第29話:星堕つる夜、断絶の神託
帝都の夜空に、不吉な紅い尾を引く彗星が流れた。
その瞬間、リーゼロッテが帝都全域に張り巡らせていた「白銀の結界」が、悲鳴を上げるように激しく振動した。
「――っ、何かしら、この禍々しい魔力は……!」
産後の静養中だったリーゼロッテは、胸のざわつきを抑えられず、揺りかごで眠るルディウスを抱き上げた。
そこへ、鉄錆の匂いと焦燥感を纏ったヴァルター陛下が、荒々しく部屋へ踏み込んできた。その後ろには、顔を真っ青にしたエドムントと、これまでにない真剣な表情のロザリンが続く。
「リーゼロッテ、ルディウスを連れて地下の最深聖域へ避難しろ。今すぐだ」
「ヴァルター様? 一体何が起きたのですか。……あなたが、これほど狼狽えるなんて」
陛下の手は、微かに震えていた。
エドムントが震える声で、机の上に一枚の古びた羊皮紙を広げる。そこには、帝国の北方に位置する「聖導教国」の奥深くに封印されていたはずの、禁忌の神託が記されていた。
「……『星を喰らう神、再臨せん』。……陛下、北方の国境線が、物理的に消滅しました。敵は軍勢ではありません。……触れるものすべてを虚無に還す、概念の泥……『終焉の獣』です」
それは、数千年前の大戦で世界を一度滅ぼしかけた、実体のない災厄だった。
物理的な攻撃はすべて透過し、魔力を糧にして増殖する。最強の破壊魔法を操るヴァルター陛下にとって、これほど相性の悪い敵はいない。彼の「焼き払う」力は、敵をより巨大化させる餌でしかなかったのだ。
「……私の剣も魔法も、奴を素通りする。……先ほど、国境を守っていた精鋭たちが、抵抗する間もなく『存在そのもの』を消された。……リーゼロッテ、私は初めて……自分が無力だと感じている」
ヴァルターが膝をつき、絞り出すような声で言った。
最強の皇帝が、愛する妻と子を守れない絶望に打ちひしがれている。
「――ひっひっひ。陛下、そう弱気になっちゃ困りますぜ」
影から現れたのは、商人のマルコだった。彼は算盤を放り出し、一枚の魔導地図を差し出した。
「北から迫る虚無の泥は、あと三日で帝都に届きやす。……ですがね、陛下。物理が効かねえなら、論理でハメればいい。……これを解析し、泥を閉じ込める『多重定義結界』を構築できるのは、世界中でたった一人しかいねえ」
全員の視線が、リーゼロッテに集まった。
かつてサンクチュアリ王国で「計算機」のようにこき使われ、けれど誰よりも精密に魔導式を組み上げてきた彼女の能力。
「……多重定義結界。……敵の存在を『無』ではなく『有』として固定し、その瞬間に物理的な封印を施す……。膨大な計算量が必要ですわ。帝国の魔導師全員の脳を繋いでも、十年はかかるでしょう」
リーゼロッテは、震えるルディウスの小さな手を握り、力強く顔を上げた。
「ですが、私なら三時間で構築できます。……ヴァルター様。あなたが私を拾い、愛してくれたおかげで、私のこの能力は『呪い』ではなく『守るための力』になりました」
「リーゼロッテ……しかし、そんな無茶をすれば、君の精神が……!」
「陛下!!」
ロザリンが大盾を叩き、叫んだ。
「皇后陛下は、我ら騎士団の魂です! 守られるだけのお方ではありません! 陛下、今こそ皇后陛下の『知略』と『魔力』を信じ、共に戦うべきですわ!」
ヴァルターはしばらく沈黙した後、リーゼロッテの細い肩を引き寄せ、その額に深い接吻を落とした。
「……分かった。私の全魔力を、君の思考のブースターとして捧げよう。……リーゼロッテ。君が『盾』を作り、私がその中に『死』を叩き込む。……私たちの子供が生きる未来を、泥に汚させはしない」
***
翌朝。
王宮の執務室は、戦場と化した。
リーゼロッテを中心に、数百の魔導スクロールが宙を舞い、彼女の瞳は高速で流れる数式を追い続ける。
ヴァルターは彼女の背後に座り、自身の膨大な魔力を「思考の安定剤」として彼女へ流し込み続けていた。
ロザリンは入り口で迫りくる教国の暗殺者(災厄に乗じてリーゼロッテを奪おうとする者たち)を文字通り粉砕し、マルコは世界中から結界の触媒となる希少石を命懸けで調達してくる。
「……第十四術式、固定。……座標、北緯32度。……ヴァルター様、そこに私の魔力を通す『回路』を焼いてください!」
「了解した。……焼き切ってやる、理ごと!」
夫婦の初めての「共同戦線」。
かつて孤独だった少女の有能さが、今、滅亡寸前の帝国を救う唯一の希望となっていた。
しかし、北の地平線からは、すべてを飲み込む漆黒の泥が、空を覆うほど巨大な壁となって迫りつつあった――。




