第35話 東京を見に行こう
平成二年の春。
南港近くに新しく建てた自宅――新築特有の木の香りが残るリビングで、株主を集めて、今後の方針を決める会議を開いていた。
といっても、ウチは同族企業だ。俺と母、それに、なぜか同居している遥香ちゃんの三人だけ。
遥香ちゃんは新居に居着いてしまい、毎朝当然みたいに朝ごはんを作ってくれる。
俺は何も言えないままだ。
全員ほぼ身内なのに、意見だけは見事に割れている。
母はまず、トラックドライバー向けのサービス強化を言い出した。
「店の前の空き地も買い取って、駐車場にしたいんだけど」
母は、トラックドライバーが休憩場所に困っているのを気にしていた。
この時期、製造業の『ジャストインタイム』が一気に広がり、納品時間を企業側の都合に合わせる流れが強まっていた。
その皺寄せは、トラックドライバーに全部のしかかっている。
彼らは路駐するしかなく、ろくに休息もできなかった。
母は店の客じゃなくても、コンビニで昼食を買って休憩できる場所を作りたがってた。
その志は素晴らしいんだが、駐車場を作るにも土地が高いんだよなぁ。
「まずはコンビニも順調だし、様子を見てみない?」
実際、中華料理店の近くにコンビニを新設してある。
中華料理店がディナー営業を始めたこともあって、そこはトラックドライバーの休憩所みたいになっている。
母は喜んでいたが、いずれは駐車場をもっと増やさないと納得しないだろうなぁ。
遥香ちゃんは……
「大和銀行の担当者、ウチの財政を高く評価してくれて、三億も融資してくれるんだって」
借金をしてでも事業を拡大するべきだ――それが遥香ちゃんの主張だ。
これは一つの角度から見れば、確かに正しい。
銀行から大規模に金を借りるのは、たぶん今が最後のチャンスだろう。
銀行は大蔵省銀行局の通達を受けて、融資先に困っていた。
『土地関連融資の抑制について』。
地味なタイトルの行政文書だが、金融史をかじった人なら誰でも知っている。
バブル崩壊――失われた二十年の始まりを告げる合図。
不動産向け融資の総量規制に関する布告だ。
この文書は本来、大阪圏の異常な地価上昇を警告するためのものだった。
それがあまりに効きすぎて、全国の都市部の地価を七割も下げることになる。
地方都市にまで効く通達が日本経済を崩壊させるなんて、不謹慎だけどちょっと面白い。
とにかくこの時期、銀行は不動産に回すつもりだった資金の使い道に困っていたわけだ。
……ただ、そのうち不良債権だらけになって、それどころじゃなくなるんだけど。
「ミナミの方にも店舗出したい! 商圏が違うから、需要を食い合わないし」
遥香ちゃんは『ガンガン行こうぜ』って感じだ。
ミナミは大阪の繁華街の一つで、外の人が『大阪の繁華街』を想像すると、たいていミナミみたいな景色になる。
それに対して俺は、少し慎重派だった。
俺は遥香ちゃんが持ってきた不動産屋のチラシを眺めた。
「十二坪で年六百万円は、ちょっと高すぎない?」
このテナントは心斎橋駅から徒歩十分ほど。立地はかなり良い。……でも高すぎる。
伊丹空港近くの店が六百坪で年五百万円。それと比べたら、賃料がヤバい。
カウンターを詰め込んでも十八席が限界だろう。
賃料は基本、売上の五%程度に抑えたい。
つまり年間一億二千万円の売上――月一千万円が必要になる。
十八席で月一千万円を出すには、ざっくり二十回転が要る。
逆算すると、十時間営業で一時間あたり二回転。
それが最低ラインってのが恐ろしい。常に行列が必要だ。
俺はぽつりと呟いた。
「リスクの割に、リターンが低すぎるかなぁ」
行列は近隣トラブルを呼ぶ。列の管理も、かなり神経を使う。
数は出るかもしれないけど、利益は薄い気がする。名を売る意味では最高の立地なんだけどな。
しばらくは現金を溜め込もう。
店舗の売上は絶好調で、内部留保はどんどん積み上がっている。
バイトも社員も一気に増やしたせいで、組織はまだ混乱している。
俺は遥香ちゃんに声をかけた。
「そのうち地価が急に安くなる。その時に一気に出店しようよ」
今は人を育てている段階だ。
この前採用した美山くんをはじめ、店長候補をどんどん増やしている。
もう少し、時間が欲しかった。
遥香ちゃんは少し不満げだった。『金は借りられる時に借りる』『どんどん店舗を増やす』、そんな主義だ。
可愛らしい見た目に反して、経営方針はかなり攻撃的だ。
俺がこの時点で新規出店に消極的なのは、高すぎる地価だけが理由じゃない。
俺には、今のうちにやっておきたいことがあった。
新規店舗を出したら手が回らなくなること――今だからできることだ。
彼女の不満を宥めるように、俺は一つ提案した。
「遥香ちゃん。一緒に全国のラーメンを視察してみない?」
突然の提案に、遥香ちゃんはぱちぱちと瞬いた。
他地方のラーメン調査――特に関東を、やらなくちゃならない。
実は俺は、もう大阪だけを見ていなかった。
これから戦うのは――全国だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
視察の準備には一ヶ月近くかかった。俺と遥香ちゃんは業務の要だ。どちらもマニュアル化できない、高度な仕事をしている。
……まあ、非常時の体制を整えたと思えば、有意義な作業だっただろう。
俺と遥香ちゃんは新幹線で東京駅に降り立った。
遥香ちゃんは、よそ行きの可愛らしいコートを着ている。
俺は声をかけた。
「ビジネスホテル、取ってくれたんだね。もっといいホテルでもよかったのに」
「利益が出てるとはいえ、節約しなきゃ」
ウチの副社長はかなりの倹約家だ。
俺が原価を上げようとするたび、だいたい却下してくる。
ホテルに着いて、荷物を置いた。
部屋はなぜかツインルームの同室だったが――もう俺は驚かない。
さて、まずは見に行こうか。時代の最前線。
この東京で最も熱い場所――『環七ラーメン戦争』を。




