第5章 その2 銀杏祭 前半
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葉月姉の大学祭からしばらくして。
おれたちの学園でも、文化祭の準備が始まった。
毎年、よその高校よりいくぶん遅い、11月の初旬に、おれたちの通う旭野学園高等学校の学園祭……文化祭が開催される。
今年のテーマは『伝統文化と現代』で、サブタイトルが『郷愁』。これは生徒会役員の会議で決まった。
という訳で、体育祭の興奮も醒めやらぬまま、学園中が準備に追われていたのだった。
おれたちのクラスのテーマは『執事カフェの感謝祭』
この何だかコンセプトがよくわからないテーマは、男子の「お祭りやろうぜ!」と、女子たちの「絶対カフェ! 執事カフェよ。メイドも許可」という、そのままでは平行線の主張を合体させたものである。
学園全体のテーマにもあっていないことも……ないかもだ。
クラスの催し物は順調に決まっていった。
『執事カフェで、メイドカフェで、それで感謝祭の縁日やってるってどう?』
面白ければなんでもありの意見が多数。
コスチュームは、家が洋裁教室をやっているという神崎美穂と、家庭科クラブの女子たちが担当。
クラス半々でそれぞれカフェカウンター席を作ることにし、ヨーヨーつりと金魚すくいをその中間に目玉コーナーとして配置する。
岸和田先生の幼なじみで、本物の金魚屋をやってるって人がいたおかげで、50匹の金魚を提供してもらえることになった。
もし金魚が残ったら、クラスで責任を持って飼う約束だ。
数日して、生徒会から、文化祭のポスターも配られた。
学園のシンボルにもなっている、校門のところの2本の銀杏の木のイラストと、
《私立・旭野学園高等学校創立100周年・銀杏祭》
と、太い文字が描かれている。
各クラスに5枚のノルマ。
これが何かというと、文化祭の宣伝のために、町でポスターを貼って欲しいという要望なのだ。
今年の生徒会は、前年にもまして精力的だという評判だった。
生徒会長の大野ユカリさんは、2年生。
見た目は華奢で、痛ましい感じさえする美少女。
英語、中国語も堪能で、成績は常に上位。相当の切れ者という噂だ。先生たちにも頼りにされてるとか。
副会長は同じく2年の、なんだかボーッとして冴えない、男子生徒だった。名前は滝川……なんていったっけ?
まあ、いいか。男の名前なんて……
ポスターを貼る役目は、あみだくじで決まった。
おれ、充、川野、宮倉、秋津。
これって、ホントに偶然か?
*
放課後、おれは充と組んでポスターを張りに出た。
こころよく張ってくれそうな店は、当然ながら他の奴も狙っているから、早いもの勝ちなのだ。
「雅人、おまえ最近、杏子さんを怒らせた? なんか避けられてるんじゃないの」
「バカか!」
きっぱり否定したものの、実は内心の不安を言い当てられたから、驚いた。
充はときどき妙に勘がいい。
そうだ……一緒にアルバムを見ていたあの日から、杏子の態度が変わった。
前みたいに日課のようにおれを殴ったり蹴ったりのスキンシップ(?)がなくなったし、
朝は起こしにこないし、なんだか他人行儀なのだ。
だいたい、おれの半径1メートルくらいに近寄らなくなってしまったのだから、いったい、どうなってるんだか。
おれと充は手分けをして、吉祥寺駅に近い商店街をぶらついた。
大手の書店やショップは、本店に許可を得ないと返答できないというところがほとんどだった。仕方ない。
バス通りに面した、小さな書店に入ってみる。
「こんにちは、旭野学園の1年生です。文化祭のポスターを張らせていただけませんか」
「ああ、いいけど、うちにはもうおたくのポスターを張ってありますよ」
人の良さそうな、白髪頭のお祖父さんが答えた。
外に出て確かめると、入口に《銀杏祭》のポスターがすでに貼ってあった。
そのポスターの向こうに……
信じがたいものが見えた!
さっきの書店の中に、杏子と川野昭二がいるじゃないか!
ふたり揃って、仲良さそうに、音楽情報の雑誌なんか見てる。
「あれっ、あのふたり……」
おれの後ろにいた充が、それを目敏く見つけた。
「なあんだ、先越されちゃったね、雅人」
先を越された。
充はポスターのことを言ったのだろうが、おれにとって、ずいぶん意味深に響いた。
その日、杏子の帰りは遅かった。
実際には深夜になったわけではなかったが、夕飯の支度をし、いらいらしながら待っていた身には、ことさらに遅いように思えた。
「はーっ、疲れた。ただいまー、雅人」
「お帰り。そこへ座れ、杏子!」
「なぁによう~」
きょとんとした大きな目をくりくりさせて、杏子はリビングのソファに腰掛けた。
「ずいぶん遅かったじゃないか」
「あっ……ごめーん。香織や直子ちゃんたちと文化祭の打合せしてたの。遅くなるって連絡入れるのを忘れてたのは、悪かったわ」
「ふーん。本当か?」
やばい。
自分でも、どんどんイヤな奴になっていく。
「……雅人、何を疑ってるの?」
「今日、川野昭二と一緒にいただろう。書店で見かけたんだ」
「やめてよ、そんな話なら聞きたくないわ!」
杏子は立ち上がって、2階へ向かった。
「待てよ、まだ話は終わって……」
おれが追いすがり、肩にかけた手を、杏子は激しく振り払った。
「触らないでよ! あたしを監督するつもり? 兄さんでもないくせに!」
その瞬間、おれはカッとなって、手を振り上げていた。
「あたしをぶつの!? ぶつっていうの?」
杏子の声にハッとして、我に返った。
乱暴な衝動を押し止める。
(何をしてる? 杏子を殴ろうっていうのか!?)
もしも、彼女に手を上げていたら、そのとき、ふたりの暮らしは永久に終わりを告げていたのに違いない。
呆然として、振り下ろした自らの拳を見つめているおれは、さぞ滑稽だったろう。
「雅人の、バカァーっ!!」
泣きだしそうに叫んで、杏子は2階の自室へ駆け上がり、それきり降りてこなかった。
*
おれと杏子はほとんどろくに口もきかないまま、文化祭の当日になった。
天候に恵まれて、旭野学園の名物、大銀杏の校門が開放されると、学校全体が各クラスや部主催で趣向を凝らした会場になった。
入口を締め切って暗くし、会員制高級ディスコ風にしたクラス。
いかにも胡散臭い見せ物小屋風の設えにしたクラス。
お化け屋敷もあり。
柔道部の自信作のフィールド・アスレチックのコースでは、タイムトライアル挑戦者を募集中。
教室を使って展示スペースを作り、研究発表をしている部活もある。
部員は上級生のお姉さんがほとんどという噂の美術部は、イラストを展示する傍ら、コピーで作った小冊子を売っている。美少年が何人も登場する恋愛マンガだという噂だが、内容はこわいので考えないことにした。
無料で配られる新聞部の文化祭速報……数時間おきに進行状況やトピックスを満載している号外新聞……と、盛り沢山。
なぜか校庭の一画には学校職員の特設ステージがあって、バナナの叩き売り、綿飴づくり、南京玉すだれに人形カステラ焼きだのを、先生たちが実演していた。
サングラスをかけ、秋も深いのに半袖アロハ姿の岸和田先生のバナナの叩き売りは、はまり役だった。
学長自らが大のイベント好きだという噂は、本当かもしれない。
学園丸ごと、お祭り騒ぎ。
そんな中で、自画自賛ながらおれたち1年C組の企画は好評だった。
「おかえりなさいませご主人さま」
本格的なコスチュームもばっちり決まった執事とメイドが出迎えて、入口には縄のれんが下がり、ガラスの江戸風鈴が、涼しい音を響かせている。深まる秋には少しばかりミスマッチだけど、過ぎていった夏を懐かしく思い起こさせる。
金魚すくいは、予想外に受けた。
壁の一面を飾っているのは、宮倉宗一の撮りためていた、花火の写真だ。夏休み中、花火大会を追いかけていたらしい。こんな趣味があったとは知らなかった。今は、やたら体格のいい執事に扮しているが。
メイドカフェでは、クラス委員長の上村洋子が親戚のケーキ屋に作ってもらったショートケーキとコーヒーを出す。メイド服の女子たちがアイスコーヒーから抹茶までを運ぶサービス中で、杏子や並河たちが奮闘中だ。
それにまじって同じくメイド服に身を包んだ沢口充が注文を受けたりコーヒーを運んでいることについては、かわいそうだからノーコメント。
恋は、ほれている方が圧倒的に不利である。
おれの経験による格言だ。
教室の後ろの特設コーナーでは、カセットコンロに、お好み焼き鉄板にタコ焼き器まで持参した秋津直子が、大量のお好み焼きをこしらえる。その傍らで、助手の名越森太郎が、黙々とタコ焼きを作りつづけていた。
こっちも食欲の秋の虜たちに大人気だった。
「キャ──ッ、うっそー!? 本物ーっ?」
入口で、女の子たちの黄色い歓声があがった。
「盛況みたいね」
縄のれんをくぐって姿を現わしたのは、大野ユカリさんだった。
男子女子問わず、全校生徒から絶大な人気を集める生徒会長。
杏子より少し背が高い。ヘアバンドで押さえた長い栗色の髪はサラサラ。色白のほっそりした顔に、すっと鼻筋の通った目鼻だち。毅然とした、美少女だ。
(杏子だって、ほんのもう少したてば、すごい美人になると思うんだけど)
きりっと着こなした冬の制服の袖に、『役員』の腕章。
クラスの女子が騒いだのは、彼女の後から、女子に人気の藤沢由記と、それからなんという名前だったか……生徒会副会長の2年男子が一緒に入ってきたせいだ。
藤沢と、彼よりは小柄な副会長も、役員の腕章をつけていた。
間近で見ると、藤沢由記はまさに文句のつけようのない美形だった。
身長は175まではないか……。肌の色が白くて、黒い髪と明るい灰色の目の対比が、不思議な印象を与える。
美形なんだが、人の良さそうな笑顔で、終始ニコニコしていた。
「盛況ね。ところで、アイスコーヒーいただける?」
右手で髪をかきあげ、ほうっと息をついて、生徒会長が椅子に腰を下ろす。
「は、はいっ、ただいま!」
宮倉宗一が、大慌てで喫茶部の裏手に引っ込んだと思うと、間もなく、氷を浮かべたアイスコーヒーを運んできた。
「ありがとう。ここは感じのいいところね。人気があるようよ」
ごくごく飲み干すと、代金を置いて席を立ち、金魚すくいに興じている藤沢由記にそっと近づく。
彼は振り返り、にこっ、と、
「全然、すくえなかったよ」
子供みたいな顔をして笑った。
「由記は逃がしてやってるんだろ」
隣にいた副会長が、自分のすくった金魚を分けてやると、これまた無邪気に喜ぶ。気持ちいいくらいだ。
……彼は性格がいい、って意味が、わかったような気がした。
「じゃあ、みんな、午後もがんばってね」
にこやかな微笑みを投げかけて、生徒会長たちの一団は去っていった。
華やかな退場である。
「あ~あ、やっぱりね」
クラス委員の上村洋子が溜め息をついた。
「やっぱり、って」
「藤沢由記くんと、生徒会長は、一年のときからの公認カップルなのよ。かなわないわ」
なるほど、納得した。
無知なおれにも、あのふたりを包んでいた、落ち着いた空気といったようなものが感じられたのだった。
……愛って、本当にあるんだろうか。
ふと、そう考えた。
おれの親父も、杏子のおふくろさんも、一生を共にすると思っていたんだろう相手に死に別れて……それでもまた、誰かを好きになる……
それも、愛?
杏子が好きだ。
だけど、『好き』という思いと同時に、おれは、恐かった。
いつか彼女も失ってしまったら……?
何かを手に入れる前に、やみくもに、おれは恐れに捕らわれていたのだ。




