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第七話 臆病

 リミットは明日の14時20分、現在時刻は18時40分、残り19時間40分だ。


 点描を終えた後、暫く乾燥させつつ、じっくり眺める。

 我ながら素晴らしい出来だ。いや、まだ出来上がってはいないのだが。しかし、本当に俺は天才だ。ある意味この上なくアホではあるが。恐ろしいまでの天才っぷりだ。誰も褒めてくれないので、自画自賛。

 それはともかく、時間を節約するためにも、ドライヤーを、と思ったその時、部屋のドアがノックされた。

 ギクリと身をすくませる俺に、部屋の外から法子の声がかかる。

「夕食出来てるけど食べる?」

 それは拒否し難い誘惑だった。法子の言葉に、俺の腹の虫がラブコールを送った。

 どうしようか迷いつつ、遠慮がちに五條さんの方を見ると、五條さんはにっこり穏やかに微笑んでいた。

「遠樹さんのお好きになさってください。僕が買ってきたのは、軽食や菓子類ですから。きちんとした食事が出来るのであれば、下剤が仕込まれていない限りは、断る理由は僕にはありません」

「下剤?」

 思わず聞き返すと、五條さんは恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「以前、下剤入りのカレーを食べて、酷い目にあった事があるんです」

 さらりと言うが、それは壮絶で衝撃的な告白だと思う。何か言わねば、と身構えた俺に、五條さんはゆったりと尋ねる。

「どうなさいますか、遠樹さん」

 俺は逡巡したが、ドアの鍵を外して開けた。

「孝弘」

 頬を赤らめ目を潤ませた法子が、盆にハンバーグカレーと冷たいお茶を乗せて立っていた。

「あ、いや、法子。ここでは食べない。悪いけど下で食べる」

「え?」

「ここだと汚れるから」

 勿論、原稿が。



 法子を先頭に、俺、五條さんと並んで、階下へ降りた。

「法子」

「なぁに?」

「上に目玉焼き乗せて食べたい」

 そう言うと、法子はクスクスと笑った。

「孝弘、昔からそういうの好きよね」

「好きだよ。それが何かおかしいのか」

 そう言ったら、法子は黙り込んだ。

 黙々と階段を降り、リビングのドアを開けた時、法子が言った。

「じゃあ、目玉焼き作るから待ってて。笹木さんはどうします?」

「待ちます。目玉焼きは結構ですが」

「判ったわ。じゃあ、暫く待っていてください。すぐ出来上がりますから」

 そう言って、法子はお茶だけリビングのテーブルに置いて、台所へ行った。

 ちなみに、リビングの奥がダイニング・キッチンという構造だ。間にドアがあるが、今は開かれたままだ。

「テレビつけましょうか、五條さん」

「あ、はい、そうですね、遠樹さん」

 俺はテレビの電源を入れた。テレビは今日のニュースを報じている。午前中に隣町で火事があったらしい。

 しかし、俺は消防車のサイレンを聞いた覚えがない。

 なんにせよ近所じゃなくて良かった。

 原稿や秘蔵の貴重な同人誌が焼失したら、間違いなく俺は号泣する。

「700mくらいの所ですか。良かったですね、遠樹さん。近所だったらシャレになりませんよ」

「うん、俺もそう思ってた。ところで敬語とか丁寧語やめましょうよ。タメなんだし」

 俺がそう言うと、五條さんは照れくさそうに笑った。

「判りました。でも、普段からだいたいこんな喋り方なんです」

 五條さんは眼鏡をかけた真面目で穏やかな優等生風だ。それが地だと言われれば、そう見える。

「そう言えば、同人とか創作以外の話ってほとんどした事ないけど、五條さんって家でもそんな感じ?」

「ずっと一人っ子で父子家庭だったので、家で会話するようになったのは近年だけど、こういう感じです」

「えっ、じゃあ、妹って血の繋がりない!?」

 血の繋がらない妹、は憧れの存在だ。それだけで漫画を十本以上は書けそうなくらい。実の妹ではないなら、ありとあらゆるバージョンやシチュエーションを想定できる。今すぐにでもネーム(草案)が描けそうだ。

 五條さんは苦笑を浮かべながら頷いた。

「でも、実際はそれほど良いものじゃありませんよ。気を遣うし」

「俺も一人っ子だから、家に自分以外に誰かいるってだけで、嬉しいと思うけど」

「ああ、それは多少はありますけど。だけど良い事ばかりじゃないですよ。例えば家事はいつも僕がしてるんです。妹にやらせると、それこそ火事になりかねませんから。一度ボヤ騒ぎを起こされて、台所と作りかけの料理が、消火液まみれになった事も」

 それは笑えない。

 ってか、なんで笑いながら話してるんですか、五條さん。

 大物だ。

 そこへ法子がお盆を持ってやって来る。

「お待たせ」

 ハンバーグカレーと目玉焼きのせハンバーグカレーだ。思わず唾がわいてくる。

「おいしそうですね。スパイスはオリジナルですか、法子さん」

 五條さんの言葉に、法子は嬉しそうに頬を紅潮させた。

「ええ、そうです。判ります?」

 えっ、そうなのか!? ってなんで判るんだ、五條さん。実は超能力者なんじゃないだろうか。すごい。

 でも、そんなことでいちいち顔を赤らめるな、法子。紛らわしいぞ。

「僕も作りますから。クミン、コリアンダー、クローブ、カルダモン、ココナッツミルクパウダー、カイエンペッパー、シナモン、ガラムマサラ、ターメリック、チャツネといったところですか」

「あとローリエ、フェンネル、フェネグリークも入ってるんです」

 わけの判らない呪文を並べられて、俺はチンプンカンプンだ。

「玉ねぎの香りも良いですね。先にスライスを良く炒めて、後で大きめのものを追加してるんですか」

「そうなんです。私、ついうっかり玉ねぎいっぱい入れちゃって」

「いや、おいしそうですよ。よく炒めた玉ねぎは甘さや深みを出してくれますから」

「そ、それより食べないと冷めるから……」

 俺が口を挟むと、五條さんがハッとした顔になる。

「すみません。つい、つまらない長話をしてしまいました」

 五條さんは深々と頭を下げる。俺は慌てた。

「あ、あの、五條さん、料理が得意なの?」

 フォローしようと話題を振ると、

「得意というか、好きなんです。必要に迫られて覚えたんですが、結構ハマってしまって研究したので」

 という答えが返ってきた。必要に迫られたら、買って簡単に済ませようとする俺とは正反対だ。

 五條さんの言葉に、法子はニヤッと笑って言った。

「孝弘はちっとも覚えないわよね。目を離すとすぐコンビニ弁当やカップ麺に走って。私がいなかったら、栄養バランスなんか考えないでしょ」

 図星だが、別に俺はお前がいてもそんなことを考えたりしない。それとも、俺の代わりにお前が考えているとでも言いたいのか。それはあまりにも押し付けがましいと思う。

 が、口に出すのは

「どうだって良いだろ」

 という台詞だけにしておく。

 わざわざ角が立ちそうな事を言うほど俺は好戦的でも攻撃的でもないのだ。

 基本的には、揉め事なく平穏で無難に生きていきたい。

 法子は肉食獣のようなワガママで行動的で凶暴な生き物だが、俺は目立たずひっそり生きていきたい草食動物なのだ。

「どうでもいい? 良くそんな事が言えるわね。私はあんたを心配してるのよ」

 そんな必要などないし、そんな義理も義務もない。

 法子は俺の保護者じゃない。

 たまたま隣に住んでいて幼い頃から顔見知りというだけの赤の他人の女だ。

 小中高と学校が一緒で、親同士が仲良くて、食事を一緒にしたり顔を合わせる事も多くて、自然と他の女より会話したり接触したりする機会が多くて、初恋相手だったりもするけど、友達でもなければ、恋人でもない。

 何も繋がりがない。

 よくある幼なじみ物ラブコメにあるような約束事ですらない。

 気付いたらそばにいた。

 だけど、ただそれだけで、印象的な思い出すらない。

 ただ記憶はあるが、思い出と言える思い出などない。

 赤の他人と同じくらい、希薄だ。

 特別なものは何もない。

「家族でも友人でもないんだぞ?」

 繋がりたくても、共通の趣味や興味ですらなくて。

 まるで俺達の会話は、手の指からこぼれ落ちる砂のように一方的で、噛み合わなくて、通じなくて。

「孝弘にとって、私は特別じゃないの?」

 特別って何だ。どういう意味だ?

 異性として意識しているかという意味ならば、ずっと前からそうだ。

 見知らぬ赤の他人と比較するなら、もちろん特別。

 じゃなきゃ、こんなに扱いに困ったりしないし、悩まない。

 お前が俺を無視してくれれば、全て楽に済むんだ。

 お前が俺を構おうとしなければ、俺は気にせずに済むんだ。

 俺は法子が恐い。

 理解できなくて、とても恐い。

 自分と同じ生き物だと思えた昔、法子の感情や意識なんて気にせずにいられた子供の頃なら、恐いなんて思わなかった。

 予測不能で、理解不能で、何が言いたいのかすら判らない。

 判らないのに、目の前にいる。

 俺に絡んでくる。

 無視できない。

 だから余計に恐いんだ。

 俺は平穏無事に、誰とも関わらずに、目立たずひっそり、傷付かないよう静かに生きていきたいのに。

 法子は俺の日常にズカズカ容赦なく入り込んで、引いたつもりの境界線すら躊躇なく踏み越えて来る。

 真っ直ぐな目で睨みつけられると、何をどうしたら良いのか判らなくなる。

 俺は自分に自信がなくなってしまう。

 間違っているのは自分じゃないかと思ってしまう。

 踏みしめているはずの地面が揺らぐ。

「意味が判らない」

 何をしたいのかも判らない。

 何を期待されているのかも判らない。

「なんでそんな怯えた顔をするのよ。私、あんたに何かした?」

 いっぱいしてる。やることなすこと全てがそうだ。

 だけどそれは、常識から言えば、恐怖を覚えるような事じゃないのも判っている。

 だから俺に法子を責める理由はない。

 だから俺は何も言う事ができない。

 何が恐いのか、何故恐いのか、俺は法子が納得してくれるだけの理由と根拠を持っていない。

 悪い人間がいるとしたなら、たぶん俺だ。

 さしたる明確な理由もないのに、法子の一挙一動が恐いだなんて、俺が臆病過ぎるとしか思えない。

 だいたいそんな事を正直に告白したら、いくら相手が猛獣な法子だって、きっと傷付くに決まっている。

 泣かれるくらいなら怒られる方がマシだ。

 頼むから俺を見ないでくれ。

 頼むから俺に話しかけないでくれ。

 どうしたら良いのか判らなくなるから。

 法子は真っ直ぐ過ぎる視線で、俺が隠したいと思っている事まで正確に読み取ってしまうから。

 心までも読み取られているみたいで、恐くなる。

 だから視線をそらす。

 法子の目なんか見られない。

 自分に目を向けられたくもない。

「腹が減ってるんだ」

 感情を押し殺そうとして、硬く不自然な声になる。

「ごめんなさい」

 法子は何故か悲しそうに言った。謝る必要なんてないのに。

 いたたまれなくなって、慌ててカレーを掻き込むようにして食べた。

 焦り過ぎて蒸せそうになったが、なんとか堪えた。

 あぁ、本当に俺、情けない。

 どうしようもなく小心者で臆病で。

 皿が空になると、すかさず法子の手が伸びてきて、

「おかわりする?」

 聞かれて無言で頷いた。

 法子は皿を持って立ち上がり、台所へ向かった。

「遠樹さん」

 五條さんの声に、ギクリとした。

 顔を上げると、彼は困ったような穏やかな微笑を浮かべている。

 俺は返事ができない。

「言葉は万能ではありませんが、言わない事は伝わらないですよ」

 それは判っている。

「まぁ、僕も人の事は言えませんけど」

「……五條さん」

 五條さんはにっこり笑った。

「案ずるより生むが易し、とも言いますし」

 何を言ったら良いのか判らない時はどうしたら良いんだろう。

 何をしたら良いか判らない時は?

 判らないから俺は何も言わず、何もしない。

 できないからだ。

 俺は臆病な人間だ。

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