第32話 オペレーション・麺
この店のキッチンは思った以上に狭い。
四人もいると、腕も広げられないくらいだ。
客が少ないとはいえ、副店長を追い出すわけにもいかない。俺は少し困った。
俺が立ち位置に迷っていると、気を利かせた遥香ちゃんがキッチンの外に出た。
「私、コンビニの方を視察してくるね」
「ん、ありがとう!」
遥香ちゃんは、そのままウチのコンビニへ歩いていった。
コンビニも売上はいいが、細かい問題も多い。
売れ筋に偏りがあって、本部と詰めないといけないことも多い。
ちなみに一番売れてるのは耳栓だ。……なんでだろうな。
俺は、隅で居心地悪そうに立ってる副店長に声をかけた。
彼も北新地店から連れてきて、今は正社員だ。
「あ、井出副店長。次のスープっていつ仕込みます?」
「マニュアル通りなら、三十分後からですね」
「了解。新人教育も兼ねたいから、その作業は僕がやりますね」
三十分か。じゃあその間に、別の作業も見せるか。
そこへ、ホールからオーダーが入った。
ちょうど良い。ラーメンを提供するまでの流れを見せよう。
「6番さん、チャーシュー麺の硬め濃いめ多めです」
「あいよー」
なるほど、麺硬め・味濃いめ・油多め。これは最強のカスタムだ。通称、『早死に三段活用』。
この客は分かってるな。
受け取った食券をクリップに挟む。これで情報を管理する。
副店長が動き出しかけたのを目で止めて、俺は提供するまでの作業を始めた。
美山くんは必死に目で追っている。
「まずは丼を温める」
繁忙時はまとめて温めてあるが、この時間は一杯ずつだ。
専用の熱湯があるので、それを使う。
トレーの上にレンゲと受け皿と丼を用意する。
「次はカエシを入れる」
標準は25mlの計量レードル一杯分だ。レードルっていうのは、要は計量用の小さな柄杓だな。
今回は濃いめなので30mlのレードルを使う。
薄め用もある。けど「薄め」はまず出ないから、ほとんど使わない。
目分量に頼らない。マニュアル化の要だ。
「そして、麺を茹で始める。同時にスープを用意する」
ここが見せ場だ。硬めだから四十五秒のタイマーで茹でる。
テボと言われる深いザルに麺を入れる。
このザルの中で麺が固まることがある。だから箸で時々ほぐす。
その間にスープを丼に入れる。実はここが難しい。
ラーメンのスープというのは混ざりきっていないほうが美味しいのだ。
食べた時に口の中で味の層を作るため、わざと完全には乳化させていない。表面には油分も浮く。
寸胴の中で軽く混ぜてから掬うが、その性質上、均一にはならない。
「最後の段階、ラーメンの味はこのスープの掬い方で決まるんだよ」
ラーメンを提供する時、やはり目立つのは派手な湯切りだろう。
多くの若者はカッコ良い湯切りのシーンに憧れてラーメン作りをしたいと思っているに違いない。
だが、そんなものより遥かに大事なのは、寸胴からのスープの掬い方だ。
表面の油を入れすぎてもいけないし、底の沈澱した部分を入れてもいけない。
簡単そうに見えて、一番難しいところなのだ。
丼の上に網を置き、スープを軽く漉しながら入れる。
そして、鶏油を浮かせる。油多めなのでレードル二杯分。
そこに麺を投入し、少しだけ麺線を整える。
そしてチャーシューを乗せる。麺を茹でている間に温めている。
チャーシューが冷たいラーメンなんてこの世にあってはいけないからな。
そして、6番のカウンターの前まで運び、ラーメンを置く。
「ごゆっくりどーぞ!」
俺の言葉を店員全員が復唱する。
正直、ごゆっくりしてほしいとは一ミリも思ってないが、この挨拶と共にラーメンを出すマニュアルにしている。
ここまで注文を受けてから三分ほど。
今日は暇なので、提供も速い。
黙って見ていた美山くんが、感心したように感想を言ってきた。
「凄いスピードですね……目で追うだけで精一杯でした」
「今のでも実は実習用にかなりゆっくりしたんだよ」
美山くんは感心したように頷いた。
そして注文が途切れ、少し暇になったタイミングで美山くんが質問してきた。
「ちなみに火神さんは平ザル使わないんですか?」
「あぁ、その話ね」
ラーメン屋が湯切りに使うザルには二つの種類がある。
平ザルか、テボと呼ばれる深いザルか。ラーメン屋はこれら二つのどちらかを使っている。
「知ってると思うけど、これが平ザルね」
ウチでは基本的には使わないけど、一応常備しているので、それを見せる。
平ザルは二十センチくらい。その名の通り、平たいザルだ。
一方テボは、一人分の麺を個別に入れられる。
「じゃあ、平ザルの実演してみようかな」
店内を見渡して、しばらく注文が来なさそうなことを確認した。
まず鍋に直接麺を入れる。自然と水流によって麺が泳ぎはじめる。これによって麺にムラがなく火が入る。
麺を掬うように取り出す。平ザルは断面積が広い分、湯切りもきれいに決まる。
「おぉ、火神さん。凄い腕前ですね。難しいんですよね。平ザルって」
そう、平ザルは扱うのが難しい。
形にするだけでも数ヶ月単位の練習が必要になる。
実際、一部のマニアの間では『平ザルを使う店主は玄人』という風潮がある。
そして、それは間違っていない。
だが、その逆――『テボを使う店主は素人』という風潮は、明確に間違いだ。
ここまで聞くと、テボには『簡単』という以外に存在意義がないように思える。
だが、平ザルには致命的な弱点もあるのだ。
「一人用の麺を作るだけなら、平ザルは最強なんだよね。一人用の麺だけなら」
理想と実務は違う。店にはだいたいグループで来る。
一斉にオーダーされるので茹で始めも同じタイミングで行う。
例えば、六人のグループが来たとする。茹で上がったら、麺を掬って湯切りする。
最初に湯切りした麺と、六人目に湯切りした麺。茹で時間はどれくらい違うだろうか。
どんなに手際よくても、一分はズレるんだよなぁ。
「最初に掬った麺は硬めで、最後の麺は超柔らかめなんてことになるわけで……」
実際、そういう店は多い。残念だけど。
平ザルにプライドを持っている店は多い。
だけど、俺は味を犠牲にしてまでこだわるべきではないと思っている。
「それは、かなり良くないですね」
「テボなら四つを同時に湯から引き上げて、湯切りできるわけだ」
平ザルは至高の一品としてラーメンを作る上で最強の道具だ。
それは間違いない。だけど、ラーメンはミシュランレストランで出している料理ではなく、大衆料理だ。
実際には、ある程度まとめて作らないと回らない。
「ま、ラーメン雑誌には色々書かれてるけどウチの店はテボ一択なんだよね」
美山くんはメモを取りながら「なるほど……。」と頷いている。
この辺りは一度ラーメン屋で働けばすぐ分かるが、食べるだけだと分かりにくい。
ちなみに平ザルを俺が使えるのは、ただの見栄だ。これ振ってる姿カッコいいんだよなぁ。
この前、遥香ちゃんにもすごく褒めてもらった。
そして大事なことだが、平ザルもロマンだけの道具ではない。
向き不向きがあるだけで、現代でも主力の場所もある。
「特に太い麺だと平ザル必須だね」
例えば、二郎系。
極太の低加水、ワシワシ麺を特徴とする二郎系は平ザル必須だ。
あんなバカみたいに太い麺は平ザルでないと火が通らない。
余談だが、二郎系には『ロット』という概念がある。
のんびり食べていると『ロット乱し』で『ギルティ』と某掲示板に晒されることがある。
ロットというのは同時に同じ鍋で麺を茹でるグループのことだ。
二郎では客は全員が強制的にグループ客として扱われているわけだな。
これは平ザルを使っているから生まれる概念なのだ。
同じ鍋で麺を泳がせているから食べるタイミングが極端に遅い人がいると、次のロットの麺を茹でるのに影響する。
他のラーメンの人気店で、「ロット乱し」、「ギルティ」なんて言葉を聞かないだろう。それはテボを採用しているおかげなのだ。
ちなみに二郎系は麺を七分ほど茹でるので、一分くらい茹で時間が前後してもそんなに変わらない。
「……ってわけさ」
二郎好きの俺は、ついウンチクを語っていた。
「なるほど参考になります」
反応は少し薄い。どうも二郎自体を知らないらしい。
この時代、二郎はかなりローカルな店だ。
その時、タイマーが鳴った。
この店のオペレーションでは、タイマーがスープ仕込みの合図になっている。
「おっ、スープの仕込みの時間だね。ウチの最大の秘密をキミに見せる番が来たようだよ」
さて、これを見ても働きたいと思ってくれるかな?
少しだけ不安になりながら、俺は奥にある巨大な冷蔵庫に足を向けた。




