第2話 とあるラーメンマニアの死
一人の中年は、立ち止まったまま眺めていた。
視線の先にあるのは、空を塞ごうとするほど大きな高層ビルだった。
ガラスとコンクリートに囲まれたその一角だけ、やけに音が反響し、足元を抜ける風が冷たく感じられる。
ここを通るたび、歩調が緩む。
男自身、いつからかそれが癖になっていることを自覚していた。
横では、中学生くらいの女の子が彼の袖を軽く引いている。
今月は彼女の誕生日。
人気の最新ゲーム機を買ってもらう約束をしている。
だから今日は、少し浮き足立っていた。
「パパ、何見てるの?」
「……ああ」
「さっきから止まってるよ」
「ごめんごめん」
「もう。早く行こうよ」
一拍置いてから、男はビルから目を離さないまま、小さく呟いた。
「ここにはね……、お前のおじいちゃんのラーメン屋があったんだよ」
少女は怪訝そうな顔をする。
目の前にあるのは、大きなオフィスビル。
スーツを着たビジネスマンが忙しなく出入りしている。
「えー、このビルにラーメン屋さん?
全然そんな感じしないけど」
「今はこんなふうだけどな。
再開発される前は、ここに店が一軒あったんだ。親父のラーメン屋が」
男は遅れてきた考えのように呟いた。
もしかしたら、俺がそのラーメン屋を継いでいたのかもしれないな。
女の子は目をぱちぱちと瞬かせた。
彼女の父は、きちんと仕立てられた上品なスーツを着こなしている。
小さな商社を経営する、自慢のお父さんだ。
カウンター越しに声を張り上げ、汗だくで鍋の前に立つような仕事をしている姿は、どうにも想像できなかった。
「パパは、ラーメン屋さんになりたかったの?」
男はすぐには答えなかった。
視線をビルから外し、足元の舗道に落とす。
今の生活には、概ね満足している。
名門大学を卒業し、商社に入社した。
独立して会社を興し、今は経営に専念している。
現場の仕事は部下に任せ、自分は数字と判断だけを見ていればいい立場だ。
金銭的にも困っていない。
気立てのいい妻。
生意気ながらも優しい子供たち。
とりわけ、晩年に授かった末の娘は可愛くて仕方がなかった。
それに、趣味だってある。
ラーメンの食べ歩きの記録をまとめて出版することもできた。
仕事を通じて、ラーメンチェーンの材料調達に関わることもあった。
「そうだねぇ……
今思うと、そうだったのかもしれないな」
悪くない人生だった。
それでも、胸の奥に小さく引っかかるものが残っている。
きっと、未練なのだろう。
男と父親は、決して仲のいい親子ではなかった。
厨房で背中を向けたまま、湯の音だけが響く中で、ほとんど言葉を交わさなかった夜も多い。
それでも、父は文字通り命をかけてラーメン屋を続けていた。
確かに、親父のラーメンは前時代的だった。
古臭くて、流行には鈍感で、不器用だった。
だが、その店には確かに人が集っていた。
仕事帰りの疲れた顔や、酔った笑い声を受け止める場所として、そこに在り続けていた。
それが何の痕跡も残さず、無機質な建物に置き換わっていくのを見るのは、胸を締めつけられる思いだった。
「未来に残せるラーメンを、作りたかったのかもしれないな」
「すごく美味しいラーメンを作りたかったってこと?」
いや、美味しいだけでは足りない。
男はそう思ったが、口には出さなかった。
「そうだな。
みんなに覚えてもらえるラーメンを、作りたかったんだと思う」
大阪には、多くのラーメンの名店が生まれ、そして消えていった。
最盛期、父の店には行列ができていた。
名店と呼ばれても不思議ではなかっただろう。
だが、歳月は残酷だった。
父のラーメンを、容赦なく時代遅れにした。
そして店は、一代で消えた。
大阪では、綺羅星のように店が生まれ、また消えていく。
この土地のラーメンは、文化として定着しなかった。
東京には型があり、横浜にも型がある。
九州には誇るべき豚骨がある。
だが、大阪には決定的な形がない。
この土地の名店は、長くは続かないのだ。
名店は文化に昇華しないのだ。
「僕の父さん、君のお爺ちゃんのラーメンさ。
本当に美味しかったんだ。凄かったんだよ」
美味しかった。
……そして、とても時代遅れだった。
「ねえパパ、
じゃあ今度、お爺ちゃんのラーメン作ってよ!」
娘は、父がラーメン作りを趣味にしていることを知っていた。
休みの日にスープを炊き、匂いで母から怒られているのを、何度も見ていたからだ。
娘のその一言に、男は返事ができなかった。
ふと、思う。
俺は、あのラーメンを作れるだろうか。
そのときだった。
周囲から、悲鳴が上がった。
男は、考えるより先に顔を上げた。
制御を失い、歩道に乗り上げながら迫ってくる車。
娘は、まだ気づいていない。
歩道の左右はフェンスで塞がれている。
逃げ場はなかった。
この子だけでも、助けなければならない。
男は腰の痛みを無視して、娘を抱き上げた。
「パパ、どうしたの?」
「お前だけでも……!」
渾身の力を振り絞り、娘を車道側へ投げる。
車道には車がない。助かるはずだ。
振り返った瞬間、視界いっぱいに迫る車。
運転席では、運転手が意識を失っていた。
音が歪み、世界が遠ざかる。
そして、その男は意識を失った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
夢を見ていた。
地元の名門国立大学を卒業した俺は、苛烈な就職競争を潜り抜け、五大商社に就職した。
東京で働いていた俺は、父の危篤を告げる電話で故郷に呼び出される。
葬儀の後で、俺は母親に懇願される。
店を継いでくれないかと。
俺は、その場で首を横に振った。
言葉を選ぶ余地はなかった。
その時点で、結論は決まっていたのだ。
でも、今でも思う。
あの時、断らなかったらどうなっていただろう。
きっと、母親が過労で倒れることもなかったはずだ。
俺は、ずっとその未練があるからラーメンに執着していたんだろう。
「おーい、火神。電話が来てるぞー」
誰かの声がする。
扉が開く。いるはずのない人がいる。
俺が商社に入って、相模原の新人寮にいたころの管理人だった。
やけにリアルな夢だ。
でも、出てくるのがこの人か。
人生の中で、いろんな出会いがあった。
この人とは、そんなに絡みがなかったはずなのに。
案内されたのは、寮の黒電話だった。
受話器から、懐かしい母の声が聞こえる。
「敦史、父さんが倒れたんよ。大阪に今すぐ戻ってきて」
あの日の夢か……。
俺は夢心地のまま、管理人の車に揺られて駅に向かっていた。
「火神、気をつけていってくるんだぞ」
東京駅に着いたあたりで、いつまでも夢から醒めないことを不思議に思った。
新幹線に乗ったあたりで、それは確信に変わった。
これは、夢じゃない。
やり直せるんだ。
あの選択を、あの後悔を。
新大阪からタクシーで病院へ向かう。
記憶よりも、随分若い母と再会した。
「あぁ、敦史。お父さんがね……。突然ね」
泣き崩れる母を支えながら、葬儀の手配を行う。
そして深夜、俺は実家の前に立っていた。
看板はない。
「ラーメン」ただそれだけが書かれたのれん。
木造の古めかしい店内。二階は住居になっている。
俺が育った家だ。
あぁ、やり直せる。
あの時の後悔を。
俺ならできる。
この小さなラーメン屋を、日本一にする。
――かつて、日本にはあった。
人々が胸を膨らませ、希望を持てる時代が。
この国が、世界の中心であった時代が。
そして、人々が苦しみ、絶望に打ちひしがれる時代が。
これは、激動の『平成』の物語である。




