プロローグ 妹と呼ばないで
プロローグ 妹と呼ばないで
おれは春が嫌いだ。
桜の満開のころになると、この世で一番悲しかったことを思い出してしまうからだ。
まだ赤ん坊だったから、おれは覚えてはいないが……母が亡くなったのは、桜のころだったという。
風もないのに、桜が散る。花の盛りを過ぎた桜の花びらが、地面に、おれの頭に、肩に降りかかり、降り積もる。なのに受け止めようと手をのばせば指をすり抜けて、逃げていく。
誰もがいつかは必ず、いなくなってしまう。
残された者には、いなくなってしまった人の思い出だけが残る。
それでも、桜は毎年、むせかえるほどに咲き誇る……。
毎年、春になると、おれは思う。
いつか……いつか、大好きな人を見つけて、幸せになるんだ、と。
*
志望校の私立旭野学園高校に入学した、15歳の春。
その日、おれは彼女に出会った。
入学式をフケるつもりで、校庭の桜の樹の下に寝転がっていたら、突然、可愛い女の子の声に起こされた。
「ねえ、そこのキミ。入学式会場って、どっちだっけ。知らない?」
花曇りの空を背に、逆光で、おれを覗き込んでいる小柄な少女がいた。
「……悪いけど、おれも知らないんだ」
「あら、もしかしてキミ、入学式に出ないつもりだったの?」
興味を抱いたのか、少女は地面に膝をつき、
「実はね、あたしも式なんて面倒臭いなって思ってたんだ。ねぇ、どっか行っちゃおうか」
ぼんやりと明るい、靄のかかった水色の空を見上げて、くすくす笑う。
「そいつは困るな。きみまで巻き添えにできないよ」
自分ひとりならともかく、この子にまでサボらせるわけには。
おれは慌てて起き上がって、そのとき初めて、少女の顔をまともに見たのだった。
(おいおい、マジ!?)
ものすご~っっく、可愛い娘が、そこにいた!
「なんだ、つまんないの。それも面白いかなって思ったのに」
少女はころころと、明るく笑った。
その笑顔に引きつけられて、彼女から目が離せなくなってしまった。
身長はおれ(166センチ)より、ほんの少し低い。実際より細っこくて小柄な印象を受けたのは、彼女の顔が細めで、スリムな身体つきをしていたからだろう。
まず強く印象づけられるのは、くっきりと意志の強そうな眉と、すっと通った鼻筋、大きな二重の目元だ。
黒い瞳だけど、光を受けると瞳の底が深みを帯びて見え、じっと見つめていると吸い込まれそうな気がして、ドキッとした。
小さくてふっくりとしたピンクの唇に、自然に視線を引きつけられ、おれは我知らず……赤面していた。顔が熱くなったから、きっとそうだ。
(ああ……柔らかそうな、綺麗な唇だなぁ)
ふとそんなことを考えてしまった自分が恥ずかしくなり、目線をそらせた。
彼女の髪が、風になびく。
内側に軽く巻き癖のついた栗色の髪は、肩先にかかり、肩胛骨のあたりまで届いてる。
紺色のブレザーの下に着た白いカッターシャツの胸もとに、ふわっと結んだ、シックな赤のリボンタイ。ミニのプリーツスカートが、よく似合う。スカートの裾から、綺麗な脚のラインと膝小僧が覗いている。
脚が長く、腰の位置が高い。
顔の小ささとあいまって、バランスがよく、制服の上からでも、整った体型がよくわかる。
それでいて、胸のあたりは、高校生の少女らしいしっかりした存在感を持っていて、どうにも目のやり場に困ってしまう。
小学校の延長という意識だった中学校のころとは違う、『オンナノコ』を、初めてはっきり意識したのは、このときだったかもしれない。
「どうしたの? あたし、何か変?」
少女は頭を振り、制服の袖やスカートをはたく。
髪に乗っていた桜の花びらが、ひらひらと落ちて、風に運ばれていった。
「いや、なんでもない。会場はきっと、あっちだ。南校舎側にある、古いほうの講堂だった。入学式に出るんだったら、急ごう」
走り出してから、少女はふと振り返って、尋ねた。
「そういえば、キミは何クラス? あたしはC組よ」
「へえ! おれも同じだ」
「あら、すっごい偶然ね。キミ、なんていうの?」
「おれは、山本雅人!」
「あたしは杏子。伊藤杏子よ!」
ふたり一緒に、校庭を駆け抜けた。
入学式が行われる予定の旧講堂まで、息を切らせて走った。
それが、おれと杏子の出会いだった。
※
「……やべぇ」
ふと呟いて、目が覚めた。
やたら寒いと思ったら、身体が冷えきってる。
「う~っ、寒む」
おれは冷たくなった肩や腕をこすりながら、起き上がった。
「なんか、妙な寝方しちゃったなあ。変な夢を見たような気がする」
クラスメイトの女の子が、夢に出てきた。
それも、入学式のときのことなんか、夢に見るなんて。
(……どうかしてる……)
おかしな感じだ。
6月の末の、ある日曜日の朝。
サアァ──ッ……
雨戸を閉ざしていても、ひそやかな雨の音が聞こえる。
降り続いている雨のせいで、底冷えがきつく、空気はひんやりと肌寒い。
窓の外はうっすらと明るかった。
もう明け方が近いようだ。
昨夜、ついうっかり、リビングのソファで寝入ってしまったらしい。梅雨時には特に、油断してると風邪をひいてしまう。
今年の梅雨は、雨が降ったり、降らなかったり。急に暑くなったりで、安定しない。
寝ぼけ半分、頭を掻きむしりながら、台所を覗いた。いつもなら、朝の早い親父がもう起きだして、流し台の前でうろうろしてる頃だ。
「ふわぁ~っ。なんだよ親父、起こしてくれなかったのかよ」
シ──ン……
応えは、なかった。
「あ、そっかぁ……」
口にしてから(ああ、もう親父はいなかったんだ)と思う。
ようやく、はっきり目が覚めた。
おれは今日から、この家で、ひとり暮らしを始めるのだった!
おっと、 自己紹介を忘れてた。
おれの名前は、山本雅人。高校1年生で、9月9日生まれの15歳。血液型は、優柔不断のA型。
趣味なし、特技なし。親父譲りの健康優良青少年。
高校から硬式野球部に入って、毎日、先輩にしごかれている。好きな球団は、ヤクルト。
東京都のはずれにある二階建ての一軒家(結婚した当時に親父が建てたマイホームで、ローン返済があと15年残っている)で、親父とふたりで暮らしていた。
母親の顔は、写真でしか知らない。おれが生まれて間もなく、病気で亡くなった。
男手ひとつでおれを育てた親父ってのは、がさつもいいとこ。
健康だけが取り柄ってやつで、商社勤めの傍ら、おれを殴っては躾けて育てた。
やさしいお母さんのいる友だちが、うらやましかった。
おれはよく反発して親父にくってかかっては、あっけなく、負けた。
いつか親父に勝ってやると子供心に固く心に誓っていたのだが、いつの間にか、親父も会社でそれなりに昇進して、家にいる時間は少なくなっていった。
そしておれは、『独立独歩』って言葉を覚えた。
その親父も、もうここにはいない。
……え? ああ、だいじょうぶ。
しんみりした話じゃ、ないない。
その点は安心してくれ。
なんと、親父のやつ、再婚したんだぜ!
それも、先月、ロンドンへ海外赴任するって決まった矢先になって、急に『父さんな、結婚したい人がいるんだ』なんて、マジな顔で打ち明けた。
反対する暇もなかった。
おれが親父の告白を受けたときには、もう『桃絵さん』っていう相手の女性も承諾して式場も決まって、ハネムーンを兼ねてヨーロッパ回りでイギリスに行くってスケジュールが立ってて、事態は着々と進行してた。
相変わらず、勝手な親父だ。
考えてもみてくれ!
十数年も独身を通してきた堅物の頑固親父が、急ににやけた顔をして、遅れてきた恋に夢中になってるなんてさ!
そんなこと、本当にあるなんて……。
正直、まだピンとこない。
何を隠そう、一昨日は親父の結婚(再婚)式だった。
空港近くのホテルに一泊した親父と新しい『お母さん』は、昨日、成田空港から飛び立った。
親父たちを見送ったおれは、幼なじみの、沢口充とかクラスの友人たちを家に招んでひとしきり騒いで、みんなが帰った後、そのまま、うたたねしてしまってた訳だ。
再婚相手の桃絵さんは、やさしそうな、和服の似合う綺麗な人で、親父より四つ年下。
反対する理由もなかったが、ただひとつ、気にかかることがあった。
桃絵さんには、おれと同じ年頃の娘がひとりいたのだった。
*
やけにすっきり目が覚めてしまったので、起きることにした。
長雨がつづいて冷え込むから、台所の灯油ストーブをつける。
梅雨入り前の5月頃には、真夏かと思うくらいうの暑さが続いて、気候も暖かくなったし、もう今年の出番はないと思っていたのだが。
わが家で長年使い込んだストーブは、昨今のファンヒーターなんて洒落たもんじゃない。
その上に、水を入れたヤカンを乗っける。しばらくすれば、湯が沸いてくる。
さて、朝飯はなんにしよう。
面倒だから炊きたて飯に生卵を割り入れて、醤油をかけて。卵ごはんに焼き海苔とみそ汁で済ませようかな……。
おれが簡単な朝食の後片付けを終えたとき、時刻は朝8時になっていた。
キンコーン♪
ふいに、玄関のチャイムが鳴った。
セールスマンか? んな訳ないな。宅急便でもこんな早朝には来ないだろう。
キンコーン、キンコーン、キンコーン……
降りしきる雨の音をかき消すほど、盛大にチャイムは鳴りつづけている。
こんな時間に来るなんて、誰だ?
近所に住んでる、幼なじみの沢口充かな。
夕べも遅くまで居すわってたくせに、日曜だからってさっそく冷やかしに来たか。
「おい充! 近所迷惑だろ、そんなに鳴らすな……って」
ドアを開けた途端、おれは言葉に詰まった。
そこにいたのは、充じゃなかった。
鮮やかな新緑色のレインコートを着た、美少女だったのだ。
それも、おれのよく知っている……。
「伊藤! どうしたんだ」
外に立っていたのは、同じクラスの伊藤杏子だった。
「どうもこうもないわよ。おはよう、山本くん」
ぼそっと、無表情に答えた。
おれはなぜだか急にドキドキして、身体が熱くなってきた。
クラスメイトの、伊藤杏子のことは、ついさっきまで見ていた夢に出てきたばかりだったからだ。
それにしても、日曜の早朝からクラスメイトの女の子が訪問してくるなんて、妙だって?
それには、ちょっとばかり、理由がある。
後で、おいおいわかってくると思う。
伊藤杏子は、学校中の男子から人気の高い、評判の美少女だ。
実はおれも、入学式の日に初めて会ってから、ずっと気になっていた。
はて、彼女はおれのことをどう思っているんだろう?
いっそ、あの出会いのとき、本当に入学式を一緒にさぼれば、もっと親しくなれていただろうかなんて考えてしまうのは……あの後、彼女とはいい友人になれたけど、特に親しい仲にはなれなかったから。
ともかくおれは慌てて、ドアのチェーンロックを外し、彼女を中に招き入れた。
杏子はレインコートのフードを目深に被り、雨に濡れそぼっている。
フードをおろすと、柔らかな栗色の髪がこぼれ出る。毛先から雨の雫が滴っていた。
「傘、差してこなかったのか?」
ずぶ濡れじゃないか、と、おれが尋ねると、彼女はすまして言ったものだ。
「出るときは、それほど降ってると思わなかったのよ」
……昨夜からずっと大雨注意報が出てたんだけどなあ……。
「ふうっ」
おれの差し出したタオルを受け取って、杏子は髪を拭った。玄関でレインコートを脱ぎ、
前髪をかき上げて、溜め息をつく。
「ったくもう、やんなっちゃうわ、ママったら。いくらジューンブライドは幸福になれるなんて言うからって、雨の日の結婚式なんて。前に一度やってんだから、いいじゃないのよねぇ」
さて、もうおわかりだろうか。
伊藤杏子は、おれの親父の再婚相手、桃絵さんのひとり娘……えーい、ややこしい。
つまり、おれの義理の妹なのだ!
同い年で同級生だけどな!
親父のやつ、息子の入学式で、伊藤杏子の母親、伊藤桃絵さんに出会って、年甲斐もなく一目惚れしたらしい。
桃絵さんが7年前に夫と死別して以来、女手ひとつで娘を育ててきたと知って、早速、交際を申し込み、付き合っていたとは、おれはまったく知らなかった。
ロンドン支社に海外赴任する話を受けたのを機に、急きょ結婚を決意したという。
おれも杏子も親同士が交際してたなんて寝耳に水。いよいよ結婚式が迫ってから打ち明けられて、怒るやら、困惑するやら。『この歳で、恥ずかしかった』ってのはわかるけど、ぎりぎりまで黙ってるなんて。
そういう訳でおれと伊藤杏子は、突然、同級生で『義理の兄妹』になってしまった。
だが、家族として話し合う時間もあまりなかったからか、未だにぎこちない。
だいたい、おれだって杏子のことがずっと気になっていたし、もしかしたらこれは恋なのかなんて、密かに思っていただけに、ショックだった。
きょうだいじゃ、恋愛なんて無理だよなあ……。
「で、どうしたんだ、伊藤、こんな朝っぱらから?」
つい、おれは彼女の旧姓を口にしてしまう。
「ええ~? 山本くん、聞いてないの?」
玄関のコートハンガーにレインコートを掛けた杏子が、振り向いた。スリッパを履いて、
すたすたと歩み寄り、驚いたと言わんばかりに、眉をひそめる。
「あたしたち、今日から一緒に暮らすのよ!?」
「どぅぇええ──っ!!」
驚いたのは、おれ。
冗談じゃない! うるさい頑固親父がいなくなって、これから思う存分、気楽なひとり暮らしをエンジョイするはずだったのに!!
よりによって杏子と一緒に暮らすなんて……
いくら義理の妹でも、おれは年頃の青少年なんだぞっっ!!
それでなくても好きだって思ってた女の子とひとつ屋根に住むだなんて、落ち着かないに決まってるじゃないか。
まだ、心の準備ってものが!
結婚式を控えて、4人で話し合ったときには、日本に残されるおれと杏子のことは、
『別々に暮らしていたものが急に家族になるのは無理があるから、しばらくお互いにひとり暮らしをしながら、ゆっくり親交を深めていこう』って話になってたはずなのに。
「なぁに、その顔。迷惑そうね」
杏子はおれの動揺ぶりを見て取り、不機嫌そうに眉をひそめた。
「本当はね、こっちこそ、迷惑してるのよ。あんたが羽目を外さないよう、よろしく頼みますって、雅治パパに頼まれたんだもん、仕方ないじゃない」
と、おれの顔を指さす。
(雅治というのは、おれの親父の名前である)
「しょうがないから、面倒みてあげるわよ。いいこと、これからあたしのことはお姉さまって呼びなさい」
これにはさすがに、おれもカチンときた。
「お姉さま~!? 冗談じゃない、おれが兄貴だ!」
「何言ってんの、あたしが姉よ!」
そして、おれたちは同時に叫んだ。
『『おまえ(あんた)の誕生日はいつなんだ(なの)よ!?』』
「……9月9日よッ!」
ひと呼吸おいて、杏子は肩をそびやかし、誇らしげに言い放った。
「ええっ!? ほ、ホントか?」
「あら、何よ。そういえば、山本くんも9月だとは聞いてたけど……あたしより早いってことはないわよね?」
ふと、眉根を寄せる。さっきまでの自信に、わずかながら、かげりが見えた。
「いや……早いわけじゃないんだが」
どう切り出したもんか。
迷ったけど、事実は、事実。
「おれも、9月9日生まれなんだ」
「えええ────っっ!!」
顔色を変えて、杏子は更に食い下がる。
「なっ、何時に生まれたのよ? あたしは、午前11時」
「……同じだ」
どっちが年上かって論争は、これで決着がついてしまった。まさか、生まれた時刻まで同じだとは。
きゅっと唇を結んで、杏子は右手を差し出した。
「わかったわ、あたしたちは対等ね。あたしは再婚なんて歓迎してなかったんだけど、ママが幸せそうだったから……だから、許したのよ。苦労して育ててくれたママに心配かけたくないの。山本くんとあたし、これから一緒に暮らすわけだけど、お互い歩み寄って、仲良くやりましょ」
おれは、差し出された手を握った。
小さな手だった。
雨に濡れていたせいか、ひんやり冷たくなってる。
「よろしく、きょうだい」
すると、杏子はむっとして、おれの手を振り払った。
「あたしは妹じゃないわ。あんたをお兄さんなんて呼ばないわよ。だから、杏子って呼んで。あたしも、雅人って呼ぶことにするから」
「了解」
呼び方に対しては、別に異存はなかった。むしろ、名前を呼び合うほうが、今まで他人同士だったおれたちにはふさわしく、違和感がない気がした。
「ねえ、雅人。あたしたち、戦友なのよ。つまりね、同志ってわけ」
こころもち顔を近寄せて、おれをひた、と見つめる。
爽やかなシャンプーの香りが、おれの鼻孔をくすぐる。
なんか、奇妙な……落ちつかない、キモチ。
「あたしたちが、誰の助けも借りないでちゃんとやれるってことを、見せてやるのよ!」
杏子は力強く宣言したのだった。
学校の名前そのほか、2015/06/03に訂正しました。
どうぞよろしくお願いします。




