第22話 バブリーウーマン
スープ仕込みを終えた昼下がりのオフィスで。
俺は遥香ちゃんが作ってくれた決算書を眺めていた。
平成元年の四月までの1年間の売上高は1億1000万、売上総利益は8000万。
売上総利益はいわゆる『利益』ではない。ここからさらに経費が引かれる。
「売上はいいんだけど、経費が問題なんだよなぁ」
人件費は4000万ちょっと。
1800万かけた初期設備を9年で償却しているので、今年の償却額は180万だ。
結論として、営業利益は910万になる。これが一般にいう『利益』だ。
1億売り上げても、利益は910万円しか出ないのだ。
「やっぱ、二店舗とも持ち物件なのが偉いね」
家賃を払えば、この利益は一瞬で吹き飛ぶ。
温かいお茶を飲みながら、俺は満足そうに損益計算書を眺める。
横から遥香ちゃんがジトっとした目で俺を見ている。
「薄利多売を目指すって言ってるけど、これだけ繁盛しているのに、さすがに利益が低すぎでしょ」
「……でも飲食店にしては利益率9%ってかなりいいと思うけど!」
大抵の飲食店は、利益率はよくて5〜10%程度だ。
飲食店は意外と儲からない業種だ。
「それは家賃の支払いがないからでしょ!」
あまり機嫌が良くない遥香ちゃん。
ちなみに彼女は地味だが、ウチの経営の要だ。
現場に張り付いている俺の代わりに、会社の業務をほとんど一人で回している。
機嫌を取るため、話題を変える。
「そういや銀行はどうだった? 貸してくれそう?」
「今はメインバンクの大和銀行と交渉してるんだけど、2億くらいは融資が引っ張れそう」
担保がある以上、それくらいは取れるだろう。
まぁ、バブルで評価額が上がっている北新地の土地を担保にしているからな。
大和銀行――親父の代から取引しているこの都市銀行は、大阪市内の土地が大好きだ。
特にキタやミナミの夜間経済に強い関心を持っている銀行だ。
東京にある都市銀行と違って、小さな地場企業にも寄り添ってくれる。
まぁ、別に審査が甘いわけではないんだが……。
「大和が2億出してくれるんだ。会社にしたばかりだしもうちょっと慎重な融資になるかと思ってたよ」
「まぁ、法人としては初取引だけど、敦史くんのお父さんの店の時代からしたら20年の取引実績があるからね」
本当に亡き父さんには助けられてばかりだな。
父の長年の努力によって、ウチの会社がどれだけ助けられているのか。
いつも実感する。
ウチの会社は未上場だが、決算書は綺麗だ。EBITDAと呼ばれる償却前利益も悪くない。
大和の堂島支店の担当者の感触はかなり良かったんだとか。
満足そうにしている俺に、機嫌を直した遥香ちゃんが別の資料を渡してきた。
「それでね! 取引したことない銀行なんだけど、4億も貸してくれる銀行も見つけたの! なんと都市銀行なんだよ!」
「デカした! 遥香ちゃん、4億あればかなり戦略を練れるね」
4億。どんな評価をすれば貸してくれるんだろうか。
もしかしたら、この企業の俺の知らない資産を見つけ出してくれたのかもしれない。
半◯直樹みたいな凄腕銀行員がいるんだろうか。
4億、喉から手が出るほど欲しい金額だ。
チェーンは一気に展開することが鍵だ。
単体の店の知名度では限られていても、相乗効果で広域的な知名度を築ける。
「北海道開拓銀行っていうんだけど、最近、関西での融資を強化してるのよ!」
「どうかな!」と目をキラキラさせている遥香ちゃん。
アカン……その銀行はアカン……。
俺はガックリと椅子の上で項垂れた。
北海道開拓銀行は札幌に本拠地を置く都市銀行だが、その中で最も小さい。
最近では、横浜銀行や千葉銀行といった大手地銀にすら融資額で負けそうになり、狂ったような拡大路線をとっている。
話を聞くと、遥香ちゃんに話を持ちかけたのは、かの悪名高き本店の第一営業部だ。
大阪支店があるにも関わらず、それを飛び越えて本店の営業部が融資を持ちかけてきたんだとか。
この営業部は、他の都市銀行からシェアを奪い取るために、無茶な融資案件を全国の大都市でばら撒いていた。
この4億という融資額は、バブルの土地評価額を考慮しても過剰だ。
頭から蒸気が出そうなほど興奮している遥香ちゃん。
こんな融資を引っ張ってこれるなんて大手柄だ。
――普通なら。
「ウチはさ……せっかく天下の大和銀行と取引があるんだから、それでいいんじゃない?」
「えー、メインバンク乗り換えようよー、すっごく条件がいいんだよ!」
遥香ちゃんはかなり不満げだ。
4億の資金があれば、スケールメリットで利益率を上げられると思う。
ウチは量が出るほど利益率が上がる構造になっている。
それでも、この甘い誘惑に乗るわけにはいかなかった。
俺は知っている。北海道開拓銀行は平成9年、今から8年後に都市銀行として史上初めて経営破綻する。
遥香ちゃんが持ってきてくれた資料を読む。
大阪の小さな土地と企業を対象にした融資資料だ。
だが、この数枚の書類を見るだけで、なぜこの銀行が破綻したのか一目でわかる。
通常の銀行は、土地を担保に融資する場合、評価額の7割程度までしか貸さない。
だが、この銀行は拡大路線のもと、評価額の最大130%もの融資を行っていた。
しかも、ウチの企業のEBITDAを過剰に評価している。
令和の時代、銀行は『金を貸さない』ことで非難されていた。
存在意義はあるのか、と職務放棄だと言われていた。
だが銀行員にとって、本当の職務放棄とされることがある。
それは『金を貸しすぎる』ことだ。
「こんな出鱈目なもんで、稟議が通るんかいな」
俺は書類を机の上に叩きつける。
目を丸くする遥香ちゃん。
「敦史くんが、突然関西弁おじさんになっちゃった!」
「あぁ、ごめん、ごめん」
つい、逆行前の癖が出てしまったようだ。
こんな書類で取締役会の稟議が通るんだろうか。
いや、通るんだろうな……。
特に大和からの『はがし案件』、つまりメインバンクを奪い取る動きでは……。
彼らの上層部はこれくらいの無茶はするに違いない。
俺は必死に見つめてくる遥香ちゃんから目を逸らした。
このオフィスの窓からは海の向こうに大阪市内の摩天楼が見えた。
今日もビル群では人々の欲望が渦巻き、経済を動かしていた。
『土地の価格は無限に上がり続ける』
人々は強く信じていた。
今日の朝刊では日経平均株価が35000円の大台に乗ったことを報じていた。
プラザ合意を受けた超低金利政策、それによる世紀の金余り。
余った金は土地や株に向かい、それらの評価額を泡のように押し上げた。
銀行は貸出額を競い合っていた。
無謀な経営を進めた銀行群は、泡が弾けると同時に崩壊した。
とある北海道開拓銀行の行員がテレビのインタビューに答えた。
『潰れて当然なんだよ、こんな糞銀行。ダイナマイトで吹き飛ばしてブルドーザーで片した方が良い』
完全に同意だ。
自らの『都市銀行』という世間体を守るために無茶な融資目標を立てる経営陣。
企業の本質から目を逸らし、馬鹿みたいに金をばら撒き続ける銀行員。
そんな銀行は、日本の害でしかない。
ダイナマイトで吹き飛ばしてしまえ。
こんな融資をするようでは、同じ結末を辿るだろう。
書類を破いてゴミ箱に捨てると、遥香ちゃんは小さく悲鳴をあげた。
あぁ、バブル。麗しき日本の最盛期よ。
人々は無邪気に経済を信じていた。
俺より頭のいい遥香ちゃんですら、こんな融資案件に有頂天になるほどだ。
「大和銀行の案件、進めといて」
俺の知識があれば、時流に乗りいくらでも稼げただろう。
だが俺は、金を転がして名声を得るよりも、一人のラーメン屋店主でいたかった。
それが俺が最後に望んだ生き方だからだ。
でも……。
長い付き合いのあるメインバンクの、ちょっとハメを外した融資に乗るくらいの恩恵を受けても許されるよな?
2億、それだけあれば何ができるのか。俺は考え始めた。




