第九話 嫉妬と思惑[2]
「一つ聞きたいんですが、遠樹さんは恋愛を描いているのに、現実の恋愛には興味ないんですか?」
五條さんは真顔で言った。
現実の恋愛? そんなこと聞かれても困る。
「五條さんはどうなんですか?」
俺が問い返すと、五條さんは苦笑を浮かべながら答える。
「好きな女の子はいますよ。ただ、立場上好きだって言えなくて困ってますけど」
立場上言えない? そ、それってまさか、もしや。
「ええぇぇえぇ、まままままままさかっ、そそそそその、もももしや、いいいぃぃい、義妹さささんだなんてことは……っ!」
俺の言葉に五條さんはくしゃっと顔を歪めて笑った。
「バレちゃいましたか」
驚愕。
「ええぇっ!?」
ちょっと待ってよ、五條さん! 衝撃的過ぎてコメントなんか思い浮かばない。動揺してアワアワする俺に対して、五條さんは落ち着いている。クールだ。何故そんなに平静を保てるのか、胸ぐらグラグラ掴んで揺さぶって、聞きまくり問い詰めたい。
つか、本当にマジに表情・感情・思考読めなさすぎですよ、五條さん。
「少し話し過ぎてしまいまったようですね」
五條さんは困ったように笑った。
俺は何も言えず、アワアワ阿波踊り中だ。頼む、誰か適切なフォローをしてくれ! 恋愛経験値ほとんどゼロな俺には荷が重すぎる。ダメ過ぎる。
「だから僕は、本当に純粋にピュアな気持ちで創作に取り組んでいる五條さんを、とても尊敬してるし憧れているんです。僕は煩悩の塊ですから」
俺は色々な意味や理由で涙ウルウルだ。もう何を言ってもドツボにハマりそうでオロオロだが、しかしここで黙り込んだらますます気まず過ぎる。
「い、いや、俺は別に五條さんが不純だなんて思わないよ! だっていつも一生懸命コツコツ真面目にコンスタントに描いてるじゃないか!! 俺はそんな五條さんを尊敬してるんだ!」
「……遠樹さん」
暫し五條さんは真顔で俺をじっと見つめた。
「遠樹さんは、本当に優しいですね」
五條さんの言葉に、俺は真っ赤になってしまった。
「別に俺はそんな……」
その時だった。
「何よ、孝弘!! なんで男同士で見つめ合って赤面してるのよ!! いやああぁぁぁっ!!」
ちょ、待て、法子!! 何故また不意に現れて俺を殴ろうとしてるんだ!! い、いい加減勘弁してくれ!! マジに死ぬ!! 本気で死ぬ!! 死にたくないけど死んでしまう!!
何故そんなに俺を殴るんだ!! 本気で俺を殺す気か!?
なんでそんなに俺を嫌いなんだ、法子!!
いい加減俺、マジ泣きするぞ!?
ってか、なんでそんなに怒ってるんだよ。なんでそんなに邪険にするんだよ。
俺は生きて存在しているだけで迷惑なのか。それなら頼む、放っておいてくれ。
俺のことはいっそ存在しないものとして扱ってくれ!!
「……なんで泣いてるのよ、孝弘……っ」
法子が何故か泣き声で言った。
「……え……?」
ぼんやりと法子らしき人影を見つめた。視界は靄でぼやけてはっきり見えない。
「……孝弘、そんなに私が嫌いなの?」
「……は?」
哀しそうに言う法子に、俺は驚いてしまう。慌てて自分の涙を拭った。
法子は泣いていた。
「……のり……こ……?」
理解できなかった。それから慌てる。
なんでそう唐突に泣くんだ、法子。
お前のリアクション読めなさすぎて恐いし、焦る。
俺より遥かに強くて頑丈なのに、その涙は何故か問答無用で謝罪しなくてはならないような気持ちになってしまうから。
俺はアタフタ情けないくらいに動揺してしまう。
「どうして孝弘は私が話しかけると不機嫌になるの? 私がそんなに嫌いなの?」
なんでそんな事言われなきゃならないんだ。
「なんでだよ! 別に俺が法子を嫌いなわけじゃない。法子が俺を嫌いなんじゃないか!!」
俺が怒鳴ると、法子は傷付いた、理不尽だと言わんばかりに顔をしかめる。
「嫌いじゃないわよ!!」
法子が泣き叫ぶ。
「へ?」
俺は間抜けな声を出してしまった。
「孝弘を好きなのに!! ずっと昔から大好きなのに!! 孝弘しか好きじゃないのに、どうしてそんなこと言われなくちゃならないのよ!!」
クラリと眩暈に襲われた。それは甘く痺れるような痛みと高揚。高鳴る心臓。速くなる脈拍。全身からふき出す汗。
動悸と眩暈に、世界が揺らぐ。
歪んでよろめき、脳髄を激しく揺さぶる。
「え……ごめん、もう一度言って」
幻聴かもしれない。とうとう頭がおかしくなってしまったのか。
激しくヤバイ。
リアル過ぎる幻。
いや、もしかして冗談なんだろうか。だとしたら質が悪すぎる。冗談だって言われたら、心臓止まるかもしれない。
「もう、ヤだ!!」
法子は叫ぶ。
「孝弘なんて大嫌い!! 全然女の子の気持ち判らないんだから!! デリカシーなくて本っ当最低!!」
な、なんでそんなこと言うんだよ。
止まったはずの涙がまた溢れ出す。
痛い。苦しい。辛い。死にそう。
だから法子なんて嫌いだ。
わざとなのか、たまたまなのか、法子の一挙一動やその言葉は、俺の心を痛烈にえぐり、絞め上げる。
「なんでだよ」
なんでなんだよ。本当にわけ判んねーよ。ちっとも理解できない。判りたくたって絶対無理。
全身で拒絶されたら、もう立ち直れない。お前なんか嫌いだとか言われたら、言葉なんか出ない。声を出すことすら怪しくて。
眩暈と痛みに震えて、どうしようもなく立ち尽くす。
「お前だってデリカシーねぇよ。嫌だって言っても勝手に俺の部屋入って来るし、頼んでもないのに、メシとか持ってくるし、文句ばっかり言うし、殴るし叩くし引っかくし」
俺を振り回して、動揺させて、混乱させる。
「本当、わけ判んねーよ。振り回されて、引っかき回されて、迷惑してんだよ」
「迷惑……?」
法子は涙で濡れた瞳で、俺を呆然と見つめる。
「迷惑なの?」
傷付いたような顔で聞き返されて、何故か俺は罪悪感と後悔に襲われる。
「……なんで」
なんでそんな辛そうな哀しそうな顔をするんだよ。
俺が悪いのか? 俺が何もかも悪いのか?
だったら手厳しく責め立ててくれ。
これ以上ないくらいに打ちのめしてくれ。
その方がマシだ。
こんな拷問最悪だ。
「法子……泣くなよ」
「誰のせいだと思ってんのよ!」
法子は逆上する。
泣かれるより断然良くて、俺は安心する。
「なんで孝弘は変なところで優しくするのよ。だから私、諦めたくても諦めきれないんじゃない!!」
クラリとした。
俺は懸命に冷静さを保とうと努力する。
「ちょっと待て、法子。それってなんだか告白っぽい。妙な誤解を招くから……」
「妙な誤解って何よ!! 私は孝弘を好きなのに!! 孝弘は私のこといったいどう思ってるのよ!! 迷惑なの!?」
心臓が大きく脈打った。
「え……っ、まさか……っ!」
思わず大きく息を呑む。
「好きってまさか、そういう意味の好きなのか……?」
声がかすれる。
「孝弘のニブすぎ! 本当に腹立つ!! こんなこと何度も言わせないでよ!!」
「あ……っ」
どうしよう、嬉しい。顔が熱くなる。全身の血が沸騰する。手指がぶるぶると震える。全身に、電流のような痛くて甘い痺れが走る。
「……法子」
思わず口元がゆるむ。
「何笑ってんのよ! ムカつく!!」
真っ赤な顔で法子が怒鳴る。だけどもう恐くない。むしろ涙目で赤面してて可愛い。
「法子」
なんかヤバイ。異常なくらい可愛く見えてきた。
「何よ……なんでそんな顔で見るのよ、孝弘……っ」
法子の語尾がどこか甘えるようにかすれて。
激しくヤバイ。
なんなんだ、これは。
あり得ないくらい眩しくて、クラクラして、輝いている。
こんな法子なんて知らない。
知らない法子。
恥じらってるみたいに顔を赤らめて、下から見上げてくるその顔は、小動物みたいに見えて愛らしい。
なんなんだよ、この可愛い生き物は。
俺はいったいどうしたら良いんだ。
跳ね上がる心臓と、高鳴る鼓動、上がる体温に、荒くなりそうな呼吸。
ちょっと待て。
こんなの反則だ。
あっという間に俺は引き込まれて、引きずり込まれて、逃れられなくなる。
視線を外せない。
ヤバイ。
脳裏でヤバイと激しく警鐘が鳴る。
なんかすごくヤバイと理性が俺に警告する。
一刻も早く視線をそらさないとマズイことになると、誰かが囁く。
魔女の魔術に囚われたみたいに、俺は呆然と陶然と法子を見つめた。
「……すみません」
いたたまれなさそうな五條さんの声が降って来た。
「良い雰囲気のところ大変お邪魔しますが、僕は休憩がてら一時間か二時間くらい外を散歩してきますから、用事が済んだら、携帯に連絡してください」
「はわぁっ!!」
「きゃああぁっ!!」
途端に我に返った。
思わず悲鳴の二重唱。
「ああぁああ、いいぃえ、ごごごご五條さんっ! き、気ぃ遣う必要ないですから!! べべべ別に何でもないですからっ! いてくださって結構です!! むしろいてください!!」
俺の心の平穏のために。
「なんでそんな事いう……モガフガ……っ!」
激昂しようとする法子の口を手で塞ぐ。
「え、でも」
五條さんは不思議そうな戸惑うような気遣うような顔になる。
「大丈夫ですから。原稿早く上げないとマズイですし」
俺の腕の中で法子が暴れるのを、逃げられないようにギュッと抱きしめ、法子の顔を胸に押さえ込みようにしながら答える。
五條さんは苦笑しながら言う。
「いえ、でも、さすがにこの状況では、僕も冷静に集中できるか少々自信ありませんし。先に済ませた方が良いのでは」
先に済ませる?
「先にって何を済ませろって言うんですか!」
俺が叫ぶと、
「僕の口からは言えません」
五條さんはどこか人の悪い笑みで答えた。
俺は絶句した。
「とりあえずは10分散歩してきますね。何かあれば連絡ください」
五條さんは有無を言わせぬ調子で言って、出て行った。
俺はそれを呆然と見つめた。
現在時刻は20時57分、残り17時間23分。