第3話:皇帝の重すぎる寵愛と、崩壊の序曲
窓の外には、抜けるような青空が広がっていた。
ここ、ガルディニア帝国の帝都は、私がいたサンクチュアリ王国とは比べものにならないほど活気に満ちている。
だが、今の私にとっての「世界」は、この豪華絢爛な寝室と、目の前に座る一人の男に集約されていた。
「……あの、ヴァルター陛下。そろそろ、その……手を離していただけないでしょうか」
私は顔を真っ赤にしながら、隣に座る皇帝に懇願した。
目覚めてからというもの、彼は執務をこの部屋に持ち込み、空いている方の手でずっと私の手を握りしめているのだ。大きな、節くれだった男らしい手が、私の細い指を包み込む。その体温が伝わってくるたび、心臓が跳ねる。
「……嫌だと言ったら?」
ヴァルター陛下は書類から目を離さず、平然と言い放った。
その横顔は、彫刻のように整っている。漆黒の髪の間から覗く黄金色の瞳が、冷徹な皇帝としての威厳を放っているが、口元にはわずかに柔らかな色が混じっている。
「君は、自分がどれほどのことをしたか分かっていないようだな。私が十年間、国中の魔導師を動員しても解決できなかった国境付近の魔獣問題を、君はたった一振りの手で見事に解決したのだ。私の命だけでなく、帝国の至宝である黒騎士団の命も救った」
彼はようやく顔を上げ、私の瞳をじっと見つめた。
「君を離すということは、帝国の安寧を手放すということだ。……そして、何より私の心がそれを許さない」
そんなふうに真っ直ぐ言われると、言葉に詰まってしまう。
サンクチュアリ王国では、私は常に「背景」だった。結界を維持して当たり前。魔力が測定不能(実際は結界に全出力していたため)になれば、即座に「無能」の烙印を押される存在。
誰かに必要とされることが、これほどまでに胸を締め付けるものだとは知らなかった。
「ですが、私はあちらの国では『無能』と呼ばれていました。……本当に、私でよろしいのですか?」
「無能、か」
ヴァルター陛下の声が、一瞬で氷点下まで下がった。
彼が握る手に力がこもる。痛くはないが、逃がさないという強い意志が伝わってきた。
「その言葉を吐いた愚か者たちの首を跳ねてやりたいところだが……。安心しろ、リーゼロッテ。君を捨てた報いは、今ごろ彼ら自身が支払っているはずだ」
その言葉通り、国境を隔てたサンクチュアリ王国では、かつてない混乱が渦巻いていた。
***
「な、ない! どこを探してもいないだと!?」
サンクチュアリ王国の第一王子、ザカリーは荒れ果てた夜会会場で、衛兵たちを怒鳴り散らしていた。
床には割れたグラスが散乱し、つい数時間前までの華やかな空気は微塵もない。
「は、はい……。門番の報告によれば、リーゼロッテ様は雨の中、徒歩で隣国との国境方面へ向かわれたとのことですが、その後の足取りは一切不明で……」
「馬鹿な! あの無能が一人で森を抜けられるはずがないだろう! 魔獣に食われたのか!? それともどこかに隠れているのか!?」
ザカリーが焦っているのは、彼女への愛ゆえではない。
彼女が去った瞬間から、王宮を覆っていた空気が目に見えて「澱み」始めたからだ。
王宮の地下にある『大結界の心臓部』。
かつては青白く美しく輝いていた巨大な魔石が、今はひび割れ、どす黒く変色している。代々のヴァリエール家が命を懸けて繋いできた『魔力の供給』が途絶えた結果、結界は完全に崩壊した。
「殿下! 大変です! 西門が突破されました!」
血相を変えた騎士が飛び込んでくる。
「魔獣の群れが街に侵入しています! ミナ様の『癒やしの光』では、魔獣を追い払うどころか、威嚇することすらできません!」
「なっ……ミナはどうした!」
「……ミナ様は、『こんなの聞いてない、私はただの令嬢なのよ!』と叫んで自室に引きこもってしまわれました……」
ザカリーの顔から血の気が引いていく。
彼が「真の聖女」と呼び、愛でていた女は、ただの「少し魔法が使えるだけの小娘」に過ぎなかった。
一方で、彼が「無能」と呼び、泥の中に放り出した女は、この国の数百万の民の命をその細い肩で支えていた「真の守護者」だったのだ。
「……リーゼロッテ。そうだ、あいつだ。あいつさえ戻れば、こんな魔獣ども、一瞬で……!」
ザカリーは震える手で、行方不明の婚約者の名前を呼んだ。
だが、その声が彼女に届くことは二度とない。
***
一方、帝国の王宮。
私は、ヴァルター陛下に連れられて、広大な王宮のバルコニーに出ていた。
「見ていろ、リーゼロッテ。これが私の国だ」
眼下には、灯火が宝石のように散りばめられた美しい夜景が広がっている。
そして、その街全体を包み込むように、淡い、それでいて強固な光の膜が展開されていた。
「陛下、これは……」
「君が昨夜、眠りながら無意識に張った結界だよ。おかげで帝都は今、建国以来最も安全な夜を迎えている」
私は驚いて、自分の手を見つめた。
無意識のうちに?
そうだ……あんなに重かった魔力の供給が、今は羽のように軽い。
この国の人々を守りたいという想いだけで、魔力が溢れてくる。
「君はもう、自分を削る必要はない。これからは私が君を守り、君がこの国を包み込む。……どうだ、悪くない取引だろう?」
ヴァルター陛下が、私の腰を引き寄せ、耳元で低く囁いた。
彼の長い髪が私の頬に触れ、甘い香りが鼻をくすぐる。
「……はい。陛下」
私はようやく、小さく微笑んだ。
私を捨てた国が、今この瞬間も魔獣の咆哮に震えていることなど、もう私の預かり知らぬことだった。
私の結界はもう、私を愛し、必要としてくれるこの人のためにしか存在しないのだから。




