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第7話:崩壊する王国と、皇帝の深すぎる愛

 国境の砦での一件から数日。

 私が滞在している離宮には、サンクチュアリ王国からさらなる「悲鳴」が届いていた。


「……陛下、また報告が?」


 テラスで温かい紅茶を飲んでいると、ヴァルター陛下が音もなく背後に立った。


 彼は私の肩に、最高級の獣毛で編まれたストールをふわりと掛けてくれる。

 その手つきは、壊れやすいガラス細工を扱うように慎重で、ひどく優しい。


「ああ。あの愚か者ども、今度は教会の権威を使って君を呼び戻そうとしているらしい。『聖女は全人類の宝であり、一国の独占は許されない』だとさ。笑わせる」


 陛下は私の隣に腰を下ろし、私の指先を絡めとった。

 彼の大きな掌はいつも熱く、握られているだけで私の全身に安心感が広がっていく。


「……教会の権威、ですか。私が三年間、一人で結界を支えていた時に、彼らは一度でも手を差し伸べてくれたでしょうか。むしろ『公爵令嬢なのだから当然の義務だ』と、祈りすら捧げてくれませんでしたわ」


 私は静かに目を伏せた。

 かつての故国では、私の存在は「あって当たり前の空気」だった。

 空気がなくなって初めて、彼らは窒息しそうな苦しみの中で、私の名前を呼んでいる。

 だが、それは私という人間を求めているのではなく、私が供給していた「酸素(魔力)」を求めているだけなのだ。


「気にするな。教皇が直々に来ようとも、私の目の前で君を奪おうとする者は、その首を門に晒すだけだ」


 ヴァルター陛下の黄金色の瞳に、冗談ではない鋭い光が宿る。

 彼は私の手を自分の頬に寄せ、愛おしそうに目を細めた。


「リーゼロッテ。……君がいない夜、私は自分の心臓が凍りつくような感覚に襲われる。君の結界がこの国を包んでいるように、私の愛で君を永遠に閉じ込めてしまいたいと……そう願わずにはいられないのだ」


 その言葉は、あまりに重く、甘い。

 かつての婚約者から一度も向けられたことのない、剥き出しの執着。

 私は顔を赤らめながらも、その重さを拒絶できずにいた。



 ***



 一方、サンクチュアリ王国の王都は、もはや「地獄」そのものだった。


「……嘘よ、こんなの嘘よ! なんで、なんで魔獣が王宮の庭まで入ってきてるのよ!」


 自称「癒やしの聖女」のミナは、自室の隅でガタガタと震えていた。

 彼女の自慢だった美しい髪は乱れ、ドレスは泥と涙で汚れている。

 窓の外では、衛兵たちの悲鳴と、肉を裂くような魔獣の咀嚼音が響き渡っていた。


「ミナ! 早く結界を張れ! この部屋だけでもいい、魔力を出せ!」


 部屋に飛び込んできたザカリー王子は、もはや発狂寸前だった。

 彼はミナの肩を掴んで激しく揺さぶる。


「む、無理よ! 私の魔力じゃ、あんな化け物防げないわ! あんなのリーゼロッテにやらせればいいじゃない! あいつは『無能』だけど、結界を張るのだけが取り柄だったんでしょ!? なんで連れて帰ってこないのよ、この役立たず!」

「なっ……貴様、俺に向かって役立たずだと!?」


 かつて愛を誓い合った二人は、今や互いに罵り合い、責任を押し付け合う醜い姿に成り果てていた。

 ザカリーは、ミナを突き飛ばすと、窓から見える崩壊した街を見つめた。

 街のあちこちで火の手が上がり、平民たちが泣き叫びながら逃げ惑っている。

 かつてリーゼロッテが、自らの血を吐くような思いで守り続けてきた光景。

 それが、彼女を追放したたった数日で、砂の城のように崩れ去ってしまった。


「……リーゼロッテ。ああ、リーゼロッテ……。戻ってきてくれ。君さえいれば、俺はまた王位を継げるんだ。君さえいれば、この国は……!」


 彼はまだ、自分の非を認めていない。

 ただ「便利な道具」を失ったことを嘆き、自分の未来が閉ざされたことに絶望しているだけだった。



 ***



 その日の夜。

 帝国の宮殿、月の光が差し込む私の寝室に、ヴァルター陛下が訪れた。

 彼は騎士服を脱ぎ、ゆったりとしたガウン姿で、私のベッドの傍らに腰を下ろした。


「……陛下、こんな夜更けに」

「君が不安そうな顔をしていたからな。……あんな国のことなど、夢にすら見る必要はない」


 彼は私の頭を優しく撫で、そのまま私をシーツごと強く抱きしめた。


「リーゼロッテ。君はもう、一人で世界を背負う必要はない。君が結界でこの国を守るなら、私は剣で君の全てを守る。……私の腕の中だけが、君にとって世界で一番安全な場所だと思わせてやる」


 陛下の体温が、ドレス越しに伝わってくる。

 彼に抱きしめられていると、かつての国での孤独な夜が、遠い昔の出来事のように感じられた。


「……はい。ヴァルター様。私は、もうどこへも行きません」


 私が彼の名を呼ぶと、陛下の呼吸がわずかに荒くなった。

 彼は私の額に、そしてまぶたに、慈しむような接吻を落とした。


「ああ、その言葉を待っていた。……明日は、君に贈るための宝石店を丸ごと城に呼んである。君に似合う輝きを、一つ残らず君の肌に飾らせてくれ」


 重すぎるほどの寵愛。

 けれど、それが今の私には何よりも心地よかった。

 

 崩壊していく王国と、愛に満たされる私。

 復讐を望んだわけではないけれど、私が「ただ幸せになること」が、彼らへの最大の残酷な結末になるのだと、私は月を見上げながら静かに確信した。

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