第11話:皇后教育、あるいは究極の甘やかし
サンクチュアリ王国が滅び、その領土が正式にガルディニア帝国の直轄地となってから一週間。
帝都の王宮では、私の「皇后即位」に向けた準備が、恐ろしい速さで進められていた。
「……あの、エドムント様。この分厚い歴史書と礼儀作法の教本、今日中にすべて暗記しなければならないのでしょうか?」
私は、執務室に積み上げられた本の山を前に、途方に暮れていた。
目の前に立つのは、帝国の筆頭魔導師であり、教育係も兼任することになった老魔導師エドムントだ。彼は困ったように眉を下げ、何度も背後の扉を気にしている。
「リーゼロッテ様、本来ならばそうなのですが……。しかし、その、先ほどからあちら側で放たれている『殺気』が凄まじくて、私は生きた心地がいたしませんぞ」
エドムントが指差す先。
部屋の隅にある長椅子に、ヴァルター陛下が足を組んで座っていた。
彼は手元の書類に目を通しているふりをしているが、その黄金色の瞳は獲物を狙う鷹のように鋭く、私が一ページめくるたびに、エドムントに向けて「私の女を疲れさせるな」と言わんばかりの威圧感を放っているのだ。
「ヴァルター様……。お仕事がお忙しいのでしたら、執務室にお戻りになっては?」
「いや。ここでいい。……エドムント、その教本は必要か? 我が帝国の皇后は、存在するだけで正義だ。作法など、周りが合わせれば済む話だろう」
「へ、陛下! それでは皇后教育になりませんぞ!」
エドムントの悲鳴に近い反論を、陛下は冷たく鼻で笑った。
彼は立ち上がると、私の背後に回り込み、当然のように私の腰を抱き寄せて椅子から引き剥がした。
「……リーゼロッテ。君の指先が、本の角で少し赤くなっている。これ以上の読書は健康に害を及ぼす。今日はここまでだ」
「えっ、まだ三十分も経っていませんが……!」
「三十分も、だ。君の貴重な時間を、こんな埃っぽい紙の束に費やさせるわけにはいかない」
陛下は私の抗議を無視して、私をひょいと抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこだ。
エドムントが「ああっ、まだ帝国の憲章を説明していないのに!」と嘆いているが、陛下は一瞥もくれない。
「……陛下、恥ずかしいですわ。侍女たちが見ています」
「見せておけ。我が帝国の至宝が、どれほど愛されているかを知らしめるのも皇后の務めだ」
***
陛下に連れてこられたのは、王宮の奥にある「秘密の庭園」だった。
そこには、世界中から集められた希少な花々が咲き乱れ、中央の東屋には、宝石のように美しい菓子や果物が用意されている。
「……綺麗。こんな場所があったのですね」
「君のために、昨日突貫工事で整えさせた。……ここには、許可なく誰も入れない。私と君だけの聖域だ」
陛下は私を柔らかいクッションの上に座らせると、自ら紅茶を淹れ、私の口元に最高級のチョコレートを運んできた。
「さあ、あーんしろ。頭を使った後は糖分が必要だろう?」
「……子供扱いしないでくださいませ」
「いいや、愛でているのだ。……サンクチュアリでは、君は常に『与える側』だった。だが私の側では、君は『受ける側』だけでいい。欲しいもの、したいこと、すべて私に強ねだればいいのだ」
陛下の指先が、私の唇をなぞる。
その熱っぽさに、心臓がトクンと跳ねた。
***
かつての私は、結界を維持するために、自分の欲求をすべて押し殺してきた。
食べたいものも、行きたい場所も、すべて「国の安泰」という重圧の下に埋もれていた。
けれど、この人は私の「聖女としての力」だけでなく、私の「わがまま」さえも欲しがっている。
「……では、一つだけお願いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ? 星が欲しいか? それとも、どこかの小国を滅ぼして領土を広げてやろうか?」
「そんな物騒なことではありません! ……ただ、少しだけ、一人で結界の調整をさせてください。……魔力が溢れすぎて、体が少し熱いのです」
私がそう言うと、ヴァルター陛下の瞳の色が、一気に深い闇へと沈んだ。
彼は私の手首を掴み、そのまま私をソファに押し倒すようにして覆いかぶさった。
「……体が熱い、だと? それは結界のせいか? それとも、私への情熱か?」
「ひ、陛下……っ!」
「魔力の放出なら、私が手伝ってやろう。……君の魔力は一滴たりとも、外に逃がしたくない。すべて、私が受け止めてやる」
耳元で囁かれる、独占欲に満ちた掠れた声。
陛下の唇が、私の首筋の、脈打つ場所に深く押し当てられる。
その時。
庭園の入り口で、エドムントが「陛下ー! 皇后教育を放棄して何をされてるんですかー!」と叫ぶ声が聞こえたが、陛下は舌打ちをして、私の耳を塞ぐように強く抱き寄せた。
「……うるさい老いぼれだ。リーゼロッテ、あんな声は聞かなくていい。……君の結界で、この東屋だけを隔離しろ。私と君だけの、誰にも邪魔されない空間を作るのだ」
私は、赤面しながらも、陛下の願いに従って小さな、けれど絶対に破れない「二人だけの結界」を張った。
外の世界では、滅びた王国の残党がまだ騒いでいるかもしれない。
けれど、この結界の中だけは、重すぎるほどの愛と、甘いお菓子の香りに満たされている。
皇后教育の道のりは、どうやら前途多難――というか、陛下という名の「最大の障害」によって、全く進みそうにないようだった。




