せせら笑う。
「なあ、雅人よ。いつからそんなお人好しになったんだ? 誰かにお膳立てされたとおりに行動するなんて、バカじゃねえ?」
そして言うのだ。
好きな女の子を他の男とくっつけるために苦労するのか?
どんだけバカか? マゾか?
それはおれの、真実の声だった。
考えろ。
考えろ!
高校一年。好きで入った野球部を辞めたのは、自分が本当は何がしたいのかについて考える時間が欲しかったから、だったはず。
なのに、現在、おれは。
いったい何をしてる?
*
なかなか眠れなかった。
ベッドに転がり、寝返りばかり打っていた、おれは、ふと、はっきり目覚めた。
金木犀の香りがした。
金木犀?
もう花の季節は過ぎたんじゃなかったか?
起き上がってみたら、床に、オレンジ色をした小さな十字型の花が、いくつも散っているのに気づいた。
この季節にはあり得ない、金木犀の花が。
そっと起き出して、香りをたどった。
廊下に漂う濃密な花の香りと、誰かの足跡のように落ちている小さな花。それは、杏子の部屋に続いていた。
どういうことだ?
おれは何も言わず佇んでいたが、杏子は気づいたらしい。
「眠れないの?」
やさしい声がして、部屋の扉が開いた。
「雅人。どうしたの?」
「あ、いや、なんでもない。寝付けなかったんで、ちょっと、トイレに」
「何を言ってるの。ばかね」
杏子は軽く首をかしげて、おれをじっと見る。
「最近、ちょっと変よ。雅人、悩みがあったら、あたしにも教えて。……葉月姉さんにばかり、相談するのはやめて。あたしも知りたいの。雅人の悩んでることなら、なんでも、知りたいのよ」
ふいに、金木犀の花が、部屋から歩み出た杏子の足元に飛び散った。
「あたしは雅人が心配なの! だって……家族でしょ?」
胸が詰まる。
ものすごく大事なことを杏子は言ってるのに、めまいがして、足元がふらついて、倒れ込んでしまう。
このまま、溺れてしまいそうだ。
「雅人! 雅人!? しっかりして!」
オレンジ色にあたたかく光る水底に沈む、おれに、杏子の声が降り注ぐ。
水底から陽の光を見上げたら、きっと、こんなにキラキラ輝いて見えるんだろう……。
家族。
……ああ、そういうことか。
思い出したことがある。
小さい頃、よく出会っていた、いつもおれを案じるような表情で見ていた、あの少女は。
現在の杏子に似ていた……あれは。
以前に見たことがある、母さんの若い頃、まだ親父と結婚するより前の、学生の頃の写真に生き写しだった。
桜咲く季節に、
ずっと、おれを見守っているからと言い残して……
母さん。
金木犀の季節に生まれたから、その花にちなんで桂花という名前だったんだと、親父が昔、言っていた。
母さんに出会ったのも秋、金木犀の咲く季節だったって。
だからその季節になると親父は無口になっていた。普段、軽薄でお調子者のほら吹きな親父のくせに。
昔はずいぶん寂しがりやの子どもだった、おれ。
見ていられなくて、母さんが居てくれたんだろうか。それとも、おれの妄想が、母さんに似た面影の少女を見せていたんだろうか。
「昔から、雅人は、自分の好きなお菓子をひとに譲ってしまったりしていたわ。バカな子。だから、放っておけなかったの」
金木犀の香りのする宵闇の中から、懐かしい声が、胸に流れてくる。
「充くんもいるし、友達が大勢できたから、もうだいじょうぶと思って手を離したのに。しっかりしなさい」
今はもう聞こえるはずのない声が、やさしくおれを包む。
「大切なものは、絶対に離してはいけないのよ……自分を信じて、伝えるのよ」
*
「ごめんね。ごめんね、雅人」
気がついたら杏子がおれの手を強く握って、ぽろぽろ泣いていた。
「雅人だって、寂しくて心細かったことがあったのよね。あたし、自分の不満ばかりぶつけてた。あたしに気づいて、構ってほしいって、小さい子みたいに」
そしてまた、ひとしきり、泣く。
「あたしたち、誕生日は同じなのよ。ひとりでお兄さんぶらないで。あたしは妹なんかじゃない。あたしにも頼ってよ……」
「ごめん」
床が冷たい。廊下にぶっ倒れたらしい。
最近よく眠れなかったせいもあったろう。
「……ごめんな」
おれはただただ、おとなしく横たわったまま、謝っていた。
妹なんかじゃない。
そうだ、その通りだ。
おれにとって、杏子は。
妹なんかじゃない。
誰にも渡したくない、大切な、特別な女の子だ。
改めて、そう意識した。
それなのに、川野昭二から頼まれてデートのセッティングをする?
なんてバカなんだ。
……なんで、こうなった?
その夜、おれは高熱を出した。
風邪とか病気ではなかったようだが、とにかく熱に浮かされ、なんかうわごとを言ったらしい。おれは朦朧としていたが、杏子はずっと優しくて、一晩中、おれに付き添って、世話をやいてくれていた。
幸い、翌日は日曜だった。
朝、杏子から連絡を受けて、おばさんから託された大量の食べ物の差し入れを持ってやってきた充は、
「知恵熱だろ? 雅人も悩める青少年ってことだね!」
あっさりと言ってのけたのだった。




