第30話:皇后の采配、皇帝の咆哮
帝都の北、地平線を埋め尽くすのは、音もなく全てを侵食する「漆黒の泥」だった。
触れる草木は枯れ果てる間もなく消滅し、放たれた帝国軍の魔導砲火さえも、その泥に飲み込まれて栄養源と化していく。
「……陛下、もはやこれまでです! 私の盾も、物理的な質量を持たないあの影には通用しませぬ!」
最前線でロザリンが叫ぶ。
彼女の誇る大盾の一部が、泥に触れた瞬間に霧のように消し飛んでいた。
後方に控えるヴァルター陛下は、苛立ちを隠せず、黄金の瞳を赤く燃え上がらせていた。彼の放つ黒炎の魔力は大陸最強だが、この「概念の獣」にとっては、単なる高エネルギーの食事でしかなかった。
「……くっ、私の魔力すら糧にするというのか。リーゼロッテ、下がれ! ここは私が自爆覚悟で……」
「いいえ、ヴァルター様。……絶望するのは、私の『計算』が終わってからにしてください」
戦場に似つかわしくない、凛とした、そして驚くほど冷静な声が響いた。
そこには、簡易的な術式展開机を広げ、数百枚の羊皮紙を宙に浮かせてペンを走らせるリーゼロッテの姿があった。彼女の瞳は超高速で情報の奔流を追い、かつてサンクチュアリ王国で培われた「過酷な事務処理能力」が、今、戦場全域の魔力流動を完全に掌握しようとしていた。
「――マルコ! 南西300地点に、隠し持っていた『氷晶石』を1200個、円形に配置して! 誤差は5センチ以内よ!」
「ひっひっひ! 了解だぁ! 命より大事な在庫だが、皇后様の頼みときちゃあ、出し惜しみはしねえぜ!」
マルコが影の如き速さで動き、戦場に宝石の陣を敷く。
「ロザリン! 盾の裏にある魔導回路を、私が今送る術式に書き換えて! 敵を『防ぐ』のではなく、敵の概念を『定義』する触媒にするのよ!」
「はっ! 皇后陛下の命ならば、この盾、概念ごと書き換えて御覧に入れますわ!」
リーゼロッテの指揮は、神業に近い精密さだった。
彼女は、泥の動き、大気の湿度、陛下が放つ魔力の散逸率、それらすべてを変数として扱い、一つの巨大な「解」を導き出していた。
「……皆様、今です! ヴァルター様、最大出力の黒炎を、私の展開した結界の『隙間』だけに叩き込んでください!」
「……隙間だと? 奴には魔法が効かないと言ったはずだ、リーゼロッテ!」
「いいえ。私が今、あの泥の『組成式』を事務的に書き換えました。……今のあの泥は、ただの『非常に燃えやすい油』として定義されています。……あなたの炎で、一滴残らず焼き払えますわ!」
ヴァルターは目を見開いた。
最強の破壊神である彼が、その力を振るうための「標的」を、妻が完璧にお膳立てしたのだ。
「……ははっ、流石は私の妻だ。……世界一有能で、恐ろしい女性だよ」
ヴァルターが天に手を掲げる。
リーゼロッテの構築した白銀の数式が、漆黒の泥を包み込み、その存在を「ただの物質」へと強制的に固定した。
「――焼き尽くせ! 存在の塵一つ残さぬようにな!!」
ゴォォォォォォン!!
天を裂くような黒炎の奔流が、泥を直撃した。
先ほどまで無敵だった災厄が、リーゼロッテの計算通り「ただの燃料」として爆発的な勢いで燃え広がり、断末魔のような音を立てて蒸発していく。
戦場にいた兵士たちは、その神業に絶句した。
皇帝の圧倒的な破壊力と、それを完璧に制御し、勝利へと導いた皇后の冷徹なまでの知略。
「……見たか、エドムント。あれが私のリーゼロッテだ。……彼女がいなければ、私はただの力の塊に過ぎなかった」
ヴァルターが誇らしげに、けれど独占欲を滲ませて呟く。
しかし、喜びも束の間。リーゼロッテのペンが止まり、彼女の顔が蒼白になった。
「……ヴァルター様、まだ終わっていません。……この泥を操っている『核』が、帝都の地下……ルディウスのいる場所へ転移しましたわ!」
「――何だと!?」
泥の本体は、囮だった。
真の狙いは、両親の最強の血を引く赤子、ルディウス皇子。
教国の残党が、災厄の核心を抱えて帝都の心臓部へと潜入したのだ。
「……あの子に、触れさせるわけにはいきません」
リーゼロッテの瞳に、慈母の愛を越えた「静かなる怒り」が宿る。
「ヴァルター様、私を抱いて最速で飛んでください。……計算の続きは、あの子の揺りかごの前で終わらせますわ」
「ああ……。我が息子を狙ったこと、神ごと後悔させてやろう」
二人は流星の如く帝都へと引き返す。
最強の「力」と、最強の「知」。
二つの個性が完全に噛み合った時、世界は真の「神殺し」を目撃することになる。




