第11話 スープ、それは命
俺は自宅と、新しく買ったスープ工場を行き来する生活になっていた。
今日はスープ工場の日だ。
シャッターを上げると、夜のあいだに溜まっていた湿った空気が一気に外へ流れ出す。
鼻の奥に、かすかに残る豚骨の匂い。
まだ朝で、誰もいない工場は音がなく、俺と遥香ちゃんの足音だけが響いていた。
業務用冷蔵庫の扉を開けると、白い霧が一瞬だけ噴き出す。
目の前にあるのは、一度冷やされたスープだ。
中に並んだ寸胴の蓋を一つずつ確認し、日付を書いたマスキングテープを指でなぞる。
蓋を開けると、表面には白く固まった脂が薄く張り付いている。
「遥香ちゃん、ちょっと運ぶの手伝ってくれる?」
「はーい! これ重いね。どれだけ仕込んだの?」
「百人分。最終確認として、本番とまったく同じ量を仕込んだんだ」
寸胴を火にかけ、ゆっくりと温度を戻す。
ガスのツマミを回し、点火音を確認する。
炎の色を見て、ほんの少しだけ弱める。
寸胴の底に手をかざし、熱の上がり方を確かめた。
焦らない。
ここで急ぐと、すべてが崩れる。
今日は工場で、あえて店舗と同じ仕上げ工程を再現している。
これから開く店舗では、冷蔵されたスープを温め、そこに鶏ガラと丸鶏を加えて香り付けをする。
「よし……温度は九十六度。そろそろガラを入れていくか」
ガラを入れる時にスープの温度が低いと、血液成分が抽出されてしまう。
赤く濁ったスープなど、食べられたものではない。
コトコトと、鍋の中の音が少しずつ変わっていく。
タイマーを一度セットし、途中で止め、また別の時間で掛け直す。
時計を見る回数が増えていく。
遥香ちゃんは言われる前に、灰汁を捨てるバットを持ってきてくれた。
灰汁を取るたびに、スープの表情が少しずつ澄んでいく。
時計を見ると、もう十一時だった。
「もう十一時か……」
朝からずっと重労働だ。少し腹が減ってきた。
だが、空腹よりも先に、鍋の中の変化のほうが気になっている自分がいる。
頼んだ覚えはないが、遥香ちゃんがスープの試飲を始めていた。
お玉で掬っては、黙って一口。
表情を変えず、また一口。
遥香ちゃんがつぶやく。
「これが一度冷蔵して再加熱したスープって、信じられないね」
一般に動物性のスープというのは冷蔵すると味が劣化する。
だが、俺は冷却工程を工夫することで、ほぼ完全に劣化を抑え込んでいた。
ただし、一度冷蔵すると豚骨の匂いが抜けてしまう。
これは令和の技術でも解決できない問題だ。
そのまま再加熱すると、どうしても物足りない上品なラーメンになってしまう。
だから俺はブロイラーで香り付けをしている。
ブロイラーの芳醇な香り。
豚骨の匂いに馴染みのない関西人にとっては、本場の豚骨ラーメンより冷蔵したスープの方が好まれるはずだ。
丼にカエシを入れ、スープを注ぎ、鶏油を落とす。
そこに麺を投入した。
テーブルに丼を置き、遥香ちゃんと並んで試食する。
遥香ちゃんは麺を啜って一言。
「これ、前に食べたやつより美味しいと思うな」
俺は答えず、丼を見つめたままだった。
正直、まだ満足はしていない。
豚骨スープ独特の立体感。舌の奥に残る厚み。
素材のポテンシャルをまだ出し切れていない。
そして、スープと麺があわない。
ノートを開き、前回書いたメモを見返す。
スープの気になっている点が大量に列挙されている。
『醤油のキレが不足』『鶏の乳化が甘い』
その文字に、線を引き直した。
少しづつスープは改善されていっている。
今回の出来は……六十点。
及第点ではある。
遥香ちゃんがぽつりと言った。
「店舗側で二時間でこのレベルのスープが準備できるって、革命的だよね」
「だよね。だから俺はセントラルキッチンを選んだんだ」
店舗には冷蔵スープを軽トラで運送する。
開店の二時間前から仕上げをしてもらう。
冷蔵スープを使うことで、従来の十時間かけて作るスープの面倒から解放される。
これによって現場の負担はかなり減る。
遥香ちゃんが、ふいに言った。
「まだ納得いってないみたいだけど、もうこれで店、開いていいんじゃない?
完成度に拘ったらキリがないよ」
答えは出なかった。
自分でも、分からなかったからだ。
考えていると、表から大きな声が聞こえてくる。
「へい、らっしゃい!二名様ね!」
このスープ工場は以前購入した元中華料理店を居抜きで使っている。
最近、その設備を使って母が始めた中華料理屋がちょうど開店したのだろう。
俺は表でやってる中華料理屋の様子を見に行くことにした。
カウンターの中では、母が客と楽しそうに話しながら料理していた。
「おまたせ!天津飯一つ!」
母が一人でやっている店のメニューは少ない。
天津飯、チャーハン、ラーメン。
たったの三つ。
昼休みの時間になると、最近よく見かける同じ作業着の連中が、同じ順番で席に着く。
作業着の男達が席に着くと同時に、母は水を置く。
誰もメニューを見ない。
注文は、いつも決まっている。
「炒飯三つで、あと限定ラーメンってまだある?」
母は俺の方をちらりと見てから答えた。
「お客さん、運がいいね。今日はラーメンのスープができたばかりだよ。出来立ては本当に美味しんだから」
天津飯とチャーハンは二百円。
この時代の物価から考えても、かなり安い。
その中に、ぽつんと混ざる六百円の限定ラーメン。
俺が試作したスープを、勿体ないから流用しただけの一杯だ。
この時代、六百円のラーメンは高いと思われるだろう。
だが原価を考えると、この値段でも赤字だ。
試作品だから、この価格で出せる。
この店は、客の反応を試すための実験場だった。
五席のカウンターと、三つの座敷の小さな店。
だが、最近の昼時は、常に満員だった。
今日も母は、ムキムキの港湾労働者の若者と楽しそうに話していた。
「いやー、おばちゃん。この店、チャーハンがこの値段ってすごいね」
「ウチは本業がラーメン屋だからね。
スープ取った後の材料を使ってるだけだよ」
俺がスープを取った後に出る、出涸らしの丸鶏。
母はそれを再利用して、昼のランチ営業をしている。
出涸らしの鶏肉にラードや香味油を足し、抜けてしまった旨味を補いながら、驚くほど美味しい料理に変身させる。
「そのスープって、六百円のラーメンに使ってるやつだよね。
少し値は張るけど、今度一回、ラーメンも食べてみようかな」
出し始めて二週間。
他のメニューに比べて強気な値段にもかかわらず、限定ラーメン五十食は、開店から一時間半で売り切れる。
反応は上々だ。
これなら、きっと梅田でも成功する。
……この店は、母に任せておいていい。
俺が、母から生きがいのラーメン屋を奪った自覚はある。
だが、この店での母は、前と同じように楽しそうだった。
俺が微笑むと、隣で遥香ちゃんも少しだけ表情を和らげた。




