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第26話:鋼鉄の産室と、皇帝の断食

 ガルディニア帝国の王宮は、今や「難攻不落の要塞」と化していた。

 それも、外敵を防ぐためではない。ただ一人、出産を間近に控えた皇后リーゼロッテを、文字通り「分子レベルの危険」から守り抜くためである。


「――陛下! 流石にやりすぎです! 分娩室の壁をすべて希少金属オリハルコンで裏打ちし、さらに三重の魔法障壁を重ねるなど、前代未聞ですぞ!」


 筆頭魔導師エドムントの悲鳴が、金属質の光を放つ通路に響いた。

 そこには、数日不眠不休で魔導回路を刻み込み、目の下にどす黒い隈を作ったヴァルター陛下が立っていた。その黄金色の瞳は、もはや理性の限界を超え、愛する妻への執着だけで燃え上がっている。


「黙れ、エドムント。リーゼロッテが産気づいた際、万が一にでも地震が起きたらどうする。隕石が落ちてきたら? 隣国が捨て身の呪いを放ってきたら? ……この部屋は、神のいかずちが直撃しても揺るぎもしない『絶対聖域』でなければならんのだ」


 陛下は、自身の指先から溢れ出す膨大な魔力を、壁の刻印へと流し込み続ける。

 彼はリーゼロッテの体調が不安定になってからというもの、食事も喉を通らず、「私が栄養を摂っている間に彼女に何かが起きたらどうする」という謎の論理で断食を続けていた。


 そこへ、山のような荷物を抱えた商人のマルコと、全身をフルプレートアーマーで固めたロザリンが駆け込んできた。


「ひっひっひ、陛下! 持ってきやしたぜ! 伝説の聖山にのみ自生する『安産の苔』で作った最高級の敷物だ! こいつは痛みを和らげ、周囲の魔素を浄化する……お値段は、帝国の飛び地一つ分でさあ!」

「マルコ、安い買い物だ! 今すぐ敷き詰めろ! ……ロザリン、貴様は何をしている!」


 陛下が鋭く問うと、ロザリンは盾をガシャンと鳴らして敬礼した。


「報告します! 分娩室の周囲半径五百メートルから、すべての男性職員および雄の飼い犬、さらには飛んでいる虫のオスに至るまで、完全に排除いたしました! リーゼロッテ様が苦しまれる際、不浄な男の視線など一ミリたりとも通させません!」

「……ふん、及第点だ。だが、私の視線だけは例外だぞ。私は彼女の産声から、赤子の最初の呼吸まで、すべてを支配する義務がある」



 ***



 一方、そんな騒乱の中心地である「鋼鉄の産室」の中。

 リーゼロッテは、あまりにふかふかすぎるクッションの山に埋もれながら、呆れたように溜息をついていた。


「……皆様、少し落ち着いてくださいませ。まだ、陣痛が始まったわけでもありませんのに」


 窓の外を見ようとしても、陛下が「紫外線が肌を焼く」という理由で設置した特殊な遮光結界のせいで、外の景色すら見えない。

 扉が開くと、憔悴しきった、けれど私の姿を見た瞬間に顔を輝かせたヴァルター陛下が滑り込んできた。


「リーゼロッテ! 気分はどうだ? 喉は渇いていないか? 背中は痛くないか? 私が今すぐ、君の痛みを身代わりにする禁忌術式を構築するから……」

「ヴァルター様。……そんな術式を使ったら、あなたが倒れてしまいます。私を誰だと思っているのですか? 大陸最強の結界を、一人で三年間維持した聖女ですよ?」


 私は陛下の、冷たくなった手を握りしめた。

 彼は皇帝としての威厳をかなぐり捨て、私の膝に顔を埋めて子供のように震えだした。


「……怖いのだ。君が、私を置いてあちら側へ行ってしまうのではないかと。……あの日、雨の中で君を抱き上げた時、私は誓った。二度と、君に冷たい思いをさせないと。……出産は、女の命がけの戦いだと聞く。……代わってやれない自分が、これほど憎いことはない」


 陛下の重すぎる愛。

 それは時として暴走し、周囲を困惑させるけれど、その根底にあるのは「私を失うことへの根源的な恐怖」なのだ。

 

 かつての国では、私の命など「使い捨ての電池」程度にしか思われていなかった。

 けれど今、この大陸で最も尊い男が、私の爪先ひとつが冷えることさえ恐れて、世界を改造しようとしている。


「……大丈夫ですわ。この子も、あなたの強引なまでの愛を感じて、早くパパに会いたいと急いでいるみたいですもの」


 私がそう言った瞬間。

 お腹の奥で、確かな熱い「痛み」が走った。


「……あ……っ」

「リーゼロッテ!? どうした、何が起きた! エドムント! 侍医を呼べ! いや、私が今すぐ癒やしの魔力を……!」

「……ヴァルター様、落ち着いて。……始まりましたわ。私たちの、新しい家族の時間が」


 私が微笑むと、陛下の顔から一気に血の気が引いた。


「――全員、持ち場につけぇぇぇ!! 皇后陛下が産気づかれた! これより一刻の間、帝都のすべての音を禁ずる! 鳥は鳴くな、風は吹くな! 世界はただ、リーゼロッテの呼吸に合わせろ!!」


 陛下の絶叫に近い号令が、帝都全土に響き渡った。

 

 ロザリンが部屋の四隅を固め、マルコが特注の魔法薬を並べ、エドムントが結界の出力を最大にする。

 かつて孤独だった少女の周りには、今、彼女のために命を懸ける最強の仲間たちと、狂おしいほどに彼女を愛する夫がいる。

 

 鋼鉄と結界に守られた聖域で、帝国の歴史を塗り替える「至宝」の誕生が、今まさに幕を開けようとしていた。


「……ヴァルター様。……手を、離さないでくださいね」

「誓う。たとえ冥府の王が君を連れ去りに来ようとも、私はこの手で君を引き戻す。……愛している、リーゼロッテ。私のすべてを懸けて、君を守り抜く」


 結界が白銀の光を増し、王宮は眩い祝福の渦に包まれていった。

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