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君の心臓が鳴る日

掲載日:2026/10/12

真島優司郎が藤堂美沙子と初めて向かい合ったのは、雨上がりのホテルラウンジだった。


お見合い、と聞くと、美沙子は少しだけ唇を尖らせた。


「もっとこう、格式ばった感じかと思っていました」


「僕もです。白い手袋の人が出てくるとか」


優司郎がそう返すと、美沙子は一瞬きょとんとして、それから声を立てずに笑った。窓ガラスに水滴が残る午後だった。彼女の笑顔は、その雲間から差す明るさによく似ていた。


三十一歳の優司郎は、都内の設計事務所で働いていた。几帳面で、口数は多くない。二十九歳の美沙子は小さな出版社で校正をしていて、言葉を丁寧に扱う人だった。


話題がなくなれば、普通のお見合いなら気まずくなるのだろう。けれど二人は、沈黙を急いで埋めなかった。美沙子が窓の外を見ながら「雨の日は、街の色が少しだけ正直になりますね」と言ったとき、優司郎はこの人となら、言葉のない時間も悪くないと思った。


それから五か月。


二人は、毎週土曜のどちらかを一緒に過ごすようになった。古本屋を巡り、川沿いを歩き、駅前の定食屋で食べきれないほどの唐揚げを頼んで笑った。美沙子はジェットコースターが苦手なくせに、遊園地へ行きたがった。


「苦手なものを克服したいんです」


「どうして?」


「将来、子どもができたときに『お母さんも怖いから乗らない』って言いたくないので」


その言葉に、優司郎は返事をしなかった。


代わりに、彼女の横顔を覚えておこうと思った。


そのころから美沙子は、ときどき胸元を押さえるようになっていた。最初は階段を上がったあとだけだった。次第に、何もしていないときにも息を整えるようになった。


「たぶん動悸です。最近、締め切り続きで」


そう言って、市販の栄養剤を笑いながら見せた。優司郎は心配したが、美沙子は大丈夫、と同じ言葉を繰り返した。


遊園地の日は、初夏の光が眩しかった。


昼過ぎ、二人は観覧車の列を眺めていた。ジェットコースターは結局、美沙子が顔を真っ青にして断念した。優司郎は笑わず、温かい飲み物を買いに行った。


戻ったときだった。


美沙子が、ベンチの前で膝から崩れ落ちた。


紙コップがアスファルトに転がり、ミルクティーの薄い茶色が広がっていく。優司郎は名前を呼び、彼女の肩を支えた。美沙子の手は、驚くほど冷たかった。


検査の結果が出るまでの数日、優司郎は仕事をしていても、どこか別の場所にいた。


医師の説明は、静かで、しかし容赦がなかった。


原因の特定できない拡張型心筋症。心臓の筋肉が弱り、血液を送り出す力が落ちている。すでに進行はステージC。薬や生活管理で経過を見ながら、補助循環装置や移植を含めた治療も視野に入れる必要がある。


「半年」という言葉は、断定としてではなく、可能性のひとつとして医師の口から出た。


美沙子は診察室を出たあと、しばらく病院の屋上庭園にいた。植木鉢の紫陽花を見つめていた。


「怖いです」


初めて、彼女は大丈夫と言わなかった。


優司郎は隣に座った。


「うん」


「何か言ってください」


「……怖いね」


美沙子は泣いた。大きな声ではなかった。顔を覆い、肩を小さく震わせた。優司郎は、安易な励ましを言わなかった。治る、とも、絶対に大丈夫、とも言えなかった。


ただ、彼女の手を握った。


「怖いまま、一緒に考えよう」


その約束だけは、嘘にしないと決めた。


誕生日の一週間前

美沙子は、治療の説明を受けるたびに少しずつ言葉を失っていった。


優司郎は逆に、調べることが増えた。主治医の許可を得て、心不全の患者会の資料を読み、移植医療の相談窓口にも電話をかけた。彼女の代わりに答えを決めるためではない。彼女が選べるものを、ひとつでも減らさないためだった。


ある日、美沙子は病院の待合室で言った。


「もし私が、間に合わなかったら」


優司郎は彼女を見た。


「その話は、今しない」


「聞いてください。もしそうなったら、優司郎さんにはちゃんと生きてほしい。誰かと笑って、ごはんを食べて、遊園地にも行って」


「行かない」


「子どもみたい」


「美沙子さんがジェットコースターを克服するところを見るまで、行かない」


美沙子は苦しそうに笑った。それでも目には涙が溜まっていた。


「約束ですよ」


「うん。だから、約束を守って」


その夜、優司郎は一人で臓器提供意思表示のサイトを開いた。


彼は以前から、免許証の意思表示欄に「提供する」と書いていた。けれど、家族と話したことはなかった。美沙子の病気を知り、彼は改めて、提供とは何なのかを学んだ。


生きている自分の心臓を誰かに渡すことはできない。


だからこそ、死を望んだり、急いだりしてはいけない。


大切なのは、生きている間に、誰かの生を支える選択肢があると知ること。そして万が一のとき、自分の意思を残しておくことだった。


彼は両親に電話をした。


長い沈黙のあと、母は言った。


「あなたが生きている間は、あなたの人生を一番に大事にしなさい」


「分かってる」


「でも、その意思があなたらしいと思うなら、私たちは覚えておく」


優司郎は目を閉じた。


「ありがとう」


それは美沙子には言わない、小さな決意だった。


六月二十二日

美沙子の誕生日の朝、優司郎は白い封筒を持って病室を訪ねた。


彼女は数日前から入院していた。薬の調整と、補助人工心臓を含む次の治療への準備のためだった。窓辺には、看護師が置いてくれた小さな花瓶があった。淡い青色のデルフィニウムが揺れている。


「お誕生日おめでとう」


優司郎が言うと、美沙子は眉を下げた。


「こんな格好で迎えるなんて、予定外です」


「予定外のほうが、あとから思い出になる」


「それ、設計士の台詞じゃないです」


「今日は恋人の台詞」


美沙子は、少しだけ赤くなった。


優司郎は鞄から小さな箱を出した。中には、銀色のしおりが入っていた。しおりの先には、観覧車をかたどった小さな飾りがついている。


「本に挟んで」


「指輪じゃないんですね」


「指輪は、退院してから渡す」


美沙子はしおりを指先でなぞった。


「ずるい。退院しなきゃ、受け取れないじゃないですか」


「うん。だから約束」


そのとき、病室のドアがノックされた。


主治医と移植コーディネーターが入ってくる。二人の表情に、これまでとは異なる緊張があった。


「藤堂さん。お待ちいただいていた心臓提供の申し出がありました」


美沙子の指が、しおりを強く握った。


「適合の詳しい確認が必要ですが、移植に進める可能性があります」


世界の音が、一度遠くなったように感じた。


優司郎は、美沙子の隣で息を止めていた。彼女は泣かなかった。泣くことすら忘れたように、ただ医師の言葉を聞いていた。


提供者の氏名や事情は、もちろん知らされない。


けれど、どこかに、自分が死んだあとに誰かが生きることを願い、意思を託した人がいる。


優司郎は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「美沙子さん」


彼は彼女の手を包んだ。


「受けよう」


美沙子は彼を見た。


「怖いです」


「うん」


「でも、生きたい」


その言葉を聞いたとき、優司郎は初めて泣いた。


「僕も、美沙子さんに生きてほしい」


その一年後

再び訪れた遊園地は、秋晴れだった。


美沙子は観覧車の前で立ち止まった。手術痕を隠すことなく、薄手のカーディガンを羽織っている。移植後の経過は順調だった。服薬と通院は続く。感染症への注意も必要で、以前の生活にそのまま戻れたわけではない。


それでも、美沙子はここにいた。


風を吸い込み、優司郎のほうを向いた。


「乗りましょう」


「観覧車に?」


「ジェットコースターに」


「本気?」


「苦手なものを克服するんです。将来、子どもができたときのために」


優司郎は、あの日と同じ言葉に、少しだけ目を潤ませた。


「今日は、泣かないって決めてたんだけどな」


「優司郎さん、泣き虫ですね」


「美沙子さんが生きてるから」


彼女は一歩近づき、優司郎の手を取った。


「私の中で今も動いている心臓は、名前も知らない誰かが、未来へ押し出してくれたものです」


「うん」


「だから私、毎日をちゃんと使いたい。あなたと、ちゃんと喧嘩して、ちゃんと笑って、ちゃんと歳を取ります」


優司郎はポケットから、小さな箱を取り出した。


「じゃあ、退院したら渡す約束だったものを」


箱の中には、細い指輪が二つ入っていた。


美沙子は笑って、それから泣いた。


「遅いです」


「一年待った」


「待たせたのは私です」


「待ててよかった」


指輪をはめたあと、二人はジェットコースターの列に並んだ。美沙子は怖がっていた。優司郎も、実は少し怖かった。


けれど手を離さなかった。


頂上に差しかかったとき、美沙子は目を閉じず、遠くまで広がる街を見た。


誰かの願いがつないだ、見知らぬ未来。


その中に、自分の明日がある。


落下の瞬間、美沙子の悲鳴と笑い声が、青い空へまっすぐに響いた。

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