第8話 審判
俺の作ったラーメンが下げられ、店内には妙な沈黙が落ちた。
手元に残る空の丼。その底にわずかに残ったスープの余韻だけが、さっきまでの熱を主張している。
審査員たちは、誰もすぐには口を開こうとしなかった。
箸を置いたまま腕を組む者がいる。
天井を見上げる者もいる。
視線を伏せたまま、黙り込む者もいた。
この一杯の判断が、たった一軒の店の未来を左右する。
その重さを、全員が無言のまま理解しているようだった。
最初に口を開いたのは、遥香ちゃんだった。
「私はアツシくんのラーメンが好きだな」
はっきりとした声だった。
まず、俺に一票。
続いて、俺が連れてきた近所のプー太郎が、小さく手を挙げた。
「淳史さんのラーメン、衝撃的でした。
このラーメンを、一緒に作りたいです」
それだけ言って、彼はまた黙り込んだ。
試食会の間、ほとんど発言していなかったが、考えていなかったわけじゃない。
無口だが、仕込みに対する姿勢は誰よりも真面目だ。
接客向きかどうかはともかく、厨房に立たせる分には信用できる。
次に口を開いたのは、荒物屋のおじさんだった。
「俺はな、敦史のラーメンは合わんわ。
お袋さんのラーメンに投票する」
予想通りの答えだった。
このラーメンは、万人受けする味じゃない。
特に、濃い味に慣れていない年配の人には、正直きついだろう。
残るは一人。
記者の谷口さんだけだ。
視線が集まる中、彼は一拍置いてから口を開いた。
「スープの完成度は、正直すごい。
こんな世界があるのかと驚いたよ。
今まで飲んだ中でも、最高クラスだと思う。
これは、間違いなく行列ができる」
一瞬、胸が緩みかけた。
だが、彼はそこで言葉を切った。
「ただ……」
そう前置きして、俺の顔をしっかりと見据える。
「キミは、このラーメンに、どんな物語をつけるんだい?」
来たか、と思った。
雑誌の記者なら、必ず聞いてくる質問だ。
この時代、そしてこれから始まる無化調、オーガニック、素材主義のラーメンブーム。
行列のできるラーメンには、必ず物語が用意される。
比内地鶏、鮎の煮干し、有機野菜。
誰それの弟子。修行何年。
メディアは、ラーメンの魅力を素材と肩書きで語ろうとする。
客はそれを信じて、
「鮎の香りが……」
「有機野菜だから優しい味ね」
そんなことを言いながら、満足して帰っていく。
とある男が言った。
「奴らはラーメンを食ってるんじゃない。情報を食ってるんだ」
俺は、そういう世界が嫌いだった。
客単価を上げるためだけの安っぽいストーリー。
味を語れず、素材名だけを並べるメディア。
それを疑いもせず受け入れる客。
昭和末期から平成にかけて、ラーメンは確実に堕落していた。
無化調?
健康志向?
国産食材?
そんなものは、どうでもいい。
大事なのは、味だ。
俺は一度、息を整えてから答えた。
「僕のラーメンに、ストーリーは要りません。
味だけで、勝負します」
谷口さんは、一瞬だけ驚いたような顔をした。
そして、意外なことに、ふっと微笑んだ。
「ふふ……それも、いいかもしれないね。
じゃあ僕は、敦史くんのラーメンに一票」
「ありがとうございます」
「親父さんのレシピも好きなんだけどね。
正直、今の若い子には刺さりにくいだろう」
そう言って、母の方へさりげなく視線を送る。
「じゃあ、次の取材があるから、僕はここで失礼するよ。
……あと、敦史くん」
「はい」
「次に会うときは、完成形を食べさせてくれ。
今回は、スープに合う麺が用意できてなかったんだろう?」
やはり、見抜かれていたか。
確かに、彼は麺のことを一言も褒めていなかった。
遥香ちゃんも立ち上がる。
「私も、そろそろ帰ろうかな。
あ、これからよろしくね」
俺が間の抜けた顔をしているのに気づいたのか、くすっと笑う。
「あれ、まだ聞いてない?
じゃあ、サプライズってことで」
そう言って、店を出ていった。
気づけば、荒物屋とプー太郎の姿も消えている。
残ったのは、俺と母の二人だけだった。
母は、黙って丼を片付けながら言った。
「負けたよ。
これからは、あんたのラーメンでいこう」
負けた直後とは思えない、清々しい顔だった。
彼女にとっては、きっと濃すぎる味だったはずだ。
それでも必死に、味を分析してくれていた。
「母さんのラーメンも、美味かったよ」
俺だって、親父の味を守りたい。
「そういえばさ、今さらだけど……
この店、名前ないよね?」
看板には「ラーメン」としか書いていない。
近所では「火神さんちのラーメン」で通っていた。
「特に決めてなかったんだよ。
父ちゃんにも言ったんだけどね」
昔は中華料理屋で、「火神」という名前だったらしい。
この辺りでラーメンと言えば、うちだけだったから困らなかったのだろう。
「じゃあ、俺が付けていい?」
「なんて名前にするんだい?」
「令和。
ラーメン令和」
「変な名前だねぇ。
まぁ、あんたの店だし、好きにしな」
俺がなぜ、この時代に戻ってきたのかは分からない。
だが、前回と同じ未来を辿るつもりはない。
社内結婚した妻とも、生意気な娘たちとも、きっと会えない。
それでもいい。
俺は未来を捨てる。
この街のラーメンを、文化にまで昇華させるために。
屋号に「令和」を使えば、平成の次の元号が令和になることはない。
既に使われている言葉は、年号の候補にならないからだ。
片付けを終え、俺は少しだけ商店街を歩いた。
この街はいずれ消える。
十年後には、ここにJR東西線の北新地駅ができる。
金物屋も、荒物屋も、八百屋も、そして親父のラーメン屋も、
無機質なビルに変わっていく。
気づけば、あの日、俺が車に轢かれたあたりまで来ていた。
道の端に、小さなお地蔵さんがある。
誰かが手入れしているのか、磨かれ、野花が添えられている。
俺は静かに手を合わせた。
悔いなく、生きていけますようにと。




