第四話 誤解と回想[2]
化粧の香りは嫌いだ。
香水の匂いは苦手だ。
法子は得体の知れない魔物に変わってしまった。
昔のアイツは、あんなじゃなかった。
俺を『たぁくん』と舌足らずな声で呼び、子犬のようにまとわりついて、無邪気で純粋で、とても可愛かった。
少なくとも胸の谷間など見せなかったし、パンツも太腿も見せなかった。
眉毛は細くなかったし、目のまわりは黒くなかったし、茶髪でもシャギーでも内巻きでもなく、色白で美しい黒髪の真っ直ぐな直毛をツインテールにしていた。
たぶん初恋だったのだと思う。
だが、成長と共にアイツは俺の理想からかけ離れていき、俺に嫌な現実を見せつける。
俺は思った。女は成長すると汚れてしまうのだと。
かつてあった純粋さや清らかさは薄れて、汚れて失われてしまうのだと。
とはいえ、俺は子供は嫌いだ。
子供はうるさい。
子供は汚ない。
子供が天使だなんて大嘘だ。
連中は悪魔だ。
悪夢を具現化した性悪な生き物だ。
夢や理想など現実にはない。
それは人の心の中にしか、存在しない。
俺は絵を描いている間だけ、世界一自分を強く感じる事ができる。
描いている時は、最強で最高の興奮とカタルシスを得る事ができる。
俺は他に才能がない。
俺は他に取り柄がない。
誰かに賞賛されるために描くわけじゃない。
俺は俺を感じて、俺の理想を、夢を、この汚れた俗世で、形にしたい、表現したい、ただそれだけだ。
誰かのためじゃない。
何かのためじゃない。
俺は、俺が描かなければ、誰も知らない世界や夢を形にして残したい、誰かと共感したい、それだけだ。
だから、創作なんて言ったって、自慰とさして変わらない。
だからといってやめられるものなら、寝食削って、精神力の全てを注ぎ、体力・気力の限界まで描いたりしないのだ。
俺はMじゃないし。
自尊心などない方だと思う。
現実世界での評価など、ぶっちゃけどうでもいい。
そんなものは気にしない。
ナルシスティックで閉鎖的だと言われりゃ、反論できない。
揺るぎない自分なんてものは持ってない。
自分自身を愛せるかと聞かれたら、微妙だ。
でも、自分の脳裏に描き出した精神世界、夢の存在はこよなく愛している。
そういう意味では、俺は変態だ。
間違いなく変態だ。
法子だろうと誰だろうと、他人にそんなことを指摘されれば、不快だが。
現実逃避だとは思わない。
俺にとって、俺が創造した世界も、俺の現実の一つだからだ。
別に、夢と現実の区別がついていないわけじゃない。
夢は俺の一部だ。
俺を構成する組織の一部だ。
別にそんなことを他人に主張したりしない。
知って欲しいとは思わないし、判って欲しいとも思わない。
どうせ俺はマイノリティだ。
卑下してるわけでも、特別だと思ってるわけでもなく。
ただ、広い世界の片隅で、ひっそり目立たず、だけどコソコソ隠れる事なく、自分のペースで生きられれば、それで良い。
誰かに愛されたいとは思わない。
誰かを愛したいとは思わない。
ただ邪魔しないで、放置して欲しい。
他人の邪魔にならない程度の生き方しか望まないから。 それすら迷惑だと言われちゃたまらない。
虫けらにだって、生きてさえいりゃ、五分の魂がある。
そこまで否定されたくない。
社会貢献、無償の奉仕、大いに結構。
でも、俺の知ったこっちゃない。
普通高校二年生の俺の将来は既に確定済みだ。
焼肉屋を継ぐこと。
嫌だと言っても仕方ない。
俺は一人息子だ。
好き勝手する代わりに、それくらいしてやるのが、きっと親への義理なんだろう。
でも夢も希望もない。
だけど嫌とは言えない。
俺は小心者だ。
まあ、そんなことはどうでも良い。
元々どんな仕事や職種にも興味ない。
漫画家になれるほど上手いかって言われりゃ微妙だし。
素人・一般人(普通の人の事だ)や下手な漫画家よりは、上手いと思う。
だけどプロとして食っていけるかといえば、それほどの自信はない。
アルバイト程度の挿絵描き程度なら、やっていけるかも知れない。
でも、俺が描きたいのはあくまで漫画だ。
夢という名の妄想だ。
いつまでもこんなことはやってられないとは思う。
修羅場(原稿の〆切)がくる度に、寿命削りそうな勢いで、体力・気力の限界ギリギリで、その時点での最高傑作を生み出すために尽くす。
ダウナー(鎮静剤が語源。欝っぽい)とアッパー(興奮剤が語源。躁またはハイっぽい)いずれかと言えば、俺はアッパーだ。
描くための準備の儀式(BGMや雰囲気作りなど)を行い、集中力を高めて、創作神の降臨を待つ。
描いてる時の俺は、俺であって俺じゃない。
普段の俺とは別人格だ。
だから、終わった後は異様に疲れる。
憑かれてるんじゃないかと思うくらい疲れる。
屍だ。
かろうじて生きている死人、ゾンビ、抜け殻。
だから自分の作品・原稿は俺の血肉だ。
だから俺はそれらを愛している。
一般人には、ただのラクガキ描いた紙切れにしか見えないかも知れないが、俺には我が子、我が分身も同然だ。
ああ、なのに法子。
あの血も涙もない極悪非道の悪鬼。
許せない。
なんであんなことしやがったんだ。
不快ならば、見なけりゃ良い。
嫌いならば、触れないでくれ。
俺を殴りたければ殴れば良い。
蹴りたきゃ蹴れ。
だけど原稿には手をかけるな。
俺の原稿には触れないでくれ。
破られなくても、化粧や汗や香水等で、汚れてしまう。
だんだん怒りがわいてきた。
いったい俺が何をした。
思い返しても、理解できない。
心当たりなどまるでない。
気迫と、得体の知れない恐怖のような何かに負けて、俺はうかうかと自室に法子を入れてしまった。
今、思えば、あれは罠だったんだ。
ドリップしたての珈琲が飲みたい等と、法子がほざき、拒むと脅された。
俺は嫌々、普段はあまり使わない珈琲メーカーを押し入れから出して、珈琲を入れて、部屋へ戻った。
部屋は荒らされていた。
幸い押し入れ裏の同人誌は見つからなかったようだ。
しかし、ある意味見つかると最も恐ろしい物、触れられたくない物が、法子の手にあった。
俺は蒼白し、それまでの人生でかつてなかった程に取り乱し、動揺し、慌てふためいた。
『これは何よ』
それ以降の悪夢、最悪の事態については、忘れられないが、二度と思い出したくない。
自分の魂を引き裂かれる恐怖と絶望。
生きているのが、嫌になる。
そんなに俺の事が嫌いなのかよ。
そんなにも俺が憎いのか。
それならそれで構わない。
だけど暴力振るうなら、俺だけにしてくれ。
別にマゾじゃないけど、あんなに胸が張り裂けそうな想いは、一度経験すれば十分だ。
いや、一度だって経験したくなかった。
親に家捜しされた事がなかったから、油断していた。
まさか、隣に住んでて顔見知りというだけの赤の他人の手によって、家捜しされた上に、命より大事な原稿を破られるなんて、思いも寄らなかった。
何故、あんなことをしたんだ、バカ女。
何故、あんなことをする必要があったんだ、クソ女。
畜生、俺が何をした。
文句あるなら、口で言え。
罵倒したけりゃ、いくらでもしろ。
お前なんか、わけ判らなくて、恐くて、大嫌いだ。
なんでそんなことするんだよ。
酷いじゃないか。
酷過ぎる。
「いったい僕がいくつに見えたんですか、法子さん」
五條氏の声が聞こえる。
「ごめんなさい。てっきり12歳くらいかと」
なんて失礼なことを言うんだ、バカ法子。
「それは酷いですよ。いくら僕が小柄で童顔とは言え、五歳も下に間違えるなんて」
「本当にごめんなさい。後ろ姿だけだと本当に小さく見えて」
失礼過ぎるにも、程がある。
「このまま目覚めなければ、救急車を呼ばなくてはならないかもしれません」
落ち着いた声色で、淡々と五條氏が言う。
「えっ……救急車?」
「そうなると、おそらく事情を聞かれるでしょう。場合によっては、警察などによる事情聴取も」
「えっ、警察?」
それはいくら何でも大げさな。
「詳しい事情は存じませんが、覚悟はできてらっしゃいますか」
淡々とした口調なのに、迫力がある。
五條さんて、こんな人だったか?
「……どうしよう。そんなつもりじゃなかったのに」
「そんなつもりじゃないで済めば、警察は要りませんよね。それより気の毒なのは、遠樹、いや柳沢さんだ。死なずに済んでも一生後遺症が残るかも」
「やだ! そんなの嫌っ!!」
法子の大声に、驚いて目を開いた。
額には何故か○えピタが張られていた。
俺はベッドに寝かされ、微笑を浮かべた五條さんと、目に涙を浮かべた法子が、俺を覗きこんでいた。
「え、あっ、法子!?」
何故、泣いている!!
泣きたいのは俺の方だ!!
だ、な、なんで!!
「ごめんね」
五條さんが眉を下げて笑った。
「僕が泣かせちゃいました」
「……へ?」
理解できなかった。
「いや、僕もちょっと腹立ててたんで、つい。ごめんなさい。きつい言い方で、軽く脅しちゃった」
「……は?」
状況が把握できない。
そんな俺に、マスカラが溶けて黒い涙を流す法子が抱きつき、しがみついてきた。
「ちょ、な、法子! な、何!?」
法子は答えない。
「……お邪魔かな」
そう言って、五條氏は帰り支度しようとする。
「ちょ、待ってください、五條さん! いてください!! お茶入れますし、げ、原稿まだ上がってませんし!」
こんな状況で二人きりにされるなんて、あまりに恐ろしい。
わけ判らないし、怖すぎる。
それに現在の状況と、こうなった経緯も知りたい。
「それもそうだね。僕、ちょっと動揺してるみたいで」
いえ、ちっともそうは見えませんが。
穏やかな微笑が、人の悪い笑みに見えるのは気のせいだろうか。
五條氏は、座り直す。
姿勢がぴんと伸びた正座。
「あ、あの足を崩して、楽にしてください、五條さん」
「いえ、正座の方が楽なんで」
そうなのか。
ならば、仕方ない。
ところで問題は法子だ。
痛い――背中や首に、爪を立てられて。
臭い――化粧と香水が。
汚い――マスカラとファンデーションと鼻水が。
なのに、乱暴にはねつけられない。
逃げたくても逃げられない。
体が硬直する。
どうしたら良いか判らない。
離れろと怒鳴りつける事もできない。
俺は情けないくらい動揺している。
冷静な判断など絶対に無理だ。
「あの、どうして……」
俺が質問しようとすると、五條氏はちょっと困ったように笑って、
「泣かせたのは僕の責任だけど、根底にあるのは、別の問題だよ。だから、本当は暫く二人で話し合った方が良いと思うんだけど」
「か、勘弁してください、五條さん。この猛獣女と二人きりにしないでください」
「……っく、誰が猛獣よぉ……なんで、そんなこと言うのよぉ……ひっく……っ」
ぎゃあ、な、なんなんだよ、法子!
く、耳元で喋るな!
へ、変な鼻息吹きかかるんだよ!
く、口紅ついたら、服、弁償しろよ。
いや、どうせ汚れて良い服だけど。
とにかく助けを求めて、五條氏を見上げる。
五條氏は仕方ないなという風に柔らかく笑って、
「大丈夫、柳沢さんはそんな酷いケガじゃないから。救急車は必要ないし、パトカーも来ない。ね、そうでしょう?」
どうやら五條氏は、一般人の法子を気にしてか、俺をペンネームではなく本名の方で呼ぶ事にしたらしい。
「あ、は、はい……」
「本当? 孝弘」
泣き濡れた瞳で、法子が見上げる。
これがラブコメで、二次元美少女ならば、素晴らしく絵になって、ズギュン(死語)と胸を射抜かれる瞬間だろうが、マスカラその他が溶けてグチャグチャになって、目と鼻を赤くしている姿は、お世辞にもキレイとかカワイイとか言えない。
むしろキモイ。
だから、化粧はダメなんだ!
ブスは仕方ないとしても、そうじゃなければ、化粧なんかしなけりゃ良いと俺は思う。
母親が全く化粧しないから、そう思うのかも知れないが。
少なくとも化粧したら、泣かないで欲しい。
マジでキショイ。
恐い。
化け物だ。
だいたい濃すぎるからいけないんだよ。
眉も細すぎて、ちょっと間違えれば、○じゃる丸だ。
勘弁して欲しい。
なのになんで俺、可愛いとか思ってんだ。
なんで視界にハレーションかかってるんだ。
これは何かの間違いだ。
気の迷いか動揺しているせいに違いない。
悪霊退散。
エロイムエッサイム。
南無阿弥陀仏。
般若波羅えーと忘れた。
っておい、俺、動揺し過ぎ。
泣きたくなる。
「本当に席外さなくて良い?」
俺は飛び上がる。
「や、冗談でもやめてください! 死んじゃいます!」
俺は悲鳴を上げた。
たぶん腐女子が主人公ではないのは、リアル過ぎるか、違う話になるからです。
ちなみに私は、書いてる時はたいてい、躁欝で俺様でオラオラです(危険人物か?)。
たぶん別人格で憑かれています。
でも十代と比較すれば、更生(?)しています。
しかし、全ての人がそうではありません。