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第22話:酸っぱい果実と、皇帝の進撃

「……うう、気持ち悪いですわ……」


 帝国の至宝、リーゼロッテ皇后陛下が寝台で力なく横たわっている。

 懐妊から数週間。彼女を襲ったのは、激しい「つわり」だった。かつて三日三晩不眠不休で結界を維持した彼女が、今は一口のスープさえ受け付けず、顔色を青白くさせている。

 その傍らで、ヴァルター皇帝陛下は、今にも世界を滅ぼしそうな形相で彼女の手を握りしめていた。


「……リーゼロッテ。何でもいい、食べたいものを言ってくれ。龍の心臓か? それとも深海に眠る伝説の真珠か? 私が今すぐ獲ってきて、粉にして飲ませてやる」

「……そんな物騒なものは……いりません……。ただ、昔……母様に隠れて……一度だけ食べた……隣国の『紅水晶の林檎』が……食べたい気がします……」


 それは、旧サンクチュアリ王国のさらに西、険しい山脈に囲まれた小国・ライゼス領の特産品だった。非常に酸味が強く、それでいて後味が清涼な、妊婦にはたまらない幻の果実だ。


「――聞いたか、エドムント!!」


 陛下の怒号が、王宮の壁をヒビ割れんばかりに震わせた。


「は、はい! ここに!」

「今すぐライゼスへ向かう! 最速の軍馬と、魔導飛行艦をすべて出せ! 一刻も早く、その『紅水晶の林檎』を根こそぎ持ってくるのだ!」

「陛下! ライゼスは現在、冬の嵐で閉ざされており、商隊すら近づけませんぞ!」

「嵐だと? 知るか! 嵐など私の魔力で消し飛ばせ! 街道を塞ぐ山があるなら、山ごと更地にして道を作れ! リーゼロッテが食べたいと言っているのだ、世界のことわりなど二の次だ!!」



 ***



 数時間後。

 大陸の歴史書に「林檎の進撃」と記されることになる、前代未聞の軍事行動が開始された。


 ヴァルター陛下自らが率いる帝国最強の第一軍が、国境を越えてライゼス領へと突き進む。

 ライゼスの王は、突如として現れた帝国軍の威容に腰を抜かし、城門を開けて平伏した。


「ひ、陛下! 我が国が何か無礼を!? 侵攻の理由をお聞かせください!」

「……林檎だ」

「……え?」

「この国にある『紅水晶の林檎』をすべて出せ。代金は帝国の金貨で支払う。だが、一つでも傷がついていたり、鮮度が落ちていれば、この国を地図から消す」


 皇帝のあまりの覇気に、ライゼスの王室は総出で林檎の収穫にあたった。

 極寒の山脈。本来なら収穫時期ではないはずの木々に、陛下は自らの強大な魔力を注ぎ込み、強制的に結実・完熟させたという。



 ***



 翌朝。

 リーゼロッテが目を覚ますと、寝室のテーブルには、宝石のように輝く深紅の林檎が山積みになっていた。


「……まあ。これは、ライゼスの……?」

「ああ。食べてみてくれ、リーゼロッテ。……もし口に合わなければ、あの国ごと焼き払ってくる」


 陛下は徹夜で往復したとは思えないほど涼しい顔をして(実際にはマントが雪で凍りついているが)、自ら銀のナイフで林檎を薄く剥き、私の口元へ運んだ。

 シャクッ、という心地よい音と共に、鮮烈な酸味と甘みが口の中に広がる。


「……美味しい。……ああ、これですわ。ヴァルター様、ありがとうございます。……なんだか、少し元気が出てきました」


 私が微笑むと、陛下の張り詰めていた肩の力が、一気に抜けた。

 彼はそのまま、私のベッドの縁に崩れ落ちるように膝をつき、私の手に顔を埋めた。


「……よかった。……君が食べられないと聞くたび、私の心臓は止まりそうになる。……子供などどうでもいい。私は、君の体が削られるのが、何よりも耐え難いのだ」

「ふふ、またそんなことを。……この子が、林檎を欲しがったのかもしれませんわよ?」


 陛下は、私のまだ平らなお腹を、親の仇を見るような鋭い視線で睨みつけた。


「……親に林檎を獲りに行かせるなど、生意気な赤子だ。……リーゼロッテ、次にこいつが何かを要求したら、私ではなくエドムントに行かせよう。私は、一秒でも長く君の側にいたいのだ」


 その時、廊下からエドムントの「陛下! ライゼスの王から『軍隊で林檎を買いに来るのはやめてくれ』と抗議文が届いていますぞ!」という叫び声が聞こえたが、陛下は指先一つで扉に「物理遮断結界」を張り、室内を静寂で包み込んだ。


「……リーゼロッテ。林檎の次は、何がいい。海を越えた先の南国の果実か? それとも、伝説の鳥の卵か? 君が望むなら、私はこの大陸のすべてを君の皿の上に並べてみせよう」


 皇帝の独占欲は、ついに「食欲」という名の軍事力にまで昇華されていた。

 かつての国では、空腹で祈り続けても誰もパン一つ与えてくれなかった私。

 けれど今、私が「林檎が食べたい」と呟くだけで、一つの国の運命が揺れ、皇帝が軍を率いて駆け抜ける。


「……ヴァルター様。次は、何もいりませんわ。……ただ、あなたの腕の中で、少しだけ眠らせてください」


 私が甘えると、陛下は歓喜に震える手で私を抱きしめた。

 

「……ああ。……永遠に、私の腕の中で眠るがいい。君の夢にさえ、私以外の男は一歩も立ち入らせない」


 陛下の重すぎる愛の結界の中で、私は林檎の甘酸っぱい香りに包まれながら、深い安らぎの中へと落ちていった。

 

 物語は、妊婦となったリーゼロッテを巡る、帝国の「全軍を挙げた過保護」という新たな混沌へと突入していくのだった。

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