第33話 冷えたスープ
俺は冷蔵庫を開けた。キッチンの規模の割に、やけに大きい冷蔵庫だ。
上の棚には原料、下の棚には段ボールがぎっしり詰まっている。
下の棚にあるのは、BIBと呼ばれる液体輸送用の箱だ。
段ボールの中には、使い捨ての内袋が入っている。
外箱は再利用するが、内袋はすべて捨てる。
美山くんは興味津々だ。
きっとラーメン屋の奥を見たことがないから、分からないんだろう。この冷蔵庫の異常さが。
ただ、俺から見ればこの中身は、普通のラーメン屋のそれじゃない。
「この段ボールは何ですか?」
「これが工場で作ったベースのスープだよ」
俺の言葉に、美山くんは目を見開いた。
美山くんの中では、スープは店で炊くもの――そう思ってたんだろう。
「工場でスープを作ってるって噂、本当だったんですか?」
俺は小さく頷いた。
美山くんは衝撃で、言葉を失ったようだった。
俺は冷気が逃げないうちに必要な箱を引っ張り出し、扉を閉めた。
仕込みは指示表どおりに進める。
指示表は本社――正確には遥香ちゃんが需要予測して、各店舗へ事前に送ってくる。
俺は冷蔵庫脇のラックから、60Lの寸胴を二つ引き出した。
「今回仕込むのは寸胴二個分。だいたい240人前だ」
さすが席数が多いだけある。一度の仕込みも大量だ。流行ってる。
仕込み量は、急に客が増えることもあるから、店長に増減の権限がある。
仕込みを増やしすぎてベーススープが足りなくなったら、急行便を呼び出す仕組みだ。今のところ呼び出しはほぼない。店舗に在庫を多めに置いてるからな。
段ボールに注ぎ口を付け、寸胴にスープを流し込んでいく。ちなみにこの作業は、見られると客が興醒めするので、目隠しされた仕込みスペースでやる。
この段ボールには20リットルのスープが入ってる。
「段ボール持ち上げるの、重いなぁ。こりゃ女の子じゃ無理だ」
別に男女差別じゃない。
法律上、女の子に20kg以上の荷物は持たせられない。
この法律、令和でも有効だったりする。
だから昼でも、キッチンには最低一人は男手を入れてる。持ち上げ作業があるからな。
段ボールを四つ使って、寸胴を二つ用意した。
俺は空箱を指さして美山くんに処理を頼もうとしたが――まだ固まってる。
仕方なく、BIBの内袋をゴミ箱に捨て、段ボールを畳む作業をした。
この内袋は一枚あたり20Lで、100円ほどする。
内袋の中の20L――つまり60人前ぶんのスープ原価は、5000円ほどしかしない。
輸送用の使い捨て容器としては、けっこう高い。
一個100円でも、一日に最低20個は使う。積み上げれば馬鹿にならない額だ。
だけど洗浄の手間や人件費を考えたら、これが一番なんだよなぁ。
液体の輸送コストは、やっぱり高い。
コスト重視の大企業が、合理的に見える濃縮冷凍を選んで失敗した理由は、このへんにある。
美山くんは黙ったまま、捨てられていく内袋を見つめていた。
作業がひと段落したころ、しばらく固まっていた美山くんがようやく口を開いた。
「あ、あの……さっき食べたラーメンって、本当に一度冷蔵されてたんですか? 冷蔵されてたにしては、香りが立ってました」
この時代、ラーメン屋にとってスープを冷やすのは禁忌に近い。
香りが極端に落ちてしまうからだ。
「そのへんのコツも教えるよ。アルバイトにも教えてる秘密だしね」
俺は空いてるコンロに寸胴を二つ置き、『後入れ用』の固形成分を入れて温め始めた。
固形成分っていっても、急速冷蔵中に固まった脂を持ってきてるだけだ。
ここから先は火口の数がモノを言う。
うちはコンロが六つもある。普通のラーメン屋は二つだから、かなり多い。
席数が多いから、一気に出る量も凄い。
深夜のピーク時に寸胴が並ぶ光景は、壮観だ。
中火で沸騰し始めるまで待つ。美山くんはその間、ずっと鍋の中身を見ていた。
「じゃあ、ここからは強火にするね」
俺はコンロの火力を最大にする。スープが一気に煮え立った。
そこにチルドしたブロイラーのガラを、少しずつ放り込んでいく。
冷えたガラを入れると、スープの温度が一気に落ちる。
温度が落ちると、動物性の嫌な匂いまで引き出してしまう。だから強火で温度を保つ。
ブロイラーのガラを入れ終えたら、火を弱めて温度を整えた。
そして、美山くんの方を振り向いた。
「というのがスープの作り方だよ。工場で骨格を作って、店では仕上げだけ――ってわけ」
「なるほど、あの匂いはブロイラーが主体……でも、それだけじゃない。たぶん鶏油か何かに混ざった香味油で、少しだけ匂いを足してますよね」
あれ、予想と違う反応だ。
工場スープの是非が出ると思ったのに、この子はもう香りの設計を考えてる。
「うん、そのとおり。ブロイラーの揮発臭だけだと単純だから、香味油で少し足してる」
彼の目は寸胴に釘付けだ。
この子は、単純に独立して店を出したいだけじゃないのかもしれない。
『お客さんに美味しいラーメンを提供したい』って志望動機、案外ほんとなのかもしれない。
少し考え込んだ美山くんが、決意したようにこっちを向いた。
「僕、やっぱり火神さんに弟子入りしたいです。このラーメンはもっと伸びる……そんな気がします」
「この店じゃ、スープ作りは学べないけどいいのかい?」
「スープだけがラーメンじゃありませんから」
ふーん、やっぱり。この子、いいな。
ウチの従業員は働き者だが、ラーメンそのものに強い熱意があるわけじゃない。
現場から意見を募っても、味の話だけが上がってこないのが気になっていた。
だからこそ、こういう奴が一人いるだけで空気が変わる。
こいつなら、化学反応を起こせるかもしれない。
「じゃあ、アルバイトで一ヶ月働いてみて。問題なければ社員にする」
「社員……ですか?」
「ウチは弟子は取らない。月給は25万で、残業代も出る。細かい条件は副社長が決めてるから、遥香ちゃんに聞いてね」
「25万!? そんなに高くていいんですか?」
「ただし、君は入った瞬間から幹部候補だ。心して働いてね」
「はい!」
その日、頼りになる仲間が一人増えた。
俺のオペレーションに、従業員の情熱は要らない。
でも、ラーメン屋というのは進化し続けなければいけない宿命を持っている。そこに情熱は必ず必要だ。
彼ならウチのラーメンを、さらに高みに引き上げてくれる気がした。




