第4章 その4 体育祭
4
そして、10月10日。
体育祭の朝、花火が上がった。
開催するという合図だ。
「やったね秋晴れ! なあなあ雅人! 楽しみだなあフォークダンス!」
「充、おまえいきなりそれか! バカかー!」
「だって女子と大っぴらに手をつなげるんだよ?」
「……中学生かよ」
「でも心配なんだよなぁー。並河さんって背が高いから……手を取り合うっていうより、おれがぶら下がってるみたい、なーんてな!」
自分で言うか!
見事なまでの秋晴れの空の下、おれたちは走り、転び、ゴールを目指す。
100メートル走、400メートル走、だるま転がしレース、むかで競争、棒倒し、障害物……借り物競争。
「名越くーん、がんばってー」
「いけー、森太郎」
遅れをとりながらも懸命に走っていた名越森太郎が、品物を書いた紙を拾う。
眼鏡をかけ直して、ためつすがめつ眺めたあげく、クラスの応援席に駆けてくる。
「誰か、ポンポンを貸してくれないか?」
チアガールに加わっていた秋津直子が、手に持っていた房を、名越に投げる。青い空の下に、鮮やかなピンク色のポンポンが弧を描いて飛んだ。
「ありがとう、秋津さん」
「がんばってな、森太郎くん! ウチ応援してるわ」
借りる物がなんになるかの運で、この競技はかなりの差がつく。誰より早く、名越はコースに戻って走り出した。
秋津直子の熱烈な応援のおかげか、名越森太郎は見事、2位に入賞した。
「やったな、森太郎」
「僕、体育祭で入賞したの初めてだよ。こういうの、嬉しいね」
興奮気味に、名越は上気した頬をほころばせる。いつもより顔色がいい。
その調子で、もっと元気になるといいな。
旭野学園の体育祭は、賑やかに進行していった。
スプーンレースに職員参加リレー。
昼食の休憩時間にグラウンドの真ん中に躍り出て、得意の『どじょうすくい』を披露する者までいる。
この学園って、色モノというか『楽しければいい』系の競技が多いな。
応援合戦も華やかで、どのクラスもチアガールが粒揃いだった。
その中でも、我がクラスはかなりいい線いってると、自信を持って言い切れる。何しろ、
チアーリーダーは杏子だ。
競技が進むに従って、各クラスの合計得点がボードに表示され、順位が見えてきた。
1-Cは、奮闘中。
現在のところ1年生のクラスではトップだ。
だが、最終的な順位はまだわからない。
最後の競技、クラス対抗リレーの結果次第で、順位は入れ代わるかもしれない。
女子リレーの第一走者は杏子だ。
なみいる他の走者をぐんぐん引き離していく。
「すごい、杏子さん、早い、早い!」
最初は躍り上がって応援していた充だが、アンカーの並河香織の手に赤いバトンが渡ると、途端に、黙り込んだ。
杏子の後の選手たちが次々に追い抜かれたため、並河がスタートしたときには半周ほど遅れている。途中の遅れを取り戻そうとして、素晴らしいフォームで駆けていく、長身の並河香織の姿を、充は夢中で追いつづけていた。
……本当に、好きなんだなぁ。
人のことは言えない。
おれもふと気がつけばグラウンドに杏子の姿を捜し求めていた。
《男子クラス対抗リレー出場者は、入場ゲートに集まってください》
運命の瞬間を告げる、アナウンスが響く。
宮倉宗一、竹内司、進藤佑太郎、小林七生、白井豊。そして、おれと充、川野昭二。
「いまさらアガってバトンを落とすなんて、なしだぜ」
冗談めかして、宮倉が笑った。
他のメンバーもつられて笑ったが、みんなの笑顔は少し強張っていたかもしれない。バトンタッチの練習は何度もやったけど、やってほしくないときにこそ、事故は起こるものなのだ。
「フレー、フレー、1年C組!」
ゲートで待っている間、ずっと声援が聞こえていた。
どこにいてもよくわかる、張りのある可愛い声。
杏子だ。
おれが走るときも、やぐらの上で手を振って応援してくれるかな。
メンバーは8人、各人がそれぞれ200メートル……トラックの一周を走る。合計1600メートルのリレーだ。
体育祭の花形競技である。
「位置について……用意」
一瞬ののち、ピストルが鳴った。
スタートと同時に飛び出していき、他の走者よりもう身体ひとつは先に抜きんでているのは、おれとアンカーの座を奪い合った川野昭二だった。
意地でも、自分が他のクラスを大きく引き離してやると思っていたようだ。あとが続かないくらい、かっ飛ばしている。
……おれだって、負けるもんか!
このリレーの結果で、全ての勝敗が決まるのだ。
今までの練習の成果。
ここ半月の努力の結果が、いまこそ!
川野が杏子と付き合いたいと申し出たとき、おれは条件を出した。
ひとつは、彼女の意思を最も尊重すること。
そしてもうひとつ。努力することをしない奴を、可愛い妹(姉)の交際相手として認めるわけにはいかない。
つまり、リレーで結果を出してみろと挑発したのだ。
川野は賭にのった。
それ以来、ずいぶん熱心に練習するようになったし、人を小馬鹿にしたような言動も、鳴りを潜めた。
おれは少し、奴を見直し始めている。
(仕方がないんだ。だって杏子はおれの家族で、大事な妹。いつかは誰か、好きな相手を見つけて、幸せになって欲しい。だから……)
気に食わない奴でも、杏子にとって、いい相手なら。
そう思い、願うような気持ちで、川野を見守っていた。
奴は最終コーナーを周り、コースの終わりに近づく。次のランナー、宮倉宗一が助走を始めた。川野の持ったバトンが受け渡される、そのとき。
ウワ──ッ!
ふいに、どよめきが上がった。
……そんなバカな!?
手渡す瞬間だった。川野の手からバトンが滑り、地面に落ちて跳ね返った。
次のランナー、宮倉宗一が、蒼白になって、バトンを拾いあげた。
ここまでは時間にして、ほんのわずか。だが、失ったものは大きい。その間に、他のクラスに次々と抜かれてしまった。
宮倉、竹内、進藤、小林、白井、そして充……みんなはがんばって遅れを縮めていったが、なかなか、追い越せない。
「雅人、頼む!」
必死の形相で、充が駆けてきた。
差し出されるバトンに託された、みんなの気持ち、努力を込めて、おれは受け取り、後をも見ずに走り出す。
スタートをきったら、もう何も考えなかった。
川野がミスったこと。
リレーの結果。
バトンが渡されるまで、いろいろ考えていたことが、いざ走り出したら、急にどうでもよくなってしまった。
足が軽い。どこまでも走れそうだ。
好調なスタートだった。
前を走っているランナーの背中が、みるみる近づいて、後ろに消えていく。
風が、心地よかった。
「まさと──っ! 雅人!! がんばって!」
杏子の声が、降ってきた。
建設現場で使うやぐらを2段に組んだ上に、水色のTシャツとテニスウェアのスカートを着けた杏子が、落っこちるんじゃないかと思うくらい、元気良く飛び跳ねている。
……好きだ!
その想いが、ふいにこみあげてきて、胸のあたりを暖かみで満たした。
……おれは杏子が好きだ。
胸にいっぱいの暖かい想いが、疲れ切った身体を動かす。
おれは、好きで走っている。
自分自身のために、全力で走っている。
けれど。
ふっと、杏子の笑顔が浮かんだ。
コースの先にあるものは……
目の前が白くなり、足がもつれて、おれは前に倒れ込んだ。
倒れるとき、ゴールのテープを胸で切った、らしい。
「やった、やったぜ、雅人! 一位だよっ」
充が駆け寄ってきて、おれに教えてくれた。
リレーの得点を加えた結果、最終的に、おれたちの1年C組は、全校で3位の成績をおさめた。各学年に6クラスずつあるから、かなりいい成績である。なんの賞品が出るわけでもないが、みんな、単純に嬉しかった。
こうして、体育祭は盛況のうちに終わった。
『みなさん、各人でゴミを集めて下さい。クラスごとにゴミ袋を配ります』
生徒会会長、3年の関野由里さんのアナウンスが、校庭に流れた。
全員でゴミを集め、やぐらを取り壊し、後片付けを終えた後で、運動場の隅にキャンプファイヤーが焚かれる。
そしてフォークダンス!
男女手を取り合って…なんて、いまどき、どうよ?
何度も練習したステップで。
一人ずつずれていく手と手。
杏子とも手を取って踊って。
また、離れていく。
何もかも楽しいけれど…寂しい。
深まりゆく秋の夕暮れは、日、一日と早くなっていた。
空は高く、重なり合う層雲が太陽の残照を受けて紅に染まる。
しだいに暗くなっていく空。
オレンジ色の炎が長く伸び、火の粉を散らせた。
ひとつの祭りの終わりを告げる、かがり火を、おれはじっと見つめていた。
焚き火のはぜる音を聞き、炎を見つめていると……なんともいえない、心持ちになる。確かに全力を尽くしたのに、思い残すことなんてないはずなのに。
どこかで、何かをやり残してしまったような気がして。
楽しかった日々の終わりは、いつも少しせつない。
「雅人」
いつの間にか、おれの横に、杏子が佇んでいた。
おれたちは黙って炎を見つめていた。
どちらからともなく、自然に手をつなぐ。
つないだ手の温もりと、柔らかさを、おれは感じていた。
川野昭二と付き合うのかと、おれは問いたかったけれど……そんなことは聞かなくてもいいと思った。
杏子とおれは、家族という絆で結ばれているのだから。
そして、それは、何があっても、決して失われることはないのだ。
*
……数日後になって、紅白のリボンをいくつも結びつけた、ささやかなトロフィーと、賞状が届き、教室の後ろに置かれた。
トロフィーは学年の終了までそこに飾られた後、今年の年度と、クラス名を記したリボンを新たにくくりつけて、学長室へ戻されることになっている。




