第1話 プロローグ
顔を赤くした二人のサラリーマンが、細い路地を歩いていた。
「この近くで飲むのは久しぶりだなぁ」
「なー、どいつもこいつも店閉めやがって」
ここは大阪市内、その随一の繁華街、梅田の中心部から外れた飲み屋街。
普段なら深夜まで騒がしさの絶えない界隈だが、この夜はどこか空気が重かった。
呑気に笑い合う二人の酔っ払いに、道ゆく通行人は思わず眉を顰める。
畏れ多くも、陛下が崩御されたばかりだというのに。
なんと不敬なことか。
「ギャハハ! どこも店閉めやがって!」
街全体が喪に服しているかのような静けさの中で、その笑い声はやけに目立っていた。
戦争も戦後の復興も、60年近くも国民と共に歩んでこられた陛下に対する敬意。
それを欠いているかのような無言の視線が向けられていることなど、二人は気づく様子もない。
「一杯やった後には、ここのうどん屋が美味いんだよ。締めと言えばここ!」
「北新地を超えた場所に、そんな美味い店があったなんてなぁ」
「おっ、ついたぞ。……って、あれ、閉まってんじゃねーか」
シャッターは下ろされ、貼り付けられたわら半紙にはこう書いてあった。
『陛下の崩御に際し、喪に服すため臨時休業いたします。』
「なんだこら! うどん屋まで閉めやがって」
どこもかしこもシャッターだらけ。
眠らない町、大都会梅田だとは思えない光景だ。
二人は周囲を見渡し、他に灯りがないか探すように首を振る。
少し歩いては立ち止まり、また歩き出す。
締めの一杯を求めてうろつくうちに、酔いよりも疲れの方が勝ち始めていた。
街灯が少ない裏路地。
もう今日は諦めるか、そんな言葉が喉元までせり上がった、そのときだ。
曲がり角の向こうから、やけに明るい光が漏れているのが目に入った。
男たちはその光に引き寄せられるように歩み寄り、深夜だというのに若者たちが並ぶ店を見つけた。
一瞬、胸の奥が軽くなる。
だが次の瞬間、その期待は肩を落とす形で裏切られた。
「ラーメン屋だぁ? 最近どこにでも増えやがって。
東京かぶれどもが! 大阪人ならうどん食えってんだ」
「まぁまぁ、ここでいいじゃねえか。
こんだけ並んでんなら、不味いってことはないだろよ」
酔っ払いたちは、店先に置かれたベンチに腰を下ろす。
曽根崎の飲み屋から、締めを探して彷徨ってきた二人にとって、座れる場所があるだけでもありがたかった。
意外に回転は早いようで、少し待つと声がかかる。
二人は暖簾をくぐり、店の中へ足を踏み入れた。
そして、そこにあったものに眉を顰める。
「券売機だぁ? 注文ぐらい人間が取りやがれ。
真心ってもんがねえのか、最近の若いモンは」
まだ珍しい券売機だ。
機械を一つ挟んだだけで、店員との距離が一気に遠くなった気がする。
さらに、表示された文字を見て仰天した。
「ラーメン800円!? 高すぎだろ。
ラーメンは500円までって相場が決まってんだろうが」
全く、新人類の考えることはわからない。
大昔から、ラーメンは安くて腹を満たすものだと決まっていたはずだ。
なんでこんな店に行列ができているのか、どうにも理解できない。
だが、ここまで来て引き返すのも癪だった。
渋々、財布から夏目漱石の描かれた札を取り出し、券売機に入れる。
小綺麗で、意外なほど座り心地のいい丸椅子に、二人は並んで座った。
黙って食券を差し出し、お冷を飲みながら時間を潰す。
値段に不機嫌さを滲ませている男に、もう一人が声をかける。
「まぁ、これも世の中の変化なんかもしれんよ。
なんだって、これからは平成の時代なんだから」
「中華そばに昭和も平成もあるか!
中華そばは500円まで!
昔から決まってんだよ」
気炎をあげる男の前に、少し間を置いて丼が置かれた。
「ヘイ、お待ち」
男は運ばれてきたそれを見て、一瞬、目を白黒させる。
あまりに想像していたものと違うものが、目の前に置かれたからだ。
男が知っているラーメンとは、まるで別物だった。
ラーメン、中華そばというのは、醤油味で澄んだスープであるはずだ。
ナルトや薄いチャーシューが乗った、中華料理店のメニューの一つであるはずだった。
だが、男の目の前にあるのは、脂が浮いたドロドロの黄金色のスープ。
生かと見間違うほど発色の良い、分厚いチャーシュー。
そして、今すぐ貪りつきたくなるほどの強烈な匂い。
「なんや、これは……」
そう言いながら、男は気がつけば麺を啜っていた。
麺にはスープが絡みつく。
鶏油の旨み、豚骨の深み、そして醤油のキレ。
脳を直撃する、暴力的なまでの旨さ。
考える間もなく、箸が止まらない。
分厚いチャーシューは、その見た目に反して、ホロホロと口の中で崩れる。
強烈な味付けなのに、不思議と嫌味がなかった。
気がつくと、スープにまで手を伸ばしていた。
ギラギラとした旨さが、舌に、喉に、胃の底に沈んでいく。
ニンニクの匂い。
そして、舌の上でほどけていく複雑なハーモニー。
これが『ラーメン』だというのか。
こんなものが、この世にあっていいのか。
最近は九州の豚骨ラーメンが流行っていると聞いている。
食べたことはないが、ニュースで何度も目にした。
だが、このスープは、テレビでやっていたそれとは、どう見ても別物だった。
男は、食べ終わった後のカラの丼を前にして、しばらく動けずにいた。
たかが夜食だ。
だが、その衝撃は、今までの人生観を揺さぶるには十分だった。
食べる前と後で、世界の見え方が変わったと言ってもいい。
男は周囲を見渡す。
煤一つない清潔なキッチン。
よく掃除された、ヌメつきのない床。
何か一つでも文句をつけられるところはないか。
そんな視線で店内を見回した末、メニューに書かれた店名が目に入った。
「この店、なんて読むんだよ。れいわ?か」
それは、精一杯の負け惜しみだった。
時刻は日付が変わるほどになっている。
深夜にもかかわらず、ラーメン 令和 の前の行列は、途切れる気配を見せなかった。




