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第31話:揺りかごの聖域、母の覚醒

 帝都の地下、最も厳重な結界で守られたはずの皇子の寝所。

 そこは今、異様な「静寂」に包まれていた。


「……ふふ、ようやく辿り着いた。帝国最強の盾と矛、その結晶たる『神の器』よ」


 揺りかごの前に立っていたのは、白装束に身を包んだ教国の残党兵ではなく、漆黒の法衣を纏った一人の老人だった。

 かつてリーゼロッテを「無能」と切り捨て、教国の地下深くに幽閉しようとした大司教――ゼノス。

 彼の背後には、戦場で焼き払われたはずの「漆黒の泥」が、蛇のようにのたうちながら実体化していた。


「……その赤子の命を糧に、我が『終焉の獣』は真の神へと昇華する。リーゼロッテよ、貴様の生んだ子が、世界を虚無に還す鍵となるのだ!」


 ゼノスが枯れ木のような手を、ルディウス皇子へと伸ばした瞬間――。


「――その汚らわしい手を、今すぐ塵にする権利を、貴様に与えた覚えはないぞ」


 ドォォォォォン!!


 地下室の壁が、凄まじい物理的な衝撃と共に消し飛んだ。

 瓦礫の煙の中から現れたのは、黄金の瞳を「死」の色に染めたヴァルター陛下、そして、その隣で冷徹なまでの魔力を放つリーゼロッテだった。


「……ヴァリエールの出来損ないか。戦場の泥は囮だったが、まさかここまで早く戻ってくるとはな」

「ゼノス……。サンクチュアリで私を『道具』として扱っただけでは足りず、私の息子まで、その醜い野心の道具にするつもりですか」


 リーゼロッテの声は、低く、そして周囲の空気を凍らせるほどに鋭かった。

 彼女の脳内では、すでにこの地下室の全構造、ゼノスの魔力波長、そして背後の「泥」の流動が、数式となって解析されていた。


「無駄だ! この『終焉の泥』は、赤子の無垢な魔力を吸い取り、すでにこの空間ごと概念的に『消滅』の定義を与えている! 貴様らのどんな攻撃も届かん!」


 ゼノスの哄笑と共に、漆黒の泥が津波となって、ルディウスの揺りかごを飲み込もうと襲いかかる。


「――ルディウス!!」


 ヴァルターが叫び、黒炎を放つ。

 だが、ゼノスの言う通り、炎は泥を透過し、空しく壁を焼くだけだった。

 その時。


「……定義が届かないというのなら、私がこの世界のルールを、一から書き換えるまでですわ」


 リーゼロッテが、一歩前に踏み出した。

 彼女の銀髪が逆立ち、白銀の魔力が爆発的に膨れ上がる。それは「防御」のための結界ではない。対象を「慈しみ、育む」ための、母としての究極の結界術。


「――多重演算、並列展開。全事象の否定。……この揺りかごの半径二メートルは、今この瞬間から、私の『心臓の内側』と定義します!!」


 パリンッ!!


 空間が割れるような音が響き、揺りかごの周囲に、これまで見たこともないほど透き通った、虹色の膜が展開された。

 襲いかかった漆黒の泥は、その膜に触れた瞬間、悲鳴のような音を立てて「浄化」され、ただの清らかな水へと変わって床にこぼれ落ちた。


「な、何だと……!? 概念の消滅を、上書きしたというのか!? 事務処理の計算だけで、神の領域に踏み込むなど……!!」

「……事務処理を舐めないでください。……積み重なった微細な数式は、時に神の気まぐれさえも論破するのですわ」


 リーゼロッテの瞳が、青白く発光する。

 彼女は片手で演算を続けながら、もう片方の手をヴァルターの方へ向けた。


「ヴァルター様!! 私の結界が、あの泥の『無敵時間』をコンマ一秒だけ解除し続けます! 私の呼吸に合わせて、その傲慢な魂ごと、彼を焼き尽くしてください!!」

「……了解した。……よくやった、リーゼロッテ。……後は、父親の仕事だ」


 ヴァルターが、かつてないほど穏やかに、けれど絶望的なまでの破壊を込めて笑った。

 彼の背後に、巨大な黒竜の幻影が立ち昇る。


「――貴様の地獄への旅路に、慈悲など用意してやらん。……塵になれ、私の家族を脅かした罪を、永遠に悔いながらな!!」


 漆黒の閃光が、地下室を飲み込んだ。

 リーゼロッテの精密な結界が、ゼノスの防御を紙切れのように引き裂き、そこへヴァルターの「絶対破壊」が叩き込まれる。

 絶叫すら残さず、大司教と終焉の泥は、この世の理から完全に抹消された。



 ***



 静寂が戻った地下室。

 リーゼロッテは膝から崩れ落ちそうになりながらも、必死に揺りかごへ駆け寄った。


「……ルディウス、ルディウス……!」


 揺りかごの中では、ルディウス皇子が、先ほどの光景が嘘だったかのように、スヤスヤと寝息を立てていた。

 彼を守っていた虹色の結界が、リーゼロッテの指先が触れると、甘えるようにキラキラと霧散していく。


「……ふう。……無事ですわ、ヴァルター様」


 ヴァルターは、背後からリーゼロッテと皇子を、壊れ物を扱うように包み込んだ。

 彼の大きな手が、妻の震える肩を抱きしめる。


「……信じていたが、心臓が止まるかと思った。……リーゼロッテ、君は……本当に、私の誇りだ。……そして、世界で一番強い母親だよ」

「……ふふ。……事務処理を頑張りすぎたせいか、少し眠くなってしまいましたわ……」


 リーゼロッテがヴァルターの胸に顔を埋めると、彼は愛おしそうに彼女の額に口づけした。

 

「ああ。……後は、私がすべて片付ける。……エドムント、ロザリン! 後の掃除は任せた。……私は、妻と子を連れて、世界で一番安全な場所――私の腕の中へ帰る」

「陛下! 瓦礫の山をどうにかしてくださいよぉぉ!!」


 エドムントの悲鳴が遠くで響く中、最強の夫婦は、平和を取り戻した帝都の朝へと向かって歩き出した。

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