第36話 伝説の店
駅から歩いて数分、環七沿いにその店はあった。去年あたりからテレビで何度も取り上げられている、超人気店だ。ディナータイムを少し外したつもりだったが、店の前にはすでに行列ができていた。
『どんでんかんでん』。
テレビで引っ張りだこの名物社長、岡田さんが開いたとんこつラーメンの店だ。
遥香ちゃんは、この店には来たことがないらしい。
彼女が東京にいた頃、――港区の三田にある私立大学に通ってた頃、店自体は開いていたが、まだ全然メジャーじゃなかった。
だから、来たことがなくても当然だと思う。
「路駐がすごいね。路駐が多い幹線道路沿いとはいえ、これはさすがにひどいかも」
「取締りもされてないし、北新地じゃあり得ないね」
行列には百人ほど並んでいる。
ブームのピーク時には、最大で千人も並んだらしい。
路駐の車も、数十台はありそうだ。
千人の行列が作る路駐なんて、地元住民にとって地獄でしかないだろうな。
だけど、行列は思ったより制御されている。
コーンやロープで誘導してないのに、列は自然に整っている。歩道も塞がないし、騒ぐ客も少ない。
これは、東京の人が行列に慣れているのもあるのかもしれない。
大阪の北新地の俺の店だと、毎晩、酔っ払いがドッタンバッタン大騒ぎだ。
民度が違う。
常にバイトを一人つけて管理しても、あれだからな。正直うらやましい。
俺は、店を出入りする客を見ながら、軽く計算した。
「回転は早い方だけど、1時間半は待ちそうだね」
「私もそう思う。出入りする客を見てる限り、1回転は平均20分ってところだもんね」
ラーメン屋をやってると、行列を見て、何分くらいかかるかをある程度計算できるようになる。
そのとき、風向きが変わったのか、獣臭い匂いが漂ってきた。
「というか、酷い匂いだなぁ。ここ、一応住宅地なんだけど……」
「本格的なとんこつの匂いね。これ、苦情来ないのかしら」
「来てるだろうね……」
「私は嗅ぎ慣れてるけど、一般の人にはきついかもしれないね」
ウチの会社のスープ工場は、かなり臭いからな。
排煙は一応頑張ってるが、それでも二階にいると匂ってくる。
この店はウチの工場の数倍の臭いがある。
よく近隣住民の暴動が起きないな。
周囲を見渡す。
大通り沿いには店が並ぶが、一本路地に入ると住宅が広がっている。
この時代、環七は『ラーメンの聖地』として名を馳せた。
ラーメン屋が集まったのには理由がある。
バブルの影響だ。
ここは都心へのアクセスが悪い。
だから比較的、テナント賃料が安かった。
資金力のない個人店の店主にとって、最高の場所だった。
ラーメンブームのきっかけとなった店たちは、賃料が原因でここに集まったんだな。
行列に並んでいると、テレビでよく見る社長が出てきた。なぜか手品まで披露して、客を楽しませている。
後年の噂で聞いたことはあるけど、本当にやってんだな。
サービス精神に溢れた社長だ。
行列が店に近づくにつれて、強烈な悪臭が漂ってくる。これは、豚骨の『いい匂い』とは種類が違う。豚骨を煮るとき、初期に発生する揮発臭だな。
ここのスープは何日もかけて仕込んでいるらしい。
きっと、翌営業日以降のスープの仕込みをしているんだろう。
「あ、敦史くん。席が空いたから、そろそろ呼ばれると思うよ」
1時間ちょっと並んで、席に通された。
ラーメンはすぐに出てきた。
オペレーションは、かなりいいようだ。
白をベースにしつつ、少し赤茶色がかっている。
これは東京の人には衝撃的だろうな。
まず匂いがすごい。
至近距離からくる匂いは、かなり強烈だ。
だけど、これはこれで本場を感じる。
一口啜ってみる。
豚骨の圧倒的な旨み。そこに血の味と雑味が乗ってくる。
個性的なラーメンだなぁ、と思う。
実を言うと、俺はあまり美味しいとは思わなかった。
金属っぽい味が、俺の好みには合わない。
遥香ちゃんは大喜びだ。まあ、その顔が見れただけでも良しとしよう。
「待った甲斐あったね! 美味しい!」
「うん、すごく美味しいね。東京まで来た甲斐があったよ」
今日はこの一店舗だけだ。
あんまり一日に何店舗も回っても苦行だしな。
昼と夜に一店舗ずつ回る二泊三日の小旅行――もちろん、他の商談が本題で、ラーメン食べ歩きはそのついでだけど。
近くの公園のベンチに、二人で座る。
遥香ちゃんが聞いてきた。
「ねぇねぇ、あの豚骨ラーメン、すごい匂いだったし、なんか茶色かったね」
「そうだね。東京は基本、白いスープが多いから目新しいと思うよ」
俺の言葉に、遥香ちゃんは頷いた。
「敦史くん、前に豚骨を煮込みすぎると赤茶色になって失敗作になるって言ってたよね。出てきた瞬間、ちょっと身構えたけど、美味しかったよ」
うーん、その話かぁ。
九州の人相手だと宗教戦争になる話だけど、遥香ちゃん相手ならしてもいいか。
「『あれ』は骨髄の色なんだ。家系だと基本、あの色を出すのは禁忌扱いなんだよ」
2000年代以降、とんこつからは様々なラーメンが派生した。
味噌豚骨、醤油豚骨――豚骨はあらゆるラーメンのベースに使われるようになった。
もちろん、その先駆者たる家系も含む。
それらにとって、豚骨というのは材料の一つに過ぎない。
これらのラーメンの思想では、豚骨に『うまみ』しか求めていないのだ。
「とんこつから派生したラーメンにとって、豚骨から出る血の味はいらないんだ」
豚骨というのは素直な素材なのだ。
イメージに反して、豚骨はあっさりしていて、クドくない。
誕生当時の福岡では、軽食として食べられていた。
関東の人の中には、『豚骨は旨味は出るけど、味が出ない』とまで言う人もいる。
だが、豚骨は四日ほど煮込み続けると、その素直な性質を一変させる。
骨髄の中から赤い粉が出て、スープを赤く染める。
そうすると『味が出る』。血の味が出るんだ。
ワイルドな味になって、旨味も圧倒的になる。
それを狙って出してるのが、赤茶系と呼ばれる豚骨ラーメンだ。
令和では絶滅危惧種に近い。
そして、この当時の『どんでんかんでん』は、その赤茶系のラーメンだ。
ちなみに令和のそれはセントラルキッチンだから、ここまでの個性はない。
味の濃い文化である東京で豚骨をどう活かすか。その答えの一つが赤茶系なのだ。
豚骨から派生したラーメンは、豚骨の良さだけを利用し、不得意なところは他の材料で補った。
強い味が求められるにつれ、豚骨ラーメンはどんどん進化した。
九州の豚骨ラーメンは、別のやり方で味を強くしている。ラードを入れてみたり、辛くしてみたり、高菜で味変してみたり。
赤茶系はその一つだ。
『豚骨だけでスープを完結させる』その信念を強く感じる。実際に赤茶系を好む人は多い。だけど、東京で新規開店するのは無理だろうなぁ。
「このスープは味のブレが激しいんだよなぁ」
『どんでんかんでん』も多店舗展開を試みたが、スープのブレが激しくてうまくいかなかった。
豚骨というのは個体差が大きい。
「それに、あまりにも臭う」
これが、赤茶系が激減した一番の理由だ。
興奮気味の遥香ちゃんの感想。それを聞きながら感慨に耽るのであった。




