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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

作者: 来也亜男
掲載日:2026/03/14

 一、


 天正十年、六月朔日(ついたち)

 丹波亀山城を出陣した明智光秀は、老坂おいのさかを登っていた。

 の刻(真夜中)に近い。

 朔日であり、月はない。星は出ているはずだが、山中の霧により空には何も見えない。道の両脇は暗い山林である。

 馬上の光秀から見えるのは、兵士たちが持つ松明の灯りだけであった。

 一万三千の軍隊がこれから、山崎を経て山陽道を下り、備中高松まで赴く。毛利と戦っている羽柴秀吉に加勢するためである。

 光秀は気が重かった。

 秀吉から信長に援軍の要請が来た。

「吉川元春・小早川隆景の軍が近づいてきます。どうか援軍をお願いします」

 信長はそれを容れて、派兵を決めた。いずれ信長自身も出陣するが、まずはということで、織田家最強の遊撃隊である明智軍を向かわせたのである。

 もとより、軍事的に必要な援軍ではない。

 秀吉が備中高松城を水攻めして、ほぼ落城寸前であることは伝わっている。吉川・小早川の軍に対しても、現行の戦力でなんとかなるはずである。

 秀吉の毛利攻めの功績はすばらしい。しかし、一人で勝ちすぎはよくないと考えたのだろう。勘所かんどころで出陣を要請することで、信長を持ち上げたわけである。如才ない秀吉の考えそうなことである。

 光秀と秀吉は織田家中で、手柄を競い合ってきた。

 毛利攻めは秀吉の担当である。あちらに着いたら当分、その傘下に加わらなければならない。それを以て秀吉より格下になったというわけではないが、面白くはないことであった。

 気が重い原因はまだあった。

 信長の力で上洛したが、その後追放された将軍、足利義昭あしかがよしあきが毛利に庇護されている。復権をあきらめておらず、ともの浦からあちこちの武将に書状を送って「信長を滅ぼせ」と呼びかけている。

 光秀は若いころ、義昭の臣下であった。

 秀吉の戦力に、信長と光秀が加われば、毛利を壊滅させることができる。ことによると、義昭を捕まえ、自ら処刑しなければならないかもしれない。

 よい主君ではなかったが、一時は仕えた相手である。攻め込む前にどこかへ落ち延びてくれればいいが……と考えてしまう。

 気分を切り替えようとした。大将である自分が後ろ向きになっていてはよくない。

 天下の情勢を考えてみた。

 この出陣で毛利を滅ぼせば、一気に九州まで攻め取ることも可能だろう。ことによると、戦わなくても恭順するかもしれない。

 徳川はいちおう同盟関係だが、臣下のようなものである。奥州の伊達も最上も、織田家には友好的であった。

 もうすぐ、信長様が日本全土を支配する。争いのない世界になるのだ。喜ぶべきことではないか。

 なにより、今年に入って武田を落としたのが大きかった。数年前の長篠の戦いで大打撃を与えていたが、今春の甲州征伐で武田勝頼を討ち取った。長年の懸案が消えたのである。

 甲州征伐……。

 光秀は、そのときのことを思い出した。




 天正十年二月、織田軍は甲斐へ攻め入った。

 このときの軍団は、信長の長男である信忠のぶただと、信長自身とで二手に分かれていた。先に入ったのは信忠軍である。

 滝川一益たきがわかずます森長可もりながよしらを引き連れた信忠軍は順調に進んだ。武田の支配力が弱体化していた上に、ちょうど浅間山が噴火するという天助もあり、士気に劣る敵方を次々と破っていった。

 光秀は信長軍に属していた。三月に入って出陣したが、すでに信忠軍が片付けていて、戦闘らしい戦闘はほとんどなかった。

 信長は信忠軍の進軍が速いのを当初「あいつ、性急すぎる」と苦言を呈していたが、次々にもたらされる戦勝の報を聞いて機嫌がよくなってきた。名目上だが、信長はすでに信忠に家督を譲っている。後継者の活躍に目を細めていた。

 信濃と甲斐の国境近く、信長と光秀らは、寺に陣して軍議を開いた。そのとき、信忠から使者が来て、武田勝頼を滅ぼしたとの報がもたらされた。

 信長は御満悦であった。めでたい知らせを聞いて、臣下としては祝わなければならない。

 そこにいた家臣の中で、格としては光秀が一番であった。最初に信長の前に進み出て祝いを宣べた。

「いやあ、こんなにめでたいことはございません。我らも骨折りの甲斐がありました」

 こういう場合の無難な台詞であった。

 しかしこのとき信長は、嫡男信忠への賞賛を期待していたらしい。それについての言及がない光秀にカチンときた。

「ちょっと待て。骨折りってなんだ。おまえ、何にもしなかったではないか。つけ上がるな! この野郎!」

「申し訳ございません。申し訳ございません」

 しかし信長の怒りはおさまらず、殴られ、蹴られ、後頭部を捕まれて寺の手すりに額を叩きつけられた。

 たしかに今回の戦いでは何もしなかったが、事前の朝廷工作などをしたのは光秀だし、それに一万の軍勢を動かすだけでも大変だったのだ。

 その後、それを見ていた他の家臣たちは、さらに無難な台詞で祝ったのであった。




「……」

 そのときの傷は、まだ額に残っている。

 光秀の心の中にもやもやしたものが湧き出した。

 いくらなんでも、理不尽だよな。

 主君と臣下の関係とは言え、限度を超しているように思えた。

 理不尽な主君を臣下が討つということは、歴史上何度もある。

 あいつ、討っちゃうか……?

 そんな考えが頭をよぎったが、あわてて押しとどめた。

 いやいや。信長様は、微賤な自分をここまで取り立ててくれた大恩人。感謝しても、しきれるものではない。

 それに、強大な信長様を討つなど不可能だ。

 ……。

 いや。

 今、信長様は、洛中の本能寺に泊まっている。

 供の者が何十人かはいるが、軍を率いているわけではない。

 自分は一万三千の軍を率いている。これで向かえば、斃せるのではないか……。

 いやいや。

 斃してどうなるというのだ。信長様がいなくても、嫡子の信忠様がいる。彼が織田軍をまとめてきたら、一万三千の手勢があっても、すぐに滅ぼされ……。

 いや……。

 ちょうど今、織田信忠様も京に来ている。妙覚寺に泊まっており、本能寺とそれほど離れていない。供の者がわずかというのも同じである。

 千載一遇の機会ではないか。信長・信忠親子を斃せば、織田家中は大混乱に陥る。その間に足場を固めれば、畿内の掌握も可能かもしれぬ。そうすれば、自分が、天下人に……。

 いやいやいやいや。

 そんな都合よくいくわけがない。信忠様を斃したとしてもまだ、次男の信雄のぶかつ様、三男の神戸信孝かんべのぶたか様もいる。羽柴秀吉、柴田勝家、滝川一益なども攻めてくるだろう。

 くだらない考えはよそう。

 軍は進む。

 夜は暗い。松明だけが見える。

 つい、考えに沈んでしまう。

 ……たしかに、信長様には取り立てていただいた。あの方は実力さえあれば取り立ててくれる。微禄びろくから大身たいしんになった者も多い。自分であり、秀吉であり、滝川一益などもそうだ。

 しかし逆に言えば、実力がなければすぐ切るということである。




 大坂の石山本願寺とは長年にわたり対立してきた。攻略の責任者は、織田家筆頭家老である佐久間信盛さくまのぶもりであった。

 長年、多数の兵で取り巻いたが、攻め落とすことはできなかった。結局、朝廷を通じた外交交渉で、僧侶たちを本願寺から立ち退かせることになった。

 石山本願寺は壮麗な建築であり、城としても充分使えるはずであった。材木や調度だけ見積もっても、かなりの価値になる。

 ところが、そのまま引き渡す条件だったにもかからわず、退出するとき建物を全部焼いていった。信長に渡すのが我慢ならなかったのだろう。

 何年もかけて何も得られなかった。その結果、責任者佐久間に、信長が切れた。

「てめえ! この! 役立たず!!」

 長文の手紙で叱責し、その地位を剥奪した。佐久間信盛は剃髪して高野山に登り、今年初め頃死んだそうだ。




 光秀は叱責の手紙を見ていないが、使者になった者の話によると、その中で褒められていたらしい。

「光秀や秀吉はよくやっている。それに比べてお前はなんだ……」

 ありがたい話だが、恐怖でもある。期待通りの働きができなくなったとき、自分もどうなるかわかったものではない。

 ……。

 光秀は信長より年上である。順当に行けば、光秀の方が先に死ぬ。

 そのとき、明智一門はどうなるだろうか。

 光秀には長らく男子がおらず、やっとできた光慶みつよしは数えで十四歳。元服したばかりで、武将としては未知数である。

 娘婿の明智秀満あけちひでみつはそれなりの器量者であるが、長となったときにどこまで働けるかはわからない。

 彼らが充分に働けなければ、今のような待遇は得られないであろう。佐久間信盛と同様に捨てられるのではないか。

 先んじて信長様を斃した方が、むしろ安泰なのでは。

 ……。

 武将としての癖で、光秀は、本能寺を攻めた場合の想定をしてみた。

 洛中全体も攻められる戦力である。必ず成功する。

 いやしかし、その後が問題だ。織田家を敵に回しては意味が……。

 ……。

 織田家の有力武将は方面軍に分れ、各地に派遣されている。羽柴秀吉は備中で毛利と睨みあっている。柴田勝家は越後の上杉と対峙している。滝川一益は武田旧領の経営に忙殺されている。

 信長様が討たれれば、少なくとも動揺するだろう。敵がその機をとらえて攻めてくれば、それぞれの軍は瓦解するのではないか。彼らが滅べば、自分が唯一の有力武将に……。

 いやいやいやいやいや。

 可能性としてなくはない。しかし皆そうなると考えるのはあまりに虫がよすぎる。戦線を縮小しても畿内に攻め戻ってくるはずだ。

 馬鹿な考えはやめよう。

 明智一門の将来についても、そんなに悲観するものではない。秀満はよくやっている。なにより家老の斎藤利三さいとうとしみつがいる。彼がいれば一門は安泰であろう。

 利三としみつ……。

 光秀は、利三の思いについて考えを巡らした。




 高知の長宗我部元親ちょうそかべもとちかと織田家は、良好な関係を築いてきた。相互に贈り物をしたり、中国攻めでは協力を受けたりした。お互いがんばりましょうと励まし合ってきたのだ。

 それを仲介したのが明智であり、その中でも、元親と縁戚関係にある斎藤利三であった。書状を取り交わしたり、土佐と行き来して、友好を深めていった。

 織田の領土は拡大し、長宗我部も四国統一を進めていった。

 ところが四国統一が完成しようという頃になって、信長が、

「四国を織田家に差し出せ。土佐一国と阿波の一部だけは残してやる。でなければ滅ぼす」

 と言い出した。

 そんな要求、呑めるものではない。長宗我部は織田と敵対関係になった。

 それまで間をとりもっていた斎藤利三は、涙ながらに光秀に訴えた。

「これでは子供の使いではありませんか。私はなんのために働いてきたのですか」

 利三の嘆きはもっともだが、信長の意思である。光秀は、わかってくれと言うほかなかった。




 交渉は決裂し、ちょうどいま織田軍の四国攻めが開始されようとしている。三男の神戸信孝が総大将となり、丹羽長秀にわながひで津田信澄つだのぶずみらを加えて、摂津(大阪)に集合している。明日あたり出発するはずだ。

 ……。

 いま信長様を斃せば、四国攻めは取りやめになるはずである。長宗我部を助けることができる。斎藤利三の顔も立つ……。

 いやいやいや。

 長宗我部には同情するが、そこまでする義理はない。

 利三はいま光秀の少し後ろから着いてきている。内心はおだやかでないだろうが、わかってくれるだろう……。

 ……。

 利三については、もう一つの事件があった。




 斎藤利三は知力胆力ともに優れ、得がたい武将である。明智軍の強さの一端も、利三の力にあると言っていい。

 もともと稲葉一鉄いなばいってつに仕えていたが、待遇に不満があり、光秀の元に参じた。

 光秀は外様である。それも急に出世したので、家来集めには苦労していた。利三が来てくれたのは僥倖と言ってよかった。

 ちょっと前のことである。

 稲葉一鉄の臣下に那波直治なわなおはるという者がいた。それが昔の同僚である利三のところに来た。

「稲葉様のところにいても評価してくれないので辞めてきた。利三殿、仕官を世話してくれないか」

「それなら光秀様のところに来い」

 そこで那波を召し抱えたが、実は、稲葉のところを正式に辞めてはいなかった。一鉄は「無理な引き抜きだ」と訴えて、信長はそれを認めた。

 この時も、光秀は殴られ蹴られた。

「身内でなに足引っ張っとんじゃ!」

「申し訳ございません。那波は戻します。どうかお許しください」

「引き抜いたのは利三だな!? あいつ、切腹させろ!」

「そ、それでは明智家中がガタガタになります。どうかお許しを……」

 切腹を申しつけられてしまった。

 もっとも、切腹させろぐらいのことはときどき言うので、しばらく謹慎し、側の者にとりなしてもらえば許されることが多い。しかしそうでない場合もあるので、正式な許しがあるまでは、斎藤利三も明智一門もお通夜のように暗い雰囲気になっていた。




 最終的に許されて、この軍にも加わっているが、それまで生きた心地がしなかったはずである。

 もし、信長様を討つと打ち明けたら、利三も賛成してくれるだろう。

 やはり、本能寺を……。

 いやいやいやいやいや。

 そんな大それたことを考えるべきではない。信長様はもうすぐ、日本国中を手に入れるお方だ。迷わずついて行くべきだ。

 全国統一は近い。その暁には、さぞや豪勢な宴が開かれるであろう。

 うたげ……。

 思い出すことがあった。




 八年前。天正二年の正月。

 前年、浅井長政あざいながまさ朝倉義景あさくらよしかげらを討っており、苦しい状態から抜け出していた。信長はご機嫌であった。

 近い家来たちを集めて、岐阜城で酒宴が催された。

「おまえたち、これを見ろ」

 信長は奇妙な物を出してきた。大きめの漆塗りのさかずきが三つ。高台こうだいもなく、形も円ではなく歪んでいて、奇妙な杯であった。

「……?」

「これはな、浅井長政、久政ひさまさ、朝倉義景のドクロで作った杯だ。あいつら、こんな浅ましい姿になりおった。わはははは」

 前年彼らと戦っていた家来たちは、歓声を上げた。

 しかし光秀は、材料の方々と面識があった。特に朝倉義景は、若いころお世話になった人である。それもあって、一般人のような感想しか持てなかった。すなわち「悪趣味」である。

 もちろんそんな感情を表に出すわけにはいかない。光秀も周囲の者のように歓声を上げたのだった。

 酒宴が始まる。

 この時代の酒は二十一世紀の清酒のように飲みやすいものではない。一般に飲まれるのは濁酒どぶろく。上等のものでも完全に透明ではない。甘ったるく、不純物も多かった。

 好きな者は好きだが、酒が苦手な者も多い。光秀もあまり好きではなかった。

 それでも付き合いで多少飲んで、お膳の料理をいただいた。酒好きな者たちが飲み進んで、騒がしくなってきた。

 廊下に出て風に当たった。冬の風が心地よかった。

 そこへ信長がやってきた。

 信長は普段は酒を飲まない。しかしこういう時は飲む。すでに酔っていた。

「おう。光秀」

「あ、信長様」

 酒の入った湯桶と、杯を持っていた。さすがにドクロの杯ではないが大きめのやつだった。

「楽しんでおるか? もっと飲め」

 大きな杯を押しつけてきた。

「私は、酒は……」

 信長の目つきが変わった。

「ん? なんだ? 俺の酒が飲めんと言うのか?」

 光秀は以前にも、その目つきを見たことがあった。

 信長は時に、粗相をした小姓や茶坊主を斬り殺すことがあった。謝っても逃げても隠れても許してくれず、名刀で切って捨てるのだった。

 その時の目だ。

「……普段はあまり飲まないのですが、信長様の酒はこのうえない名誉。頂戴いたします!」

「うむ。飲め」

 大きな杯になみなみと注がれた。光秀はそれを飲み干した。

「おお。いい飲みっぷりだ。もっと飲め」

「ははっ」

 もう一杯注がれた。光秀は飲み干した。

「もっと飲め」

 さらに注がれた。光秀は飲み干した。

「わはは。よく飲むのう。どんどん飲め」

 さらに飲み干した。

 翌日。

 光秀は城の一室に寝せられていた。

 天井がぐるぐる回る。

 とてつもない吐き気がするが、胃の中にはなにもなく、もはや吐く物がない。わずかな胃液が喉元にせり上がってくる。

 頭が内側から割れるような頭痛がする。

 体を動かすこともできず、布団の中で寝ている他なかった。

「俺は、戦場ではなく、ここで死ぬ……」

 本気でそう思った。回復には何日もかかった。




「……」

 軍は進む。

 道が下りになってきた。老坂の峠を過ぎたようだ。

 夜は暗い。

 だが、風景が変わってきた。樹木が少なくなり、山城やましろの盆地を見渡せるようになった。

 季節は夏。田圃たんぼの水が星明かりできらめく。

 もうすぐ沓掛くつかけの分かれ道に着く。

 東へ向かえば信長様のいる京に行く。南へ向かえば山崎に着いて、山陽道へ出ることができる。

 軍の先頭が、もう少しで分かれ道に到着する。

 大軍である。先頭が道を曲がれば、方向を変えるのは不可能だ。

 それでいい。そう光秀は思った。

 山崎へ向かい、備中へ行く。それでいい。信長様を討とうとか、そんなくだらない妄想は終わりだ。

 もう、信長様と信忠様が無防備で休むような機会は、二度とないであろう。信長様を討とうなどと考えることも、永遠に無くなる。

 ……それでいい。

 とつぜん、兵士の声が響いた。

「止まれ――ーっ!!」

 動きが止まった。大軍ゆえ全体が止まるのにやや時間を要した。

 光秀は驚いた。なぜ、止まるのか。

 そして気付いた。無意識に、軍鞭ぐんべんを横に持ち前方へかかげていた。止まれの合図である。軍を止めたのは光秀自身であった。

 意外な場所で止められて、兵士たちはいぶかしんだ。無数の目が馬上の光秀を見た。

 背中から変な汗が噴き出した。

 ……まだ間に合う。

 「織田家の興廃この戦にあり。毛利を倒し全国を取ろうぞ」とか演説をぶって士気を上げる。そのくらいのことはできるのだ。そうして山崎へ向かえばなんの問題もない。

 とにかく、なにか言わなければならぬ。

 光秀はしばらく無言であった。

 その口からどのような言葉が発せられるか。それによって、織田家の運命、明智家の運命、さらには日本の歴史が変わるはずであった。周囲の兵たち、武将たち、光秀自身までもが、その言葉を待った。

 やがて、言葉が発せられた。

「わが敵は本能寺にあり。全軍、東へ進路を取れ!」




 二、


 夏の朝は早い。

 東が白み始める頃。本能寺の織田信長は、奇妙な物音で目を覚ました。

「なんだ?」

 騒動のようだ。喧嘩でも始まったかと思ったが、その音は大きくなっていった。

 破裂音。間違えようが無い。鉄砲の音だ。

「これは……いくさ!?」

 障子の外から声があった。

「信長様!」

 小姓の森蘭丸もりらんまるである。信長が障子を開けた。

「なにがあった!?」

「敵襲にございます!」

「誰だ!? 本願寺勢か!? 伊賀者か!? まさか、信忠が!?」

「いえ、旗を見ると……」

「見ると?」

「明智殿にございます!」

「あっ……」

 信長はしばらく言葉が継げなかった。絞り出すように言った。

「じゃ、しょうがねえな……」

 心当たりはある。

 ありすぎるほどある。

 明智光秀は上洛してから抱えた家来である。真面目な性格で、織田家中の立場は弱かった。

 殴る相手としてうってつけだった。

 殴ると言えば、信長は秀吉もよく殴った。だがあいつは殴られても蹴られても蛙の面に小便みたいな顔でへらへらしている。光秀は違った。殴られると心底嫌そうな顔をした。楽しかった。

 自分でも人間としてどうかと思うが、いまさら反省してもしかたがない。

 森蘭丸が言った。

「明智殿と懇意な者も中におります。説得に当たらせましょう」

「無駄なことはするな」

「無駄、でございましょうか」

「仮にだな、説得が成功して、光秀が兵を引いたとする。ではそのあと、仲直りして一緒にやれると思うか?」

 蘭丸は少し想像し、答えた。

「ちょっと考えられませんね」

「だろう。そして、奴もそのことはわかっている。つまり交渉の余地はない」

 蘭丸は下を向いた。

「無念にござります。全国統一を目前に……」

「うむ……。おまえらも、俺の元にいたばっかりに命を落とすことになる。すまんな」

「いえ! 信長様とともに死ねるのは、このうえない喜びでございます!」

「そうか。ではともに死のうか。

 だがな、勝てぬ戦とはいえ、簡単にやられるつもりはない。なるべく多く殺してやろう。それからな、鉄砲に使う火薬壺はあるか?」

「何個かは」

「ここに持ってこい。光秀ごときに首を渡したくはない。いよいよとなったら火をつける」

「ははっ」

 蘭丸は走って行った。

 信長は手近にあった武器を見た。刀、槍、弓がある。とりあえず弓を取った。

「俺は、自分の苛烈さ故に死ぬか」

 信長は基本的に、裏切った者を許すことはなかった。

 ただし例外もあって、松永久秀まつながひさひでは、一回裏切っても許した。腹黒いし、信用できない奴だとはわかっていたが、面白い男であった。殺したくはなかった。

 もう一回裏切ったときも許そうとしたくらいだ。名物の茶釜「平蜘蛛ひらぐも」を渡せば許してやると言った。しかし久秀はそれに応じず、平蜘蛛に火薬を詰めて一緒に爆死した。

 あのときは「死ぬ奴がなにカッコつけとんじゃ」と鼻白んだものだが、

「自分が同じ羽目になるとはな」

 皮肉な笑みがこぼれた。

 争いの音が近づいてくる。まもなくここに攻め込んでくる。

 絶望的な状況だが、信長は楽しくなってきた。

 信長の最大の娯楽であり趣味、それがいくさだった。人生を賭けた芸術と言ってもいい。

 その戦の中で死ねるのだ。

 客観的には悲劇であるが、信長自身としては、これで自分の人生が完成するように思えた。

「さあ来い光秀! 一暴れしてやるぞ!」




 三、


「そ……それは……まことでしょうか」

「本当です。私もこの目で、本能寺が燃えるのを見ました」

 備中、高松城攻めの秀吉陣中。

 六月四日の夜中、黒田官兵衛くろだかんべえは京からの知らせを受け取った。

 差出人は長谷川宗仁はせがわそうにん。織田の家臣であり、文化人として高名な人物である。

 書状には、信長が死んだと書かれていた。

 事の次第が詳細に記述されていた。本能寺が光秀に襲撃され、大きな火災が起こった。さらに信忠も殺されたという。

 使者は馬を乗り継いで早駆けしてきたという。疲労困憊であった。官兵衛は使者を休ませ、秀吉に報告に向かった。

 本陣の手前で蜂須賀小六はちすかころくと鉢合わせした。

「おお官兵衛。さっき捕まえた奴がこんな書状を持ってたんだが、どう思う?」

 小六は官兵衛に書状を見せた。やはり信長の死が書かれていた。

「本当のようです。実はさきほど、長谷川宗仁様からも知らせがありました」

 官兵衛は小六に手紙を見せた。

「うむむ……。本当らしいな……」

 二人は連れだって秀吉の所に向かった。秀吉は地図を前に思案していた。

「いくらか妥協すれば毛利と話はつきそうだが、それも損かなあ。和戦どちらにすべきか……。おや。小六、官兵衛、なにか用か」

「長谷川宗仁さまから急ぎの知らせです。これを」

 官兵衛が書状を渡した。秀吉はそれを開いた。

 読んだ。

 読み終わって、言った。

「うそだ」

「いえ、嘘ではありません。使者も実際に見たと言っております。それに長谷川様がいいかげんなことを書くはずがありません」

「信長さまが死んだなどと……。嘘だ。死ぬわけがない」

 小六が別の書状を渡した。

「残念ながら。本当らしい。これは毛利に向かおうとしていた雑兵が持っていたやつだ」

 秀吉はそれも見た。

「うそだ」

 官兵衛が言った。

「嘘だと思いたいのは我々も同じですが、早急に善後策を講じないと……」

 他の武将も入ってきた。

「秀吉様、こんな書状が届きました!」

 それにも同様に、信長の死が書かれていた。

 秀吉の体ががたがたと震えた。見てもわかるくらいだった。

「あ、あの、秀吉さま……?」

「うわああああ!」

 秀吉は頭をかかえ、地べたに倒れた。

「そんな、そんな、信長さまが。嘘だ。嘘だと言ってくれ」

「ひ、秀吉さま……」

「もうだめだ。もうおしまいだ。信長さま。信長さまあ!」

 官兵衛は秀吉を見下ろした。

 目からは大粒の涙が流れていた。土の上にごろごろと転がった。まるで幼児である。秀吉が信長に心酔していたのは知っていたが、ここまでとは思わなかった。

 周囲を見ると、そこにいた全員が硬直していた。付き合いが長いはずの蜂須賀小六も目を丸くしていた。こんな姿を見たことがないのだろう。

 まずい……! 官兵衛は青くなった。このままでは軍が崩壊してしまう。

 官兵衛は転げ回る秀吉の肩をつかみ、大きく揺すった。

「秀吉さま! しっかりなされませ!!」

 秀吉は涙で一杯の目で官兵衛を見つめた。

「だ、だが、信長さまが……」

「起きたことはもう仕様がありませぬ! それより、やるべきことをなされませ!」

「やるべきこと……?」

「信長様が明智様に討たれたというのなら、秀吉さまがやるべきことはひとつ。かたきを討つことです! 大急ぎで軍を返し、明智様を討ちましょう!」

「でも、毛利に隠し通せるわけがないし……」

「一日ぐらいは大丈夫です。幸い、ほとんど話はついております。明日講和をまとめ、ただちに山城へ向かいましょう」

「後ろから襲ってくるのでは……」

「可能な限りの速度で進むのです。そうすればあっちも追いつけません」

「……」

 そこまで言っても、秀吉は憔悴した顔だった。官兵衛はもう一度肩を揺すった。

「むしろいい方に考えましょうよ! 明智様を討てば、織田家中では秀吉さまが第一の位になりますよ! 大出世じゃないですか! そうなればもう、天下も狙えますよ! 明智様を討って、天下を目指しましょう! ね!? ね!? ね!?」

 秀吉は少しの間黙っていた。そして言った。

「うむ……。そうだな」

 立ち上がった。武将の目に戻っていた。

「よし。官兵衛の言うとおり、すぐに講和をまとめ、明智討伐に向かう。進軍の用意をしろ!」




 四、


 六月六日、深夜。

 明智光秀は安土城にいた。

 留守役の蒲生堅秀がもうかたひでは織田一族を連れて脱出しており、さほど苦労なく入ることができた。将兵たちを城に入れて休ませた。

 城内は一種の興奮状態にあった。

 光秀様が信長様を討った。光秀様が天下人になるのだ。家来である我々も出世できる……。喜びの声に満ちていた。

 だが、そんな簡単なものではないと考える者が城の中にいた。

 光秀であった。

 光秀は安土城の天主てんしゅに籠り、灯火の下、書状を書いていた。信長を討った直後から書きまくっていた。仲間を募るためである。

 一万余りの兵力があるとはいえ、同調者を集めなければ残りの織田家とは対抗できない。誰かが攻め戻ってくる前に足場を固める必要があった。

 朝廷の支持が得られたのはよい材料だった。とはいえ、朝廷は独自の軍事力を持っていない。他の勢力が京を囲めば、すぐにそちらに就くのである。ないよりましという程度である。

 光秀に従った者もいた。

 水野守隆みずのもりたか京極高次きょうごくたかつぐ阿閉貞征あつじさだゆき武田元明たけだもとあき後藤高治ごとうたかはる狛綱吉こまつなよし……。恐れを知らぬ武者ども、と言えば聞こえはいいが、光秀の見るところ、どいつもこいつも頭の悪いやつばかりだった。いずれも大名とは言えず、国衆くにしゅう格である。

 光秀の与力よりきとして関係が深かった筒井順慶つついじゅんけいは、さんざん逡巡したあげく、ついにこちらに従わなかった。

 若い頃から見識を認め合い、娘をその息子忠興(ただおき)に嫁がせた細川藤孝ほそかわふじたかは「信長様の菩提を弔う」と言って剃髪してしまった。こちらにはくみしないという表明である。正直言って、これがいちばん痛かった。藤孝は協力してくれるのではないかという淡い期待があった。客観的にはみごとな判断力と言えるが、味方してくれないと困るのだ。

 光秀は藤孝に再度手紙を書いた。

「剃髪したと聞いて最初は腹を立てましたが、考えてみればお気持ちはもっともです。ですが、どうかこちらに味方していただけませんでしょうか。

 私がこんなことを起こしたのも、忠興など若い者のためなのです。近いうちに足場を固めますので、その後はわが子光慶や忠興などに託し、私は隠居してもいいと思っています……」

 苦しまぎれであるが、本音でもあった。自分の隠居で事態が収拾できるなら安いものだと思えた。

「ふう……」

 光秀は大きな息をついた。

 老いた目がかすむ。

 ふと、自分のやっていることすべてが無駄な気がした。

 両側が崖の峠道を、踏み外さないように歩かなくてはならない。しかし、その先には何もなく、途切れているだけではないか……と。

 ぽつりと呟いた。

「時を戻すことができれば……」

 そのとき、なにかが見えた。

 暗い室内。光秀の見上げる先に人の姿が現れた。信長であった。疲労した精神が作り出した幻影であろうか。

 その表情は意外にも、怒りや恨みではなく、いたずらな少年のような笑顔であった。

 幻影の信長が、笑いながら言った。

「時を戻すことができても、おまえは同じことをするだろうよ」

 姿が消えた。

 光秀は、自分が落ち込んだ陥穽の深さを思い知った。




 五、


 六月十二日。秀吉軍は摂津富田せっつとみたまで来ていた。

 四国攻めの予定だった神戸信孝や丹羽長秀が合流していた。さらに池田恒興いけだつねおき高山右近たかやまうこん中川清秀なかがわきよひでなども加わり、兵の数は四万近くになっている。

 昼のうちに軍議を済ませていた。光秀軍はここから北東の山崎、円明寺川の東岸に陣取っている。決戦は明日になるだろう。要所を押さえるため、高山と中川が先発で出陣していた。

 ここ何日か雨天続きだったが、この夜は晴れて星が見える。

 秀吉は小高い場所で星を眺めていた。

 黒田官兵衛が報告に来た。

「秀吉さま、高山と中川が、天王山てんのうざんを確保できたということです」

「そうか。順調にいってるな」

 秀吉は満足そうな表情をしたあと、また顔を上げ星を見た。独り言のようにつぶやいた。

「信長さまは……本当に死んだのかのう……」

 官兵衛が答えた。

「残念ながらそうでしょう。生きていたなら、すぐにでも本人による動きがあるはずです。そういう気配が、なにも……」

「そうか……。そうだな……」

 秀吉は星を見ていた。

 官兵衛もそれにつきあって、並んで立った。

 官兵衛が言った。

「しかし、光秀様はなぜ、信長様を討ったのでしょう。わかりませぬ」

「いや……。気持ちはよくわかる」

「え?」

「光秀殿がやらなければ、わしがやっていたかもしれぬ」

 さすがにぎょっとして、官兵衛は秀吉の方を見た。

 秀吉は星を見たまま語りかけた。

「のう官兵衛、おまえ、信長さまと何回ぐらい会ったことがある?」

「信長様とですか。遠くから拝見したことは何度もありますが……。直接にお目にかかったのは、小寺こでら様の使いが最初で、それから有岡城が落ちたとき、あと伝令とかで、五、六回ぐらいですかね」

「そうか……。わしはな、若いころあの方の下男だったのだ。毎日顔を合わせていた。

 理不尽のかたまりみたいな人でなあ……。殴る蹴るは日常茶飯事。小便までかけられたことがあった。

 この人を殺して自分も死ぬ。何回そう思ったかわからない」

「は、はあ……」

「半兵衛を美濃から引き抜いたときにな」

「竹中様ですか」

 竹中半兵衛たけなかはんべえはこの三年前に病没している。

「信長さまに会わせたら、『小身しょうしんゆえ信長様の直参じきさんになるのは畏れ多い。秀吉様の下に就かせてください』と言い出した。それまでそんな話はしてなかったのにだ。あれはたぶん、一目で信長さまの人となりを見極めて、この人が直接の上司ではかなわんと思ったのだろうな。さすが、知恵者半兵衛よ」

「で、では、秀吉さま……。あの夜の涙は、嘘だったのですか?」

「いや、それがなあ……。嘘ではないのだ」

「?」

「信長さまは、取るに足らぬわしのような者を、ここまで取り立ててくれた。寧々(ねね)と一緒になれたのも信長さまの口添えあってのことだ。夫婦げんかを仲裁してくれたこともあった。感謝してもしきれない。それに……。

 わしは信長さまに惚れていた。あの勇気、胆力、決断力。傲慢、勝手、残忍さ。あのように生きられないからこそ、憧れであった。

 時折見せる子供のような笑顔がたまらなかった。たまに褒めてくださったときは天にも昇る心地であった。

 真心のない人だとはわかっていたが、それでもお役に立ちたかった。この人のために死んでもいいと思っていたのも本当だ。わしにとって信長さまは、信長さまという人は……」

 そこで秀吉は言葉を切った。視線を下げて黙っていた。怨嗟えんさ感謝かんしゃ憎悪ぞうお憧憬しょうけいがないまぜになった矛盾きわまる感情を表す言葉を探しているようだった。やがて、あきらめた。

「……すまぬ。どう言っていいのか、わからないのだ」

 官兵衛は秀吉の横顔を見ながら、彼の中の信長像を想像した。そういうバケモノと必要以上にお近づきにならなくて、本当によかったと思った。

「とは言え、だ」

 秀吉はもう一度星を見上げた。

「明日の戦いがどうなるかは時の運だが、もし向こうが勝ったとしても、それで終わりではない。信長さまが死んで喜ぶ者は多いだろうが、だからといって光秀殿を持ち上げようという者などいない。

 織田家の他の者も集まってくるだろう。光秀殿はいわば賞金首だ。いずれ破滅が待っている。それがわからぬ人でもなかろうに……」

「たしかに……。なぜ、光秀様は、あんなことを……」

「なぜかのう……」

 夜は暗かった。目の前には水田が広がっていた。天王山が黒くそびえていた。



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