第9話 開店の条件
試食会に出したラーメンを提供するにあたり、俺は母親から一つだけ条件をつけられていた。
それは――『近所から苦情が来ないこと』。
これだけは絶対だと、念を押されていた。
母は、腕を組んだまま言った。
「近所の人のオッケーが出るまで、店は開かせないからね!」
豚骨ラーメン。
それは、味以上に匂いとの戦いだ。
九州では、比較的豚骨ラーメン屋の匂いに寛容な土地も多い。
だが、それ以外の地域では、そうはいかない。
誤解されがちだが、豚骨ラーメンは食べるときより、作るときのほうが圧倒的に臭う。
寸胴に火を入れてから三十分ほど。
慣れていない人なら、思わず鼻をつまむほどの匂いが立ち上る。
血液や脂肪に由来する揮発性成分が、一気に空気中へ放出されるからだ。
獣臭さと生臭さが混じった、強烈な匂いだ。
食べる側は、まだいい。
本当に迷惑を被るのは、近隣住民だ。
洗濯物にまで染みつくような臭いを、毎日のように嗅がされる。
それが一年中続くと考えれば、苦情が出ないほうがおかしい。
「あの店の二の舞だけは、避けないとな」
数年後、東京の環七沿いに、伝説的と語られる豚骨ラーメン屋が現れる。
その名は「どんでんかんでん」。
東京に本格的な博多豚骨スープを持ち込んだ、革新的な店だった。
味は本物で、全国から客が集まり、行列は常態化した。
豚骨ラーメンの文化を全国に広めた店と言ってもいい。
だが、その伝説的な店は閉鎖を余儀なくされる。
理由は、味でも価格でもない。
主な原因は、近隣トラブルだった。
強烈なスープの臭い。
夜ごと千人単位でできる行列。
店の人気が高まるにつれ、路上駐車が蔓延し、周辺の交通は麻痺していった。
俺は小さく呟いた。
「ラーメンは、美味いだけじゃダメだ。
地域と共生して、はじめて文化になれる」
ここは、駅から徒歩十分ほど。
駐禁監視員の巡回も多い。
環七沿いのように、違法駐車が常態化する可能性は低い。
行列対策についても、打てる手はある。
事前に警察へ相談すれば、公道にカラーコーンを設置して行列を誘導することも、黙認される。
厳密にはグレーだが、現実にはよく行われている対応だ。
それに加えて、ラーメンの値段を高くすることで来客数を抑える。
問題は、あと一つ。
匂いだけだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
俺は大阪・ミナミへ足を運んでいた。
『千日前道具屋筋』
関西でもっとも調理器具と厨房設備が集まる場所だ。
東京で言えば、合羽橋に近い存在だろう。
だが、歴史はこちらのほうが遥かに長い。
俺は、空調設備屋の店主と向かい合っていた。
「排煙フィルターは、やっぱり活性炭だけですか?」
「そうだねぇ。
これ以上となると、工場向けの大規模設備になっちゃうね」
実は、令和の豚骨ラーメン屋は、昔ほど臭くない。
排煙・脱臭設備が飛躍的に進化したからだ。
数年後、豚骨ラーメンが各地で反発を受けるようになると、
それまで工場にしか適用されていなかった悪臭防止法が、飲食店にも適用されるようになる。
焼肉屋やラーメン屋といった重飲食店が、悪臭を撒き散らすことは法律的に許されなくなる時代の到来だ。
「薬剤で匂いを中和する装置とか、ないですか?」
「工場用ならあるけどねぇ。
飲食店に付けられるサイズは、聞いたことないな」
その結果、排煙ダクト用の脱臭装置は著しく進化する。
だが、この昭和末期の時代には、脱臭という概念自体がまだ薄い。
あるのは、昔ながらの活性炭フィルターくらいだ。
それでも、無いよりはずっとマシだ。
俺は、とりあえず装置だけは購入した。
無いものは、どうしようもない。
そこまでは、想定内だった。
「……やっぱり、やるしかないよな。スープの配達」
ラーメン屋の邪道とされるやり方。
セントラルキッチンだ。
セントラルキッチンは、ラーメン好きから忌み嫌われがちだ。
理由は明白で、かつて大企業が参入した際、冷凍スープを解凍するだけの粗悪なラーメンを量産した過去があるからだ。
俺も商社時代、そういう仕事に関わっていた。
強く否定できる立場ではない。
確かに、スープは一度冷ますと劣化する。
豚骨特有の揮発臭は消え、風味は変わり、脂と水は分離する。
だが、それは技術で抑えられる。
実際、試食会で出したスープも、一度冷却したものだった。
ラーメン通の記者にすら、指摘されなかった。
「まあ、気づかれなかったのは、セントラルキッチンに馴染みが薄いってのもあるんだろうけど」
もちろん、限界はある。
職人が鍋の前で七時間かけて炊き、営業中も味の調整をし続けるスープには、絶対に敵わない。
だが、メリットも大きい。
郊外で仕込めば、匂いの問題はほぼ解決できる。
そして、品質が安定する。
「現場仕込みは、百点の日もあれば、六十点の日もある。
でも、セントラルキッチンなら、いつも八十点を安定してだせる」
令和の技術と組み合わせれば、十分に勝機はある。
令和の名店と呼ばれるラーメン屋の中には、
セントラルキッチンを採用している店も多い。
ラーメンの進化は、凄まじいものがある。
令和基準の八十点は、今の消費者にとって百二十点に等しい。
「この土地のラーメンを文化にするには、
セントラルキッチン方式が必要なんだ」
俺の理想のラーメンには、三つの条件がある。
まず、味。
不味いラーメンに存在価値はない。
次に、持続可能であること。
近隣の理解も、その一部だ。
そして、拡大可能であること。
セントラルキッチン。
この時代のラーメンにまだ持ち込まれていない革命的な考え方は、
この条件のうち、二つを同時に満たしてくれる。
俺は近所の不動産屋に向かって歩き出した。




