2 使命はあれど科学はない
室内は暗く埃の匂いがしたが、外に比べると随分涼しい。
だが、長く留守をしていたように空気は淀んでいて、戸口から差し込んだ光に細かな塵が舞い踊る様が、なんだかヒナに体育倉庫を思い起こさせた。
尤もこの部屋にあるのはマットでも跳び箱でもハードルでもなく、土竈と、怪しげなモノが並んだ木棚、使い込んだテーブルセットに簡素なベッドが一つだったが。
「少し、空気の入れ換えでもしようかね」
眉根を寄せた女は、ガラスのない木製の窓を押し開けて外気を取り入れ、手近にあったぼろ布で椅子の埃を払うと、所在なげに立ちつくしていたヒナに勧める。
「あちこちフラフラしていたせいで、ずっとここに帰っていなくてね。当然掃除もできていないからこのざまなんだ。あまり居心地はよくないだろうけど、話をする間だけ我慢しておくれ」
そうして自分はベッドを一つ叩くと、むせ返るほど上がった白煙に小さく首を振って、もう一脚残された椅子に諦めの体でどかりと腰を下ろした。
「やれやれ…疲れたね」
大きく吐き出された吐息と、だらしなく投げ出された手足に疲労の具合は伺えるが、ヒナはどうにも彼女の行動が解せない。
「……なんで、なんにも持ってないんですか?旅行帰りなんじゃ、ないの?」
自宅(というには質素だが)に戻っていなかったというのなら、旅行鞄の一つも下げていたりするものだろうに、女は初めて出会った時から空身だ。ハンカチ一枚、持っているようには見えない。
どうしてだと問うヒナに、彼女はふっと笑みを刷き、細く長い指先で扉の外を指し示した。
「あんたに驚いて、外に放り出してきちまった。後で取りに行くよ」
こんなとこまでは物取りも来やしないからね、と嘯いて、凶悪なまでに日の光が注ぐ草原に一瞥をくれると、それよりもと身を乗り出す。
「まずは自己紹介といこう。お互いの名も知らないんじゃ、不便でしょうがないからね。あたしはラダー。魔術を生業に生計を立てている。街の連中には名より境界の魔女って言った方が通りがいい」
そう、軽やかに言われても。
「魔女…ですか…」
驚くポイントすらわからないと、ヒナは引きつる唇を無理に笑みの形まで引き上げた。
おとぎ話の登場人物に出会った二十一世紀人に、いったいどう反応しろというのだ。ましてやヒナは日本人。鬼婆とかならともかく、魔女って、魔女って…。
「人を呪い殺したり、悪魔と契約したりするアレ、ですか…?」
「…なんだって?」
虚ろな視線で奇妙な笑顔のまま、彼女はラダーの低い呟きを無視して、言葉を続ける。
「黒魔術行使して、月夜に円陣組んで躍って、魔女裁判は火あぶりが定番…」
世界史で学んだばかりの知識が意識せずとも溢れるのは、混乱がヒナを取り込んでしまったが故だ。
サバトだホウキだと、なけなしの知識を絞って、ラダーの存在理由に正当性を持たせようと必死になっている様は、病的でちょっぴり恐ろしい。
けれどどれだけ考えても、文明社会で魔女を職業としている人はいない。自己紹介で自分は魔女だと主張するイタイ人も。
更に言うならば電化製品の一つもないご家庭はない。ガスレンジの代わりに竈が現役のご家庭も、車の走っていない街も、舗装されていない道も。
嘘偽りなく、異世界トリップをしたという、泣いていいのか笑っていいのかわからない現実に、ヒナは本気でパニックを起こしていた。
「まあまあ、お待ちよ。少し落ち着こうじゃないか」
「無理!!」
苦笑を浮かべながら宥めにかかった魔女に一瞥をくれて言い切ると、拳を握るヒナは、尚も溢れる感情を叫ぶ。
「だいたいアスファルトにでっかい穴が空いてること自体、おかしいのよ。えらく長い落下時間を真っ暗闇の中で耐えて、落っこちた先が草っぱらでしょ?クッションもないんだから、普通死ぬって。でも生きてるし、お尻は痛いし、無傷を喜ぶ間もなく、炎天下でじりじり焼かれて、やっとの思いでたどり着いた民家にいたのが自称魔女ってアリエナイ!ここどこ?!」
多少……いやかなり支離滅裂である言動は自覚するが、己を止める術をヒナは持ち合わせていなかった。
詰め寄った先でラダーが唖然と自分を見ていようが、理不尽であろうが、八つ当たりする相手は他に存在しないのだから仕方ないではないか。大人しく犠牲になって欲しい。見返りはないけれど。
蹴り倒された椅子も、厚く積もった埃についた膝の汚れも気にせず、ヒナは黒衣の魔女に縋って答えを求める。
「さて、どうしたもんかね。国名も街の名もいくらでも答えてやれるが、お前さんが知りたいのは、そんなことじゃないだろ?」
本心から困っているように見えないのは、何かを知っているから、なのだろうか。
逸らされることのない漆黒の瞳が、憐れむように自分を映すのは、果たして、想像通りの理由が存在しているからだという気が、する。
「まさか…元の世界には戻れない…とか言わないよね?」
できるなら、お帰りはあちらと気軽に教えて欲しいものだ。遠回しにのたくた絶望を告げられたら、泣く自信がある。
気軽にリセットできるゲーム感覚だったからこそ、異常事態にも耐えられていたのに。
「……残念ながら。気まぐれに開く次元の扉を操れる者なんぞ、この世界には存在しないんだよ」
ストンと体の力が抜け落ちて、ヒナは床にくずおれた。
それはきっと心のどこかではわかっていたことで、現実世界にご都合主義は入り込む余地がないのだと、理解できても納得できない。
だから、まだ夢だろうとか他に抜け道があるのかも知れないなんて、ありもしない可能性にかけて、彼女はできるだけ頭の中をポジティブに変換していく。
俗に、逃避行動といわれる、あれだ。
「あ、あたしに、使命とかない?」
こうなればいっそ、お姫様扱いしてもらえるとか、これから出会う予定の運命の王子様がいるとか、おいしいことでも起きるついでに運良く帰れる展開希望なヒナはファンタジーのお約束、用があるから呼ばれたのよってことにどうしてもしたくて、ラダーに詰め寄った。
「あるよ」
そして、魔女は見事その希望を叶えてくれたわけで。いや、彼女にとってはあんまりな状況に陥ってから初めて、己れの思い通りに事が運んだ記念すべき瞬間となったのだが。
「ホント?!格好いい王子様と結婚できたり、激しく求愛されちゃったりする?!」
「え、いや、それは…」
「あたし、美少年が良いんだけど。青年より、少年ね。ほら、あんま年離れてると話し合わないし、や、でも、我が儘言っても笑って許してもらえるってのは、魅力かなぁ…そうすると5つ上くらいまでならオッケーなんだけど」
勢い込んでする要求としてはいささかチープだが、どうせ夢なら豪華な未来を希望したって良いじゃないか。イケメンの1人も用意しといてほしいのだ。
ところが魔女は、情け容赦なく言い切った。
「そんな軽薄な希望は叶わない」
先ほどまでの憐れみはどこへやら、そこはかとなく漂っている蔑みにちょっぴりへこんだヒナだった。
「…アンタは世界にとっての死活問題を解決できる、唯一の人間なんだよ?権力者と実りの少ない結婚をするより、余程いいだろう」
いかに猫なで声で問われても、意気消沈しているヒナは、そんなものになんの魅力も感じられない。
むしろ実りだなんだの建前はいいから、目先のお姫様扱いなのだ。
「え~、飴とムチでしょ、普通。やっかいなことやり遂げるにはそれなりのご褒美がないと」
拗ねる仕草の彼女に、先程までの悲壮感はなく、欲得だけで動くドライさが見え始めたのは良いことなのか悪いことなのか。
ともかく、扱いに困ることはなさそうだと踏んだラダーは、胸をなで下ろしつつご希望の餌も一つ、ぶら下げてやった。
「まあ、王族と会う機会は必ずあろうよ。その時うまく立ち回って、王子を釣り上げられるか否かは、アンタの腕次第さね」
ニヤリ、歪んだ魔女の唇に、ヒナが無駄に闘志を漲らせたとかなんとか…。
閑話休題。
だいぶ和んだ空気に、ラダーは問いを投げる。
「お前さんは、夜を知っているだろう?」
わざわざ聞くほどのこともでもないコトなんじゃないかと、首を傾げてヒナ。
「当然」
それがどうした。夜を知らない人間など、日本中いや世界中捜しても見つからないだろうに。
先ほどのありがたくない出会いでも同じ質問をされた気がする彼女は、再度訊ねられた意味さえわからず、訝しげにラダーを見上げた。
その暗く、悲痛な顔を。苦痛に満ちた濃い闇を纏う魔女を。
「この世界には、知る者がいないんだよ」
「…まさか。自転しない惑星なんてないでしょ」
現に太陽が、惜しみない光りを注いでいるではないか。
太陽系の惑星であれば、自転の影響で必ず夜は訪れる。巡るそれは摂理。決して覆ることのない真理。
異世界であるらしいここが、ヒナのいた世界の太陽系である可能性は限りなく低いが、丸いお天道様が空にある限り銀河の理の中に当然身を置いているはずだと彼女は言い切るのだが。
「自転…?」
そもそもラダーは、天文学自体を知らないらしい。耳慣れない言葉に首を捻り、
「…遙か以前、千年も前に、力に傲った魔術師達が日の運行を支配しようとした」
無視された。
「なんてこったい、なけなしの知識なのにさ…。ちょっとは突っ込んで聞いてみてよ」
なんてヒナの呟きはBGMに、ラダーは己の説明を優先させるつもりらしい。
「危険な夜を排除して、安全な昼だけで世界を構成しようとしたんだよ」
魔法の無い世に育ったヒナには、人外の力がどれほどのモノかわかりはしないが、所詮人間の器に収まる程度。広大で果てさえもわからぬ宇宙に浮いた天体を、一つ二つ操れると考えるなどずいぶん過分な傲りではないか。
「バカが多かったんだね」
素直な感想に口元を綻ばせた魔女は、報いは受けたと自嘲した。
「怒り狂った月が暴走を始め、下らない妄想に取りつかれた魔術師は滅び、夜は…消えた」
「へぇ…月って怒るんだ…」
詩人が横行してるんだろうな、と納得がいく表現だ。
星が喜怒哀楽を垂れ流しにした日には、やりたい放題の人間などひとたまりもない。水を汚したとどつき倒され、木を切ったと首をはねられる。
地球上に生命が存在しなくなっちゃうよ…。
牙を剥いて吼える水の惑星を想像したら、背筋が寒くなったヒナは、いやいやいや、それどころじゃなかった、夜が消えたってどういうことだいっと、ラダーに続きを促す。
「えっと、で、今、ここはどんな状況で…?」
いたって普通に見えるのだけれど。草が生い茂ってる辺り植物は生育しているし、ラダーが生きてることから推察すると衣食住に不便があるとも思えない。
…夜がなくなると、どんな風になるのだろう。
頭を疑問符でいっぱいにしたヒナに、彼女はすっと窓を指さして見せた。
夏の強い日差しと、時折吹く南風がが気持ちいい戸外を。眩しい外を。
「今は真夜中。お前さん達の世では、暗黒が支配する時間だよ」
静かに紡がれた言葉をゆっくり反芻して、噛みしめて。
ヒナは窓と魔女を何度も見比べると、ニカッと引きつった笑みを浮かべた。
「すいません、出口はどこですか?」
燦然と太陽が輝く夜など、認めない。