第3章 その2 暗闇でドッキリ! 夏の怪談
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サマースクール一日目、宿舎の夜が更けていく。
男子と女子は別の棟だったが、消灯時間ぎりぎりまで、大部屋にみんなが集まって騒いでいた。食堂として遣われる12畳くらいある和室である。お茶や水を自由に飲める、サーバーが置いてある。
女子たちの話が弾むのは、どこのクラスの誰それが誰を好きだとか、噂話のたぐい。体操の高倉が夏休みに挙式したとか。
「高倉センセのお嫁さんって、すっごい美人なんだって!」
「先輩は式場に行ったんだって。あのセンセが、スーツ着てたのよ! 見たかったぁ」
そうかと思えば、全校女子の憧れの的、藤沢由記が留学期間を延ばした話題とか。
「ねえねえ、2-Bの藤くん、もう一年間、旭野学園にいるって」
「秋には本国に帰っちゃうんじゃなかったの?」
「最初の予定はね。それがね、彼女のために、少しでも長く一緒にいたいんだって」
キャーキャー、女子たちが金切り声をあげる。
「杏子も『藤沢くんってステキ』って言ってたろ。彼女がいるの知ってたか?」
「もちろん、知ってたわ」
てっきりがっかりしているだろうと思ったら、意外な返事。
「藤沢くんは最初から、いま付き合ってる彼女一筋だったの。そんなこと、常識よ。だからこそ、全校女子のアイドルになれるわけ。彼は誰のものにもならないんだもの。……まっ、雅人には関係ないわね」
女子の心理は、わからない。
憧れの藤沢くんはともかく、プールで溺れかけた杏子を助けてくれた監視員の青年とは、どうなってるんだろう。杏子のやつ水泳教室に入って、喜々として毎日のようにプールに出かけてったっけ。
おれは、肝心なことをなぜか聞けないでいた。
さて、夏といえばお約束のように、いつの間にやら、みんなの話題は、自然と怪談話に移っていった。
「……でな。ウチが前に住んどったとこじゃ、有名なのが廃業した○○病院の……」
「病院ってそういう話をよく聞くよね」
いつの間にやら、秋津直子と名越森太郎が意気投合しているっぽい。秋津は、あの後も森太郎の写真を撮りたいと追いかけ回して、しまいには避けられていたはずだったけど。
二人の、廃病院についての怪談が終わると、別の女子が手をあげた。
「これは、あたしじゃなくって、大学生の従姉妹の話なんだけど……ある山にね、友達同士で夜中に車で出かけたんだって。ちょっと有名なホラースポットっていう池があって。その池……本当は名前知ってるけど、言わないでって、従姉妹が。名前を口にするといけないんだって」
「やーだ、なんでそんな怖いところにわざわざ行くわけ?」
「怖い物見たさで。みんな、本心では祟りとかそんなのあるわけないって思ってたらしいの。でもね」
「でもって何よ!」
「急に、全員、これはやばいぞって感じたんだって。寒気がして、池のほうからなんか、やってくるような感じがして。怖くなって従姉妹が車を出してくれって言ったら、持ち主の子がね、こう言ったのよ」
一呼吸置いて、続ける。
「さっきからキーを回してる。エンジンがかからないんだ、って」
「ええーーー!」
「それでみんなパニクっちゃって、何度も何度もトライするけどエンジンかからなくて、そのうちね、池のほうから、なんか白いものがやってくるのが見えて」
話は終わりそうにない。
そのときだ。急に、扉のほうで、
ギギーッ
何かが軋むような、大きな音がした。続いて、その音は移動を始めたのだ。
ギシッ……ギシッ……ギシッ……
まるで何かがこちらへ、歩いてきているような。
そして気のせいではなく、天井の蛍光灯が、暗くなってきた。
「キャーーッ」
女子たちの悲鳴に、誰より驚いたのは、怖がりの充だった。
「どうしたんだよ~! やめろよ」
素っ頓狂な声をあげる。
「だ、だって、なんか……あの、腐ったみたいな臭いがするんだもん。沼みたいな…」
「やめろ! 沼とか言うなよ」
「ごめん! やっぱり話しちゃいけなかったんだわ」
従姉妹の体験談を語っていた女子は、うずくまって、泣きそうになっていた。
みんなパニック状態だ。
ふいに、並河香織が、無言で立ち上がった。
ゆっくりと、音のほうへ歩み寄っていく。
「並河! だめだ」
充が彼女を追った。
「だいじょうぶよ」
振り返りもせずに並河はその足音のようなものが向かってくる進路を遮るように、そこに立った。
「立ち去りなさい。縁のある者はここにはいない」
とても静かな声で、きっぱりと告げた。
パーン!
はじけるような、破裂音がした。
そして、急に、蛍光灯が明るくなった。
漂っていた腐臭も、消えた。
「もうだいじょうぶ。でも、その池の話は、あまりしないほうがいいみたいね」
そう言い残して、並河香織は、引き戸を開けて、廊下へ出て行った。
「並河!」
充が転げるように後を追う。
お邪魔虫かなと思ったが、放っておけない気がして、おれと杏子も『外の空気を吸ってくる』と言って、部屋を出る。
消灯前だからまだ宿舎は明るく照らされているはずなのに、どういう訳か、廊下はどこか薄暗くて、空気が重苦しいように感じた。
「並河さん」
追いすがった充を振り返り、並河は、
「沢口充くん。あなたは怪談って苦手でしょう? だったら、わたしには近づかないほうが、いいわ」
静かに、言った。
「…………!」
充は声を立てなかった。がくっと腰が落ちて、廊下にへたり込んでしまった。
「さっきはね、やってくるものが見えたから。だから遮った。あれは、どちらかと言えば古い、土地神のようなもの。畏れられるべきもの。さっきのような怪談とかの場では口にしないほうがいい存在だったの」
「わたし、昔から他人の事故や不幸が予めわかった。以前は後先を考えずに、見えるままに口にしたから……帰国してから杏子に会うまでは、友達はいなかった。そんな時、占いを知ったの。占いなら、それが当たっても人から恐れられはしない」
ワンピース姿の並河が、充の前に屈み込んだ。スカートの裾が床に広がる。
「本当に怖いって、どういうことか、あなた、知りたい?」
「香織!」
走り寄った杏子が、並河に飛びついた。
並河は勢い余って尻餅をつき、杏子を見やり、そして充を寂しそうに見つめて、そっと、右手を差し出した。
「ごめんね、充くん。後で嫌われたくなかったから、最初に言っておこうと思って。わたしと一緒だと、これから、もっと怖いことがあるかもしれない。……それでも……」
「いいんだオレ、並河さんとなら、どうなったって」
充は彼女を見上げ、差し出された手を握りかえした。
ふっと並河が笑う。
「充くんったら……」
そのとき、薄暗かった廊下が、急に明るくなった。
おれは目を見張った。
たぶん杏子だけが知っていたのだろう、並河の素顔は、噂や神秘のベールなど関係ない、ごく普通の少女だった。
おれはオカルトなどを信じていない。
だが、彼女の心に変化が起こったことは、あきらかだった。
並河香織は、立ち止まっていた場所から、新たな『一歩』を踏み出したのだ。
3
「おーい、雅人いる~?」
階下で充の声がして、おれは我に返った。ずんずん、足音が階段を登ってくる。
「ダメじゃん、雅人。いくら夏だって、玄関に鍵かけとかなくっちゃ、不用心だろ」
充が戸口から顔を覗かせた。
「変だな、鍵は閉めといたと思っ……」
みなまで言わないうちに、玄関のほうで、明るい声がした。
「ただいまー! あらっ、戸が開けっ放しじゃない! あたしは閉めといたのに」
杏子だ! おれはさっき杏子の留守中に部屋を覗いてしまったことを思い出して、ぎくっとした。
「お帰り。どこへ行ってたんだ」
精一杯、威厳を込めて問いただす。が、平然と切り返された。
「どこって、スイミングスクールよ。あたしはちゃんと行き先を言って出かけたわ。そのとき、雅人は昼寝してたじゃない」
「……そうだっけ?」
そう言えば、うたたねしてたかもしれない。
目が覚めたとき杏子がいなくなってたから、慌てて捜し回っていたような。
「スクールも今日で終わり。あたし、何キロでも泳げるようになったわよ。……だから、雅人。あたしが溺れるなんて、もう全然、心配しなくていいのよ」
そのとき、杏子の眼差しはやけにやさしかった。気のせいだろうか?
泳ぎを習ったのは、おれのためだなんて、まさか、そんなこと……
「もうじき香織がくるの。一緒にレポートやろうって約束したんだ。夏休みの課題が終わらないで始業式を迎えるなんて、いやだもん。お掃除しなくちゃ! 朝御飯の後片付け、まだ終わってないわよ。雅人っ、ほら立って。充くんも手伝って!」
遊びにきたのにとボヤきながら、並河に会えるんで充は喜々としてこき使われていた。
しばらくして、並河香織がやってきた。
臨海学校の夜からこっち、見違えるように表情豊かで、晴れやかになった。
以前は取りつく島もない完璧な美少女だったが、今は親しみやすい、穏やかな感じがする。2学期になったら、前にもましてモテるだろう。
充の奴、苦労するだろうな。
もと客間だった杏子の部屋で、おれたちは顔突き合わせて、レポートに没頭した。
ちくしょ~、世界史がなんだ! 地学がなんだ!
「ねえ、カミオカンデって、知ってる?」
ふと、並河がレポート用紙から顔をあげた。
「以前にはまだそんな名前はついてなかったわ。東大の宇宙線研究所が上岡採石場跡地に設置したニュートリノ観測装置のことよ。巨大な円筒形のタンクに純水が満たされていて壁いちめんに光電子増倍管が取り付けられてるの。その子たちはね、うんと遠くにある超新星からくるニュートリノを検出するために、大きなレンズの目で、ひたすら待ちつづけるの。けなげだと思わない? 今は、スーパーカミオカンデが完成して観測をしているの」
キラキラ、目を輝かせて身を乗り出す。
……並河って、こんなコだったっけ。ちょっとイメージ違うぞ……
「香織さん、それじゃ、ハッブル宇宙望遠鏡とか、ボイジャーとかも好きだね」
並河をじっと見つめながら、充が言う。
「ええ、大好きよ。自然も好き、犬も猫も動物も、それに、杏子も……充くんも、雅人くんもね」
大人びた並河の顔に、幼さの残る表情が浮かんだ。
「わたし、人が隠している本心はよくわかるの。でも、充くんはなんにも隠していないのに、次に何をするか、まるで予測がつかないのよ。気になって仕方なかったわ」
「え、それってどういう」
「充が単純すぎるからかな」
おれは大まじめに答えたが、なぜか受けて、笑いを取ってしまった。
「……あっ、そうだわ、残暑見舞いが来てた。今頃だなんて、何かしら」
杏子はポケットから一枚の絵はがきを取り出した。
ヤシの木と白い砂浜、青い海……南国の写真のハガキだった。
「ハワイ!? ハワイから投函したのね、これ。宛て先がローマ字で書いてある。ええっと……ハヅキ・アオヤマ……から、マサト・ヤマモトに、愛をこめて?」
「葉月姉だ!」
おれは不審そうに睨んでいる杏子の手から、ハガキを奪い取った。
「ほら充、去年、私大に入学して一人暮らしをしてる、青山さんちの葉月姉だよ! この間、プールで偶然再会したんだ。へえ、ハワイ旅行にいったんだな」
「ええっ、葉月姉に! 雅人はよく『雅ちゃん』って呼ばれて可愛がってもらってたっけ。きれいなお姉さんだったよね!」
「充は、みっちゃん、だったよな」
おれも充も、懐かしさですっかり話し込んでいた。
それを聞いていた杏子の不満に、気づかなかったのだ。並河がおれたちをつついて、知らせようとしていたのに。
「へえ、そお~なの……あたしが溺れかけてる時に、そ~んないいコトがあったのね」
ああっ、まずい!
「雅人のバカ、大っ嫌い!」
杏子は、すっくと立ち上がり、おれを追い立てた。
「ここはあたしの部屋よ。香織以外は出てって、いますぐ!」
「あ~あ、怒らせちゃったね」
おれと同じく追い出された充が、肩をすくめた。
「ついさっきまで機嫌がよかったのになあ」
まったく女の子って、難しい。
部屋を出ようとしたところで、並河がおれと充を呼び止めた。
「さっきみたいなことで怒るのは、意識しているからよ。どうでもいい相手のことなら、幼なじみの女の人から手紙が来たくらいのこと、気にならないもの。雅人くん、杏子のこと、怒らないで」
「怒ってなんかいないよ。ただ、なんで、うまくいかないんだろうなあ」
おれは深いタメイキ。
充と並河は、そんなおれと杏子を、かわるがわるに見やっていた。




