第6話:跪く王子と、絶対零度の拒絶
ガルディニア帝国とサンクチュアリ王国の国境線。
そこには今、世界で最も残酷な「境界」が引かれていた。
帝国の側は、リーゼロッテ様が張った白銀の結界に守られ、柔らかな陽光と穏やかな風が吹いている。一方で、結界の一歩外側――王国の領土は、どす黒い雲に覆われ、飢えた魔獣たちの不気味な咆哮が絶え間なく響いていた。
「……来たか。身の程知らずな鼠どもが」
国境に築かれた堅牢な砦のバルコニー。
ヴァルター陛下は、私の肩を抱き寄せながら、眼下を見下ろして冷たく吐き捨てた。
そこには、泥にまみれ、ボロボロの軍馬に跨った一行がいた。
中心にいるのは、かつての私の婚約者、ザカリー殿下だ。
夜会で見せた傲慢な輝きは見る影もない。金髪は乱れ、目の下にはひどい隈が刻まれ、恐怖に震える手で必死に手綱を握っている。
「リーゼロッテ! そこにいるんだろう! 顔を見せてくれ!」
ザカリーの叫びが、結界に跳ね返って虚しく響く。
私は陛下の腕の中で、静かにバルコニーの縁へと歩み出た。
最高級のドレスに身を包み、潤いに満ちた肌と、魔力で黄金色に輝く瞳。今の私は、彼が知っている「地味で無能な女」ではなかった。
「……何のご用でしょうか、ザカリー殿下」
私の凛とした声が響くと、ザカリーは目を見開いた。
「リ、リーゼロッテ……! ああ、やはり君だ! なんて美しいんだ……。いや、そんなことはどうでもいい! 今すぐその結界を解いて、こちらへ戻るんだ! 国が、王都が魔獣に蹂躙されているんだぞ!」
「……お断りします。私はもう、あなたの国の人間ではありません」
「何を言っている! 婚約破棄は撤回してやる! 君を『第一王妃』として迎え入れると約束しよう! ミナのような小娘はもういい、やはり俺の隣には君が必要なんだ!」
隣でヴァルター陛下の指が、私の肩に食い込むほど強く握られた。
陛下の周囲の空気が、パキパキと凍りついていく。
「……ほう。私の目の前で、私の女を誘惑するか。サンクチュアリの王子、貴様はよほど死に急いでいるようだな」
「ひっ……! が、ガルディニア皇帝……!」
ヴァルター陛下の放つ圧倒的な覇気に、ザカリーは馬から転げ落ち、泥の中に尻もちをついた。
彼は震えながら、必死に私に向けて手を伸ばす。
「リーゼロッテ、頼む! 君がいなければ、我が国は滅びるんだ! 民を見捨てるのか!? 君は慈悲深い聖女だっただろう!?」
「『慈悲』、ですか……」
私は、自嘲気味に目を細めた。
「ザカリー様。私は三年間、その『慈悲』のために、自分の命を削って結界を維持してきました。けれど、あなたが私に与えたのは何でしたか? 雨の中の追放、無能という罵倒、そして……私がいなくなった後に、私の価値を『便利だから』と思い出しただけの、身勝手な執着です」
「そ、それは……っ」
「今の私には、守るべき大切な国と、私を愛してくれる方がいます。……あなたの国のために、私の魔力は一滴も使いません。たとえ、目の前であなたの国が消え去ったとしても」
私の言葉は、ザカリーにとって死刑宣告も同然だった。
彼は絶望に顔を歪ませ、ついにその場に両膝をついて、泥の中に額を擦り付けた。
「謝る! 何でもする! だから、結界を……! せめて王都だけでも結界で覆ってくれ! この通りだ!」
王子の無様な土下座。
かつて私を嘲笑った男の成れの果てだ。だが、私の心には何の感慨も湧かなかった。ただ、哀れみすら抱けないほど、冷めきった感情があるだけだった。
「……ヴァルター陛下。もう、よろしいでしょうか。冷たい風に当たりすぎて、少し疲れましたわ」
私がそう告げると、陛下は満足げに目を細め、私をひょいと横抱きにした。
「ああ、そうしよう。……おい、サンクチュアリの鼠。聞こえたか? 彼女はもう、お前たちの声など雑音にしか感じていない。……これ以上この場所を汚すなら、結界を解く手間を省いて、我が帝国の軍勢で引導を渡してやろうか?」
ヴァルター陛下の冷酷な宣告に、ザカリーは声も出せずに絶望に打ちひしがれた。
私たちは、泣き叫ぶ王子の声を背に、砦の奥へと戻っていった。
***
部屋に入ると、陛下は私をソファに下ろし、膝をついて私の両手を握りしめた。
「……よく言った、リーゼロッテ。君が奴を拒絶するたび、私の心は歓喜で震える。……だが、まだ足りない。君のすべてを、私の愛で塗り潰してしまいたい」
「陛下……あ、あの、顔が近いです……」
ヴァルター陛下の黄金色の瞳に、逃げ場を塞ぐような熱い独占欲が宿る。
彼は私の指先に、誓いを立てるように深く接吻した。
「奴らが絶望に沈む間、君は私の側で、世界で一番幸せな女になれ。それが、奴らへの最大の復讐だ」
窓の外では、結界に阻まれた魔獣たちが、諦めてサンクチュアリ王国の奥地へと向かっていくのが見えた。
もう、私が張り直すことのない結界。
崩壊していく故国と、私を溺愛する皇帝陛下。
その対比が、あまりにも残酷で、そして甘美だった。




