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短編集 【三題話】

【三題話】CD・ワイン・図書館 『終末の先のイブ』

作者: 秋乃 透歌

 『CD・ワイン・図書館』

 この三つのキーワードからどんな物語ができるのか、ご自分で想像してから、本編をお楽しみください。


【予告】

 日常は、一枚の血塗られた「CD」-ROMを受け取った瞬間に砕け散った。

 鮮血の赤とも、透明なる「ワイン」レッドの赤とも異なる、異界の赤が夕闇の訪れを迎えるために世界に満ちる――夕暮れの赤に混じって。

 世界のあらゆる蔵書が収められ、刻々と自ら書架を増殖させつつ、常にその場所を変えながら次元を旅する、異界「図書館」。

 無限なるこの世の全て知識と、他の世の全ての知識を収蔵した聖地を求め、国が、機関が、人が、争い辿り着く先に見たものは――。


 『CD、ワイン、図書館』、お楽しみに。


(実のところ、この予告は、一度も本編を予告したことはありません)

 扉を開けると、古びた本の臭いがアリバの鼻を突いた。

 どこまでも続いているかと錯覚するような書架の列と、誰も訪れなくなって久しい淀んだ空気と、窓から差し込む光を反射して舞う埃。

 彼は深く息を吸うと、溜め息へと変えて吐き出した。

 ここに収蔵されている情報を、価値のあるものとして受け取ることができる者は、いなくなってしまった。たった二人を除いて。

「本、いっぱい。ここ、本屋?」

 小さな声が、アリバの思考を止めた。

「本屋ではないよ。ここは――図書館だよ」

 アリバはその声の主――イブへと微笑みながら返事をした。

 彼女は、アリバの右手をしっかりと握り締め、おっかなびっくりではありながら、この図書館の中を見回している。

 アリバが精悍な顔立ちをした壮年の男性であるのに対して、イブの姿は美しい二十歳くらいの女性のものだった。

「図書館?」

 そう繰り返す彼女の幼い口調や仕草は、とても外見通りの年齢には見えない。まるで、彼女の知性が幼い子どもの時に止まってしまったかのような印象を受ける。しかし、真実はその逆なのだ。

 彼女はほんの三日前に、この世に生を受けたばかりなのだから。

 いや、『生を受けた』という表現は、正確ではないのかもしれない。



 イブの命は――。

 人が神の領域を侵して作り上げた命。

 機械の体と電子の脳、半永久的に動き続ける対消滅機関の心臓を持つ、命ならざる命なのだから。



   ◆ ◆ ◆



 世界は滅びた。

 正確に言うならば、人類は死滅した。

 どちらにしてもアリバにとっては同じことだった。

 ただ一人、生き残ってしまったアリバは、世界の滅亡以前と変らずに、彼の研究を続けることを選んだ。

 狂ってしまうことも、自ら死を選ぶこともできたかもしれないが、彼はそうしなかった。

 簡単な話である。アリバが音楽家であったなら聞く者のない旋律を奏でただろうし、小説家ならば読む者のいない物語を紡いだだろう。

 そして、彼は科学者だった。

 だから彼は、彼の研究を――命を作り出す研究を、たった一人で続けたのだ。何年も。何十年も。

 その動機は、研究心かもしれないし、意地だったのかもしれないが、おそらくもっとシンプルなものだったのだろう。

 彼は寂しかったのだ。

 自分が作り上げたものでも構わない。

 自分以外の命に、存在して欲しかったのだ。

 そして、研究は完成した。



 それが、イブである。



   ◆ ◆ ◆



「アリバ? アリバ眠っているの?」

 イブの鈴を転がすような声が、アリバを浅い眠りから引き戻した。本を手にうたた寝をしてしまったようだった。

「ああ、どうしたんだい?」

「ええ。少し訊いても良いかしら?」

 アリバとイブが図書館に住み始めてから数ヶ月が経とうとしていた。

 ありとあらゆる本を読み、その内容を学習して、イブは驚く速度でその精神を成長させた。今では彼女の外見年齢と比べても違和感はまったくない。

 自分で思考し、書物の文字から得た情報を、独自に関連付けて理解するようにイブは作られた。まるで小さい子どもが一つずつ物事を覚えていくように――速度は比べ物にならないが――彼女はあらゆる物事を知って行った。

「五感というものが、私には良くわからないわ。実感がわかないの」

 イブは、年頃の娘がするように、首を少しだけ傾げて見せた。

「ふむ。視覚と聴覚は良いね。触覚は?」

「ものに触れているのは分かるわ。でも、温かいってどんな感じ?」

 アリバは、その言葉に頷いてイブの手を握った。

「温度が分かるかい?」

「35.8℃」

「それが温かいだよ」

 アリバの答えは、正確ではない。

 しかし、体感としての温かさなど、経験によって名づけられたラベルに過ぎない。おそらくこれだけの情報で、彼女は書物の中の『手を握ると温かい』という概念と、温度を結びつけることができる。文脈から、マグカップの温かさや、心の温かさ――これは温度では知覚できないはずだが、彼女の頭脳はこのようなニュアンスの違いに柔軟に設計されている――を、なんとなく理解したはずだった。

「嗅覚と味覚は?」

「それは、少しずつ覚えて行こう」

 アリバは、自分の今日の昼食に用意した保存用のパンとワインを持ってきて、イブの前に置いた。

 パンをひとかけらちぎって、まずは鼻の前に持っていく。

「嗅覚センサーは正常に働いているかな?」

「ええ。醗酵した小麦と、燃焼反応による酸化と――」

「それら全てをまとめたものが」

 イブの分析結果を待たずに、アリバは微笑んで言った。

「パンの香りだよ。ただし、その一種類ではないからね。次はこっちだ」

 ワインのコルクを開けると、そのままイブの鼻先へと持っていく。

「これがワインの香りだ」

「香りというものは、計測データの蓄積をグループ化するラベルという認識で合っているかしら?」

「その通りだよ」

 やはり、イブは聡明だ。

 アリバは満足そうに笑う。

「味というものも似たようなものだ」

 ワインを適当なグラスに注ぎ、イブに手渡す。

「飲んでみてごらん」

 彼女の体は、栄養源を一切摂取せずとも永久に動き続けることができる。しかし、アリバは、口から食物を入れても問題なく分解するように彼女を作っていた。

 慣れない仕草で――それでも、液体を飲むという概念を彼女は書物から知っている。アリバが何かを飲むところも、何度も見ている――ワインを口に含み、飲み込んで見せた。

「今センサーが捉えている様々な成分を総合したもの、それが、ワインの味だよ」

「これがワインの味なのね。……『芳醇で、とっても美味しい』」

 どこかの書物の引用なのだろう、少しこちらを伺うようにしてそう言うイブの頭を、アリバは微笑んでなでてやった。

「その通りだ。良くできたね」



   ◆ ◆ ◆



「アリバ、これは何かしら?」

 数十年もの歳月が経ち、もはやイブの知識は彼女の外見年齢よりもずっと高いものとなった。忘れることを知らない彼女は、これまで存在した人類の誰よりも賢く聡明に違いない。

「おお。これは、珍しいものを見つけたね」

 老人と呼べる年齢になったアリバは、イブが図書館の奥から見つけてきたそれを見て、懐かしそうに皺の刻まれた顔を笑顔に変えた。

「キラキラ光を反射する、円形のディスク。これがCDというものなの?」

「そうだよ。中に音声のデータが収録されているんだ。再生できれば良いんだが……」

 アリバの呟きに、イブがにっこりと微笑んでみせる。

「プレイヤーだと思う機械がその近くにあったのを見つけてあるわ。ねえ、アリバ、水車の発電機につないでみても良いかしら?」

 アリバは頷いてみせた。

「感電しないように、気をつけるんだよ」

「ええ。すぐに用意するわね」

 やがて、劣化して変色したプラスチックのCDプレイヤーは、当時と変らない音で、今や誰も奏でる者のいなくなった交響曲をかなで出した。

「すごいわ。これが音楽なの? オーケストラ?」

「ああ、そうだよ。CDが他にもあるようなら、色々な楽器の音や、私達が話す以外の言葉が聞けるかもしれないね」

「ええ、とっても楽しみ」

 イブは、にっこりと微笑んで見せた。

「あら、この曲……」

 何かに思い立ったのか、イブは、図書館のどこかへと何かを探しに行ってしまった。

 アリバは、静かに目を閉じて、ゆるやかに流れる旋律に耳を傾けた。曲名など、遠く昔に忘れてしまったが、百人もの人間が奏でる美しい音楽がそこにあった。

 曲がクライマックスに辿りつくのを待つまでもなく、アリバの目からは涙があふれていた。

「ねえ、アリバ。この曲とこの楽譜は同じもの?」

 駆け足で戻ってきたイブは、手に大判のスコアを抱えていた。

 初めて聞く音の並びと、何年も前に読んだ音符の並びを関連付けて、膨大な書物の中からその楽譜を持ってくることができる。

 やはり、彼女は聡明だ。

 賢く、知識もあり、膨大な記憶力を持っている。

 しかし。

「まあ、どうしたのアリバ。涙が流れているわ。どこか痛いの? 音楽が聴けて嬉しいの? それとも悲しいの?」

「いや。大丈夫だよ、イブ。感動しているんだ」

「感動」

 しかし、彼女には実感というものが明らかに欠如していた。何年も前に教えた五感も、現実と知識の乖離も、自分達以外の命がかつて存在したことも、どうしても二人だけの世界では伝えきれないものだ。

「そうね。『素晴らしい音楽だもの、感動するわ』」

 イブは――。

 彼女は、あらゆる知識を詰め込んでなお、きっと――空っぽなのだ。



   ◆ ◆ ◆



 そして、その日がやってきた。

 アリバが、永遠に動き続けるイブと、いつまでも二人で生きていくことなどできないのだ。

 それは、イブという命を作り上げた時から約束されていた日だった。

 別れの日だった。

「イブ、イブはいるか……?」

「ここにいるわ」

 アリバは、彼の皺だらけの手が、暖かなイブの両手に包まれるのを感じた。数時間前から、彼の目は見えなくなってしまっていた。

 もっと多くのものを伝えてあげたかった。

 知識を与える事を重視して、いつまでも図書館などで暮らさずに、世界中を見に行ってもよかったのかもしれない。

 もしかしたら、どこかにいる生き残った人類と、彼女を合わせることもできたかもしれないのに。

「イブ……」

「大丈夫よ。すぐに良くなるわ」

 イブは、空っぽだった。

 彼女の声は、心配そうに曇っている。気遣わしげに優しくはある。だが、それだけだ。

 知識と、解析と、その結果を結びつけただけの感情が彼女の全てだった。

 それが、そればかりが心残りでならなかった。

 アリバは、何か一つでも、彼女に実感のあるものを、空っぽではないものを伝えたかった。

「聞きなさい、イブ。私は長くない」

「何を言っているの。大丈夫」

 イブの言葉をさえぎって、アリバは言葉を紡ぐ。

「これから私の身におこることが死だ。死はわかるね」

「アリバは死なないわ。これからも、ずっと一緒よ」

「すまないが、それは無理、だ」

 アリバは、言葉の途中でむせてしまう。正常な呼吸が遮られて苦しいはずなのに、体は力なく痙攣するように空気を出し入れするだけだった。

「はあ、はあ……。私の命は終わり、体は滅びるだろう。お前を残して行くのは心残りだが、これからお前は一人で生きて行くんだ」

「アリバ――」

「この図書館にずっといても良いし、ここから出て世界を見に行くのも良いだろう。ここの外には危険も多いが、もしかしたら私の他の生き残りに出会うことができるかもしれない」

 そう言葉を言い終えると同時に。

 アリバは唐突に理解した。

 視覚を失って真っ黒に塗りつぶされた視界が、ふいに白くなって行く。真っ白になる。

 これが、終わりか。

「イブ。イブ聞きなさい」

 最後の力を振り絞って、言葉を紡ぐ。

「私が死んで、お前の前からいなくなって、お前の心にどうしようもなく大きな感情があふれていることがあったら――それが『悲しみ』だ」

 イブに、自分が作った命に、空っぽでない何かを残してやるために。

「悲しみが去った後、お前が一人でいる時に、どうしようもなく誰かが恋しくなったり、自分一人では嫌だと感じたりすることがあれば、それが『寂しさ』だ」

 イブが、何かを答えるのが聞こえた気がした。

 アリバの聴覚では、もはやそれを聞くこともできなくなってしまった。

 彼女は、『悲しみ』や『寂しさ』を感じることがあるだろうか。

 空っぽでない何かを、残してやれただろうか。

「すまない、すまないね、イブ」

 最後に、アリバはつぶやいた。

「こんなものしか、残してあげられなくて、ごめんね」



 そして。

 最後の瞬間に――。

「いいえ」

 アリバの耳に、はっきりとイブの声が聞こえた。

「アリバ、あなたと一緒で、私は幸せでしたよ」

 涙を流しているかのように震えるその声は、ずっと聞いていたイブの声だった。

 何も残せていない訳ではなかった。

 空っぽなんかじゃなかった。

 彼女は確かに、悲しみと感謝をたたえた声で言った。

 私は、幸せでした、と。



「ああ、よかった――」

 声に出す事ができたのか、思っただけだったのか、彼自身にもわからなかったが。

 まぎれもない、アリバの最後の心だった。



 お楽しみいただけましたら幸いです。

 なお、お題の3つのキーワードは、友人達によるリクエストです。


 近いうちに、このような形でお会いできることを楽しみに。

 それでは、また。

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