第38話 令和最新版
研究員が部屋を出て十分ほどして連絡が入り、俺たちはもう少し待つことになった。
どうやら、化学会社の既製品にはない配合を頼んだせいで、原料の手配に少し時間がかかっているようだ。
「敦史くん、この前の日露食品さんとの話、断って良かったの?」
「結果としては、良かったと思うよ」
実のところ、最初から業界四番手の前橋食品に声をかけたわけじゃない。
販売量が多いメーカーの方が、当然研究に投資できるし、販売網も強い。
だから最初に地元の日露食品に声をかけた。反応自体は悪くなかった。
「興味は持ってくれたんだけど、あっちは『共同開発』って空気じゃなかったんだよね」
向こうは大手の食品会社で、俺たちはラーメン店だ。
どうしても立場が違う。餅は餅屋、というやつだ。カップ麺は自分たちが一番詳しい――そういう自負があるはずだ。
一応こちらの希望は聞いてくれたけど、やってくれたのは既存品のトッピングを入れ替える程度で、踏み込みは浅かった。
事前打ち合わせを数回やったところで、俺は途中で話を切ることにした。
彼らと組んでも、いいものは作れないと思ったからだ。
遥香ちゃんが少し不満そうなのも、当然だ。
彼女には日露食品との交渉を頼んでいた。
わりと合意が固まっていたのに、俺の鶴の一声で話を破談にしてもらったからな。
「そうかな? かなりいろいろ要望も聞いてくれたけどね。契約金だって高かったし」
「まあ、それはそうなんだけどね」
日露食品は有名店とのコラボという新しい考えに興味津々だった。
非常に丁寧に接してくれたし、破格の契約金も提示された。
金額は魅力だった。だけど――前橋食品は、俺の技術そのものに興味を示してくれた。
「前橋食品は、あっちとは開発に向き合う熱の入れ方が違ったからね」
前橋食品は熱心だった。
この時代、カップ麺じゃ前例が薄いフリーズドライの具材も試してくれた。
液体ダレを二袋に分ける、当時としては珍しいやり方にも賛同してくれた。
カップ麺の肝とも言えるノンフライ麺の改良にまで、意見を出させてくれた。
「やっぱ、彼らは熱意が違うね。同じ研究者として扱ってくれる」
ただ、ビジネスとして利用されているのは百も承知だ。
関西の販売網の弱さを補うためにウチが利用されてるのは分かっている。
俺たちだって、彼らの流通網を販促に利用している。
俺の言葉に、遥香ちゃんは足をぶらぶらさせていた。
足をぶらぶらさせるのは、納得していない時の彼女の癖だ。
「敦史くんがここまでカップ麺に入れ込むとは予想外だったなぁ」
実際、そこは遥香ちゃんと揉めたところでもある。
カップ麺開発では、彼女と意見が対立していた。
特に『経営資源の無駄遣いだ』って観点で、苦言をもらっていた。
まあ、ここ数ヶ月、俺が店舗の研究を放って、化学調味料の配合ばかり研究していたのが主な原因だ。
実店舗には、あまり役に立たない研究だ。
「ロイヤリティが3%かぁ、売れると良いね」
「前金をもらうより、絶対にこの契約の方がいいから。後悔はさせないよ」
彼女が渋るのも分かる。この契約のロイヤリティは、三%の予定だ。
カップ麺というのは年間五十万食売れればヒット商品と言われていた。
うまくいっても、ロイヤリティはたかが三百万円だ。彼女には、俺が経営リソースを無駄遣いしているように見えただろう。
日露食品は契約金として、その倍を提示してくれた。常識で考えたら、俺の決断は愚かに見える。
俺たちのピリついた沈黙を破るように、ドアがノックされた。
先ほどの研究員がやって来た。
「イノシン酸だけを増やした試作品を持ってきました。お待たせしてすみません」
「ありがとうございます。すみません、無理を言って」
俺と遥香ちゃんは給湯ポットでお湯を注いだ。
湯気が立つまでの三分間、誰も喋らなかった。
研究員は俺の顔をじっと見ていた。
研究員が俺を見ているのは、実質的な最終判断権が俺にあるからだ。
俺は契約書にある権利を使って、この共同開発を一ヶ月ストップさせていた。
本来は今日の試食会は、ほとんど儀式みたいなものになるはずだった。
事前にやりとりして、最終レビューの結果を反映してもらったものだったからだ。
ただ、前回の改良で風味のアンバランスが目立ってしまった。いわゆるデグレードだ。
無理を言って更に改良してもらっている。
スープを一口飲む。
「うん、鶏感がいい感じですね」
粉末処理で損なわれた鶏脂のノリや複雑な清涼感が、戻ったように感じさせる。
化学調味料のわざとらしい旨さじゃない、ブロイラーをじっくり煮たような風味になっている。
もちろん、それはメインじゃない。
豚骨風のベースと、醤油のパンチ。それがきちんと出せてこそ、活きる特徴だ。
「これは、味がちゃんと層構造になっていて、かなり本格的ですね」
我ながらすごいスープができたかもしれない。
もちろん店のものとは全然違う。
だけど、これはこれでアリだと思う。
「麺も生タイプ麺に負けていない。むしろ勝っている気がする」
まだ技術的に成熟していないノンフライ麺だから、どうしても匂いが小麦っぽい。
慣れてない消費者はきっと違和感を覚えるだろう。
そこで、店と同じように全粒粉を配合した。
ほんの少しだけナッツのような匂いが混じる。
パッケージには『全粒粉の香り』と大きく打ち出して、欠点に見える小麦の匂いまで、セールスポイントにしている。
違和感を、消費者に長所だと受け取らせるわけだ。
そして、麺を食べ終わる。スープをもう一口、飲む。
「よし、これでいきましょう」
「本当ですか!?」
俺の言葉に研究員は慌てて部屋を出ていった。
このあと役員を含めた試食会が行われて、量産にゴーサインが出る段取りだ。
だから彼らを呼びに行ったんだろう。そのあと契約書に調印する。
というか、そのためにわざわざ俺が東京まで来た。
しばらくして、役員が入って来た。
ひと通り味を確かめた彼らが頷き、空気が決まった。
儀式みたいな試食会が始まる。
そして契約の調印は無事に終わり、商品は二ヶ月後に発売されることになった。
ホテルへの帰り道、俺は小さく呟いた。
「目指せ、年間一億食――って感じだな」
俺の言葉を遥香ちゃんは冗談だと思ったらしい。
彼女は小さく笑いながら言った。
「きっと、うまくいくよ。美味しかったもん」
年間五十万食売れたら『ヒット』と呼ばれる時代だ。
一億食なんて冗談にしか聞こえないだろう。
だが、俺は知っている。
二年後には黒船がやってくる。
特殊な酸処理をされた麺――生タイプ麺のブームだ。
もうすでに各社から何種類か発売されて、ヒットもしていた。だが、そんなものは前座にすぎない。
きっと、時期的には日露食品の研究室で完成しつつある。
――『ラ皇』。ラーメンの皇帝という傲慢な名前をつけられた商品は歴史を塗り替える。
年間で『二億食』売れる化け物がやってくる。
五十万食が売れればヒットと見なされる時代に、二億食の売上を叩き出す。
市場そのものが変わる。
だが俺には、『化け物』に負けない衝撃を消費者に与える自信があった。
俺は遥香ちゃんへ小さく微笑んだ。
「後悔はさせないよ。これからはカップ麺の時代なんだから」




