第16話:聖女の執務と、皇帝の休息
ガルディニア帝国の政務は、大陸全土を統治するがゆえに膨大だ。
特に、併合した旧サンクチュアリ王国の戦後処理が重なり、ヴァルター陛下はここ数日、まともに睡眠も取れていないようだった。
「……陛下、少しはお休みください。顔色が優れませんわ」
「案ずるな、リーゼロッテ。……君が隣にいてくれるだけで、私の魔力は回復している」
陛下はそう言って、私の指先に愛おしそうに口づけを落としたが、その瞳には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
彼が緊急の軍事会議のために席を外した、その直後。私は机の上に山積みになった、未決済の書類の束に目を向けた。
「エドムント様。……これらの中で、私が手伝えるものはありますか?」
「えっ!? 皇后陛下、滅相もございません! 陛下に知られたら、私は今度こそ北の果てへ送られてしまいます!」
控えていた筆頭魔導師エドムントが、飛び上がって制止する。
だが、私は静かに、かつ有無を言わせぬ微笑みを浮かべてペンを取った。
「サンクチュアリ王国では、私は公爵令嬢として、そして結界の管理者として、領地の会計から魔導回路の設計まで、すべて一人でこなしておりました。……陛下の重荷を少しでも減らしたいのです。いけませんか?」
私の瞳に宿る真剣な光に、エドムントはついに根負けし、「……では、この、魔導インフラの整備計画書だけでも……」と、最も難解な書類を差し出した。
***
それからの三時間。
執務室には、サラサラとペンが走る音と、時折重なる私の呟きだけが響いていた。
「……ここの術式は非効率ですね。私の結界の術式を応用すれば、魔石の消費を三割カットできますわ。……この会計報告も、端数が合いません。再計算が必要です」
私は、サンクチュアリ王国で培った「過酷な労働環境での事務処理能力」をフル回転させた。
複雑な多重魔導式の欠陥を次々と指摘し、より洗練された代替案を余白に書き込んでいく。エドムントは、私の処理スピードがあまりに速すぎて、絶句したまま固まっていた。
「……お、皇后陛下……。貴女様は、もしや天才を通り越して、生ける魔導計算機なのですか……?」
「失礼なことを仰いますね。……ふう、これで、今日中に陛下が終わらせるはずだった分は、すべて片付きましたわ」
机の上には、完璧に整理された書類の山が整然と並んでいた。
その時、重厚な扉が勢いよく開いた。
「リーゼロッテ! 待たせたな。……む?」
戻ってきたヴァルター陛下が、異様な光景に足を止めた。
疲れ果てた表情が一変し、鋭い視線が整理された書類と、ペンを持った私の指先に注がれる。
「……これは、どういうことだ。エドムント、説明しろ」
「ひ、陛下! 皇后陛下が、どうしてもとお仰るもので……!」
陛下は無言で、私が修正した書類を数枚手に取った。
数分後。彼は書類を置き、深く溜息をつくと、私の元へ歩み寄ってその場に跪いた。
「……リーゼロッテ。君という女性は、どこまで私を驚かせれば気が済むのだ。……この術式の改変、帝国最高の魔導師たちが一ヶ月かけても出せなかった答えだぞ」
「ヴァルター様のお役に立ちたかったのです。……お体、大切になさってください」
私が微笑むと、陛下は私の両手を包み込み、そのまま自分の顔を私の膝に埋めた。
皇帝が皇后に甘えるという、前代未聞の光景。
「……ああ、誇らしい。これほど聡明で、美しい女性が、私の妻だとは。……だが、同時に嫉妬してしまう。君のその素晴らしい才能を、国政なんぞのために使わせてしまった自分にな」
陛下は顔を上げ、独占欲に満ちた熱い眼差しで私を見上げた。
「エドムント。今すぐこの書類を回せ。そして、今日の残りの公務はすべて中止だ」
「ええっ!? ですが、まだ地方領主との面会が……!」
「中止だと言った。……これほど有能な妻を働かせてしまった罰として、私は今夜、彼女にたっぷりと奉仕しなければならないのだからな」
陛下は私を軽々と抱き上げ、寝室へと向かう。
***
「ヴァルター様、まだお昼ですわ!」
「関係ない。……リーゼロッテ、君のその賢い頭も、美しい指先も、本来は私を愛するためだけに存在すべきなのだ。……今夜は、君が仕事のことなど一秒も思い出せないほど、私の愛を刻み込んでやろう」
耳元で囁かれる、情熱的な独占欲。
かつての国では、「便利だから」という理由でこき使われていた私の能力。
けれどこの国では、私の能力は「陛下の自慢」であり、同時に「陛下を嫉妬させる要素」にさえなっている。
私は、陛下の重すぎる愛に翻弄されながらも、誰かの役に立ち、そして誰よりも愛されているという、かつてない幸福に満たされていた。
窓の外では、私の改善した術式が組み込まれた新しい結界が、より一層強く、帝都の空を輝かせ始めていた。




