世界で一番愛する女性(ひと)へ
駅前の広場にそびえ立つ巨大なクリスマスツリーが、シャンパンゴールドの眩い光を放っている。
吐く息は白く、冬の訪れを肌で感じる冷たい夜風がコートの襟をすり抜けていった。行き交う人々は皆、足早に家路につくか、隣にいる誰かと身を寄せ合って歩いている。
そんな喧騒の中で、俺は何度も腕時計の文字盤に目を落としては、落ち着かない気分で広場の入り口を見つめていた。ポケットに突っ込んだ両手は、寒さのせいではなく、妙な緊張から少しだけ汗ばんでいる。
今日という日のために、俺は数ヶ月も前から入念な準備を重ねてきた。
なかなか予約が取れないことで有名な夜景の見えるフレンチレストランを押さえ、今日着ていくためのスーツを新調し、鏡の前で何度もネクタイの結び目を直した。すべては、俺がこの世界で最も大切に想い、誰よりも愛しているたった一人の女性に、最高の夜をプレゼントするためだ。
「ごめんなさい、待たせちゃったかしら」
不意に背後からかけられた、世界で一番愛おしい声。びくりと肩を震わせて振り返ると、そこには少しだけ息を切らし、頬をほんのりと赤く染めた彼女が立っていた。
「ううん、全然待ってないよ。俺も今来たところだから」
月並みな強がりを口にしてから、俺は彼女の姿に思わず息を呑んだ。
今日のために選んでくれたのだろう。落ち着いたネイビーブルーのワンピースに、上品なカシミヤのコートを羽織っている。普段はあまり着飾ることのない彼女だが、丁寧に施されたメイクと綺麗にセットされた髪が、彼女本来の持つ柔らかな美しさを最大限に引き出していた。
「すごく綺麗だ。……なんだか、見とれちゃったよ」
「もう、からかわないで。そんなこと言われたって、何も出ないわよ」
彼女は照れ隠しのようにふわりと微笑み、少しだけ伏し目がちに笑った。その謙虚で控えめな仕草が、昔からたまらなく好きだった。
俺は自然な動作で一歩距離を詰めると、「冷えるね」と言って彼女の小さな手をとった。少しひんやりとしたその手は、これまで俺のために数え切れないほど尽くしてくれた証拠でもある。
俺はその手を自分のコートのポケットに引き入れ、しっかりと握りしめた。
「さあ、行こうか。今日は絶対に、最高の夜にするから」
俺たちは肩を寄せ合い、華やかに彩られた冬の街へと歩き出した。彼女は俺の歩幅に合わせるように、少しだけ小走りでついてくる。その姿が愛らしくて、俺は無意識のうちに歩くペースを落としていた。
最初に向かったのは、大通りに面した高級ブティックだった。ショーケースには、眩い光を反射するジュエリーが整然と並べられている。彼女は店の外から、少しだけ眩しそうな、けれどどこか遠慮がちな瞳でそれらを眺めていた。
「中に入ろう。何かプレゼントさせてほしいんだ」
「そんな、いいのよ。あなたの顔を見ながら一緒に過ごせるだけで、私は十分幸せなんだから。こんな高いもの、私にはもったいないわ」
「もったいなくなんかないよ。今までずっと、自分のことは全部後回しにして、俺のためにばかり頑張ってくれたじゃないか。今日くらい、思い切り甘えてほしいんだ」
俺が強引に手を引いて店内に入ると、彼女は戸惑いながらも嬉しそうな表情を浮かべた。色々と見て回った末に、俺は彼女の細い首元に似合いそうな、一粒ダイヤのシンプルなネックレスを選んだ。
店員が「とても素敵なパートナーですね。お互いを大切に想っていらっしゃるのが伝わってきます」と柔らかく微笑むと、彼女は耳の先まで赤くして、「ありがとうございます」と小さな声で呟いた。
そのネックレスをつけてもらった彼女は、店の鏡の前で本当に幸せそうな顔をしていて、それを見ただけで俺の胸の奥は熱くなった。
イルミネーションの光が夜闇に一層際立つ頃、俺たちは予約していたレストランへと到着した。最上階にあるその店からは、まるで宝石箱をひっくり返したかのような、息を呑むほど美しい街の夜景が一望できた。
窓際の特等席に案内され、ギャルソンによってシャンパンが注がれる。グラスを軽く合わせると、澄んだ音が静かな店内に響いた。
「本当に素敵な場所ね。こんな場所、私の一生には縁がない世界だと思っていたわ」
「そんなことない。これからは、こういう場所に何度だって連れてくるよ」
運ばれてくる色鮮やかな料理の数々に、彼女は目を輝かせた。濃厚なソースが絡んだオマール海老のローストや、口の中でとろけるような国産牛のフィレ肉。美味しいものを口に運ぶたび、彼女の顔には花が咲いたような笑顔が広がった。
ワインが進むにつれ、俺たちの会話は自然と過去の思い出へと向かっていった。思い返せば、俺と彼女の道のりは決して平坦なものではなかった。
「……あの頃の俺は、本当にどうしようもない男だった」
俺はグラスを見つめながら、ぽつりとこぼした。
「自暴自棄になって、ひどい言葉を何度もぶつけた。周りの人間が次々と離れていく中で、俺は自分のことしか見えなくなって、一番身近にいてくれた人を一番深く傷つけていた。あの真っ暗だった時期、俺を見捨ててもおかしくなかったのに……」
どれだけ拒絶しても、どれだけ冷たい態度をとっても、彼女は決して俺から離れようとはしなかった。俺が部屋に塞ぎ込んでいた夜も、ドアの向こう側からずっと静かに声をかけ続けてくれた。自分が壊れてしまいそうな時、ただ一つ繋ぎ止めてくれていたのは、彼女の無償の愛情だった。
俺が言葉を詰まらせると、彼女はテーブル越しにそっと手を伸ばし、俺の手の甲を優しく包み込んだ。
「謝らないで。私はね、あなたが無事でいてくれるなら、それだけでよかったの。どれだけ傷ついても、あなたが立ち直ってくれると信じていたから。……それに、これは私が自分で選んだ道だもの。後悔なんて、一度もしたことないわ」
彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。その涙を見て、俺は改めて心に誓った。俺のこれからの人生は、すべてこの人を幸せにするために使おうと。
「ありがとう。今までたくさん心配をかけた分、これからは俺が一生かけて守るから」
「……ええ。頼りにしているわね」
素晴らしいディナーを終え、レストランを出ると、夜風は一段と冷たさを増していた。俺は自分の巻いていたマフラーを外し、「ほら、風邪を引かないように。しっかり巻いて」と彼女の首元に丁寧に巻きつけた。彼女は俺の温もりが残るマフラーに顔を埋め、「暖かい」と嬉しそうに目を細めた。
帰りの道のりは、行きよりもずっと穏やかな空気が流れていた。俺の腕にしっかりとつかまりながら歩く彼女の横顔を、俺は何度も盗み見た。彼女から香る、昔から変わらない石鹸のようなどこか懐かしく優しい匂いが、俺の心をひどく落ち着かせてくれた。
やがて、見慣れた閑静な住宅街へと入り、ひとつの家の前にたどり着く。玄関の門灯が、寄り添う二人の影を長くアスファルトに伸ばしていた。
「今日は本当に、魔法みたいな一日だったわ。こんなに素敵な思い出をくれて、本当にありがとう」
「喜んでもらえてよかったよ。また一緒に、いろんなところへ出かけよう。俺がいつでもエスコートするから」
「ふふ、ええ。楽しみにしているわ」
俺はポケットからキーを取り出し、見慣れた扉の鍵穴に差し込んで、ゆっくりとドアを押し開けた。玄関の明かりをつけ、嬉しそうに靴を脱ぐ彼女の小さな背中を、俺は愛おしく、そして誇らしく見つめながら言った。
「さあ、冷えないうちに早く上がって、母さん」




