第21話:至宝の宿り、皇帝の錯乱
ガルディニア帝国の王宮が、かつてない戦慄に包まれていた。
発端は、朝食の席で私がふと漏らした、何気ない一言だった。
「……あら。大好きなはずの温製スープの香りが、今日は少し鼻につきますわ」
その瞬間。
向かいで優雅にコーヒーを飲んでいたヴァルター陛下の動きが、石像のように固まった。
パリン、と音を立てて上質な磁器のカップが床に砕け散る。
「……リーゼロッテ。今、なんと言った」
「ええと、香りが少し強い気が……」
「エドムントォォォ!! 今すぐ大陸中の名医と聖導師を集めろ! 陣痛の準備だ! いや、まずは無菌室を作れ! 誰一人としてリーゼロッテに半径十メートル以上近づかせるな!!」
陛下の怒号が王宮の梁を震わせた。
まだ「兆し」があるだけで、確定したわけでもない。
それなのに、陛下は椅子を蹴り飛ばして私のもとへ駆け寄ると、震える手で私の肩を抱きしめた。
「ヴァ、ヴァルター様、落ち着いてください。まだ少し気分が悪いだけで……」
「落ち着けるか! 君の体の中に、別の生命がいるというのか!? 私の愛を奪い、君の体力を削り、あまつさえ君を苦しめる存在が!? ……たとえ我が子であろうと、君を傷つけることは許さんぞ!」
陛下の独占欲は、ついに「まだ見ぬ我が子」にまで牙を剥き始めていた。
***
一時間後。
私の寝室は、無理やり連行されてきた侍医たちと、結界を二重三重に張り直す魔導師たちで埋め尽くされていた。
陛下は私のベッドの横で剣を抜き放ち、診断を下そうとする医師を鋭い眼光で威圧している。
「……いいか。もし一分一秒でもリーゼロッテを痛がらせてみろ。貴様の家系を歴史から抹消してやる」
「ひ、陛下、これでは脈が測れません……!」
ようやく下された診断は、間違いなく「懐妊」であった。
帝国に待望の世継ぎが宿った。本来ならば国を挙げての祝祭が行われるべき吉報だが、陛下の反応は、およそ「父親」のそれとはかけ離れていた。
「……リーゼロッテ。今日から一歩もベッドから出るな。食事は私がすべて毒見をし、咀嚼して与えてやろう」
「流石にそれは結構ですわ!」
「黙れ。君の魔力が子供に吸い取られている……。ああ、私のリーゼロッテが細くなってしまう……。エドムント! 今すぐ国中の魔力供給源をこの部屋に集めろ! 彼女の代わりに子供に魔力を与える魔導回路を構築しろ!」
陛下はパニックのあまり、国政を完全に停止させる布告を出そうとしていた。
「皇后の安寧のため、本日より帝国は鎖国する」という無茶苦茶な命令書を書き始めた陛下の腕を、私は必死に掴んだ。
「ヴァルター様! 私、幸せなのです。……あなたとの子供を授かれたことが、何よりも誇らしいのです。ですから、そんなに怖がらないでくださいませ」
私の言葉に、陛下の荒い呼吸がようやく静まった。
彼は私の膨らんでもいないお腹に、耳を当てるようにして額を押し当てた。
「……怖いのだ。君を失うことが、何よりも。……サンクチュアリで独りぼっちだった君を見つけたあの日から、私の世界は君を中心に回っている。……子供が生まれれば、君の愛が半分に分かれてしまうのではないか……そんな矮小な嫉妬すら抱いてしまうのだ」
皇帝として、最強の魔導戦士として君臨する男が、私の前でだけ見せる弱さ。
私は彼の髪を優しく撫で、その耳元で囁いた。
「半分になどなりませんわ。……私と、この子と、二人であなたを愛するのですから。……愛が二倍になるだけですわよ?」
陛下は顔を上げ、潤んだ瞳で私を見つめた後、狂おしいほどの情熱を込めて私の唇を塞いだ。
「……ずるい女だ。そんなことを言われたら、私は一生君の奴隷になるしかないではないか。……分かった。この子は生かしてやろう。だが、生まれた瞬間に家庭教師をつけて私から引き離すからな」
「それは早すぎますわ!」
***
数日後。
「皇后懐妊」のニュースは帝国中を駆け巡り、民衆は歓喜の渦に包まれた。
しかし、王宮の入り口には、陛下が自ら設置した「男性禁制・全自動排除結界」が張られ、お祝いに駆けつけた各国の大使たちは、物理的に吹き飛ばされて門前払いを受けていた。
「リーゼロッテ。今日から、君の結界はすべて子供ではなく、君自身の体を守るために使え。……外敵は、私がこの手ですべて塵にする」
陛下の過保護は、もはや国家の防衛レベルを超え、一種の「天災」へと進化していた。
かつて、雨の中で誰からも望まれず捨てられた私。
けれど今、私の体の中には新しい命が宿り、それを世界で一番不器用で、重すぎるほど愛してくれる男が、必死に守り抜こうとしている。
「……ふふ。ヴァルター様。そんなに怖い顔をしていては、子供が怖がってしまいますわよ?」
「……む、そうか。……エドムント! 今すぐ『威圧感を消す魔法』を私にかけろ! 最速でだ!」
ドタバタと走り回る陛下と魔導師たちの声を聴きながら、私は幸福な微睡み(まどろみ)の中に身を沈めた。




