第三話 誤解と回想[1]
ペン入れをしようと、丸ペンをペン軸につけたその時だった。
ドアのチャイムが鳴り響いた。
ちなみに日曜だけど、親父もお袋も不在だ。
何故なら、自営業で二人で焼肉屋を経営しているからだ。
つまり、夜まで親は帰って来ない。
ピンポンピンポンピンポン、と連打される。
「……遠樹さん? チャイム、鳴ってるけど」
五條さんが、平気?と聞いてきた。
「あれは出ない方が良い」
俺は自信を持って、断言した。
「え、でも」
「相手が誰かは判ってるんで」
ギャルだ。
隣に住んでて顔見知りというだけの赤の他人な女。
俺とは全くリンクしない別個の精神世界の住人。
茶髪で、シャギーで、内巻きで。
高校生のくせに厚化粧して、香水つけて。
ピアスやらペンダントやらブレスレットやら指輪して。
チャラチャラとして軽薄で、スカート異様に短くて(パンツ見えるっての!)。
J-POPとか美少年アイドルとか、ボーカルの顔さえ良ければ、ロックやパンクやビジュアル系まで、ジャンルや傾向おかまいなしで。
デリカシーなくて、汚れてて、不躾で、自分勝手で、強引で。
何の話か良く判らない、愚痴なのか自慢なのかサッパリ判らねぇ自分の話ばっかりで、人の話なんか聞きゃしない。
携帯電話のアドレス帳には、男も女も取り混ぜ90件以上(俺は14件)。
子供の頃は良く遊んだけど、中学入ってからは、宇宙人。
未知の世界の住人だ。
俺は元々インドアだし。
あいつはガキの頃から、外へ出るのが大好きで。
小学生の頃は何とか無理して合わせてやったけど。
趣味・嗜好・性格・傾向が、あまりにも違い過ぎた。
チャイムがけたたましく、悲鳴みたいに連打される。
それでも絶対に出ないと、唇を噛み締め、神経集中して、ペンを握る。
心頭滅却すれば、火もまた涼し。
この程度の雑音など、今の俺には通じるものか。
すうっと息を吐いて、精神統一。
……ほら、静かになった。
今の俺には、何も聞こえない。
何にも動じない。
静かなものだ。
いざ、ペンにインクをつけて、一刀入魂。
「ちょっと、孝弘!」
バン、と大きな音を立てて、部屋のドアが開け放たれた。
「うわああぁっ!」
あらぬところに線が入ってしまった。
思わず涙目で振り返る。
そこにいたのは隣に住んでる赤の他人。
「な……っ!」
何故そこにいる!
家の鍵は閉まっていた筈だ。
思わず凝視した俺の目の前で、どこかで見たような形の鍵とキーホルダーが大きく揺れる。
「……そっ……それは合鍵!?」
なんで、という悲鳴は声にはならなかった。
何故ならまたもや法子に、頬を打たれたからだ。
けたたましく高い音が、室内に響く。
「真っ昼間から男の子連れ込んで、カーテンぴっちり閉め切って、いったい何やってんのよ! この変態!!」
「……はい?」
わけが判らなくて、俺は間抜けな声を上げてしまった。
「私がおばさんから鍵を預かってたから、良いようなものの、ロリコンだか何だか知らないけど、こんな小さい男の子を家に連れ込むなんてっ! 私、恥ずかしくて、世間に顔向け出来ない!」
ちょっ、待て、法子。
お前、いったい、どういう勘違いしてる……?
「ロリコンな上に男の子にも手を出すなんて、節操なしも良いところよ! 情けなくって、涙も出ないわ! 死んじゃえ、変態!! 地獄に堕ちろ!!」
クリティカルヒット。
痛恨の一撃。
顎に見事なアッパーショット。
俺は一撃で気絶した。
俺は浮遊していた。
お花畑が見えてきそうだ。
今日の昼頃の記憶がふと蘇る。
前日というかその日の明け方頃まで、原稿を描いていた俺は、つい11時過ぎまで寝入ってしまった。
しかし、チャイムの音に起こされて、寝惚け眼で玄関に向かうと、機嫌良さそうな顔の法子が立っていた。
「え? 何だよ、法子。なんでいるの」
「ちょっと、開口一番ソレ? こんなカワイイ女の子が遊びに来てあげたのに、何よ、その仏頂面」
「眠くて疲れてんだよ」
「孝弘、まだご飯食べてないでしょ」
「だったらなんだよ」
とにかく死にそうに眠くて、立ってるのも辛かった。
「お昼ご飯ご馳走してあげる」
法子はそう言って、鍋を掲げてみせた。
「はぁ?」
と聞き返した俺を、法子がアイライナーで縁取られた、きつい目つきで睨み上げる。
「どうせまだ食べてないんでしょ。お腹すいてないワケ?」
迫力ありすぎ。
寝起きの俺は、テンション低くて、とてもじゃないが、対抗できない。
「……空いてる」
「じゃあ、食べなさい」
いったいどんな毒料理食わされるんだ。
同じ学校だけど、法子の料理が上手いなんて噂は聞いたことないし。
たぶん食えたら法子のお袋、食えなかったら法子だろう。
「ちょっと、女の子の前なんだから、下くらいはいて来なさいよ。トランクス一枚で玄関出るなんて恥知らずも良いところでしょ」
「……うっせぇ」
寝起きの俺は、何もかもが、欝陶しくて、だるくて、面倒で、嫌気が差す。
いわゆる低血圧で、低血糖。
何か飲むか食べるかするまで、頭の中がぼうっとしてる。
「相変わらず朝弱いのね」
「……話しかけるな」
「酷い顔よ。シャワーでも浴びて来たら?」
「なんでお前が、俺の家にいるの」
「あんたがドア開けたんでしょ。覚えてないの?」
「……知るか」
「本当に酷い寝起きね。昼間と全然性格違うし」
「……何しに来たんだよ」
「だから、食事よ。あんたの好きなカレーだから、温めるだけで食べられるわよ」
「…………」
いつの間にか、眠っていたらしい。
カレーの匂いで目が覚めると、何故か玄関先で、毛布にくるまって寝ていた。
「……なんで、こんなとこにいるんだ?」
わけが判らなかった。
「やっと起きたのね」
法子がそう話しかけて来た。
「なんでお前が、家の中にいるの?」
「孝弘が開けてくれたからでしょ」
覚えていない。
だが、会話には覚えがあった。
しかし、それが今日なのか、一ヶ月前なのか、一年前なのか、判らない。
目の前にすっと差し出されたマグカップを受け取り、インスタントのスープをすすった。
「……何しに来たんだ?」
ようやく回り始めた頭で尋ねると、法子は苦笑しながら
「カレー持って来たの。食べるでしょ?」
と聞かれ、無言で頷いた。
台所に入ると、カレーが白い湯気を立てて、小さくコポコポと鳴っていた。
無言で椅子に座ると、法子が器にご飯とカレーを盛って、テーブルに置く。
そのまま口をつけようとした俺に、法子は無言でスプーンを差し出し、俺はそれを受け取り、スプーンを使って、黙々と食べた。
皿が空になると、
「お代わりは?」
と法子が尋ねる。
俺は無言で首を左右に振り、皿を流しへ運び、洗剤をつけて洗う。
「どう? おいしかった?」
一瞬、何のことか判らなかった。
無言で法子を振り返ると、少し怒ったような顔で、
「カレーのことよ」
と言った。
「別に」
と俺は答える。
いつも食べるカレーと比べて、香りが何か違ってて、いつもより辛い割に甘さもあった気がしたが、味は少し薄かった。
「普通」
そう答えて、さっさと洗い終えた。
やっと人心地がついてきて、冷蔵庫から清涼飲料水を取り出して、コップに注ぐ。
それをごくごく飲んでいたら、冷たい声の法子に、
「私に出してくれないの?」
と言われた。
「え?」
と聞き返したら、俺の飲みかけのジュースを指差した。
飲みたけりゃ勝手に飲めば良いだろと思いつつも、新しいコップを出して、注いだ。
それを渡そうと思って、法子を見ると、何故か既にその手にコップがあり、ちょうどそれを飲み干したところだった。
「……法子?」
思わず声が裏返った。
一瞬状況が判断できなかった。
ちょ、待て。
なんでコップが二つも――そう思いかけて、先程の自分の飲みかけが、どこにもないのに気付いた。
「おっ……ま、俺の!」
「待てなかったから」
「は? 何それ!」
「良いじゃない、減るもんじゃなし。あんたは今入れたやつ飲めば良いでしょ」
「何考えてんだよ! き、汚いだろ!」
「回し飲みくらい普通するでしょ。それとたいして変わらないじゃん」
「俺はしない!」
自慢じゃないが、一度も経験ない。
「そんな気持ち悪いことしないだろ、普通!」
「…………」
その瞬間、法子の顔から、表情が消えた。
「気持ち悪い?」
何故かその能面のような無表情が怖くて、俺はたじろいでしまった。
「……なんか恐いよ、法子。普通じゃない……」
「普通じゃない?」
ギラリとした目つきで、法子は俺を睨んだ。
俺は全身の毛が逆立つような恐怖に襲われた。
ホラー映画やスプラッタ映画に出てくるやつらに間近で睨まれたって、これほどの恐怖は覚えない。
俺は。
もしや。
こ、
ろ、
さ、
れ、
る!
「ぎゃああぁぁぁっ!」
思わず飛び退いて、後退さり、悲鳴を上げた。
「なんで悲鳴なんか上げるのよ!」
「法子恐い、殺気恐い、化粧キツイ恐い、死ぬ、マジ殺される、助けて、親父、お袋っ……ぐあぁ、恨むなら死んでからにしてくれ!」
「は? ふざけてんの!?」
「やめろ! 近寄るな!! 頼むから!!」
「……まだ、寝惚けんの?」
法子はジットリとした陰険で剣呑な目で、俺を睨みつけた。
俺は恐怖のあまり、声が出ない。
「……孝弘」
有無を言わさぬ迫力で。
「あんた、CD山ほど持っるわよね?」
「……はい」
「一枚貸して」
「……え?」
何故か嫌な予感がした。
「今すぐ貸して」
本当にそれが目的なのかと問いたくなるような、据わった目つきで。
しかも、貸してと言いながら、何を、どんな曲を聴きたいと思っているのか言わないところが、ひどく危険だ。
何かがおかしい。
「え? な?」
混乱する俺の腕を引いて、無理矢理立たせて、紅すぎる派手な唇が間近に迫って来る。
「一枚で良いから貸しなさい」
俺は陥落した。