永遠の始まり
九
村を離れてから、どれほどの時が経っただろう。
撫子と紗世は、山道を歩いていた。血に染まった着物はとうに捨て、質素な旅装束に身を包んでいる。月明かりだけを頼りに、人里離れた道を進んでいく。
「復讐は終わった」
撫子は呟いた。
「清隆も、その家族も、全て殺した。父上の仇は討った。母上の仇も、小百合の仇も」
足を止めることなく、撫子は続けた。
「でも、心は空っぽのまま」
紗世は黙って撫子の隣を歩いている。
「撫子様、これからどこへ?」
撫子は空を見上げた。星が瞬いている。人間だった頃と同じ星空。だが、今の撫子にとって、それは永遠に変わらぬものの象徴だった。
「どこへでも」
撫子は答えた。
「もう、ここには何もない。私の家も、清隆の家も、全て終わった。戻る場所など、どこにもない」
「では、新しい場所を探しましょう」
紗世が言った。
「撫子様が安らげる場所を」
「安らげる場所……」
撫子は苦く笑った。
「そんなものが、あるのかしら。化け物になった私たちに」
「あります」
紗世は静かに言った。
「私がいる場所が、撫子様の居場所です」
撫子は紗世を見た。月明かりに照らされた紗世の顔は、穏やかだった。黒い瞳の奥に、紅い光が微かに揺らめいている。
「行きましょう、撫子様」
紗世が手を差し出した。
「どこへでも、一緒に」
撫子は、その手を取った。
二人は、新しい土地へ向かって歩き出した。
*
数年が過ぎた。
撫子と紗世は、遠く離れた町で暮らし始めていた。江戸から離れた、小さな城下町。二人は「姉妹」として、静かに生きていた。
人間に紛れ込むのは、想像以上に困難だった。
まず、永遠に老いない身体。十年も同じ場所にいれば、周囲の者たちは不審に思い始める。なぜ、あの姉妹は年を取らないのか。なぜ、いつまでも若いままなのか。
だから、十年ごとに引っ越した。
新しい町へ移り、新しい名を名乗り、新しい人生を始める。それを繰り返した。
次に、血の問題があった。
吸血鬼である撫子と紗世は、人間の血を啜らなければ生きていけない。だが、町の人間を無闘に殺せば、すぐに噂になる。
だから、二人は工夫した。
夜だけ活動し、町外れの街道で旅人を襲う。あるいは、病で死にかけている者から血を貰う。殺さずに済む方法を、少しずつ学んでいった。
「私たちは、永遠に……こうして生きていくのね」
ある夜、撫子は呟いた。
二人は、借りている長屋の一室にいた。障子の向こうに、月が昇っている。
「十年ごとに引っ越し、新しい名前を名乗り、人間のふりをして生きる。そして、血を啜り続ける」
「はい」
紗世は静かに答えた。
「それが、私たちの生き方です」
「虚しいわね」
撫子は目を閉じた。
「何のために生きているのか、分からない」
「撫子様」
紗世が、撫子の手を握った。
「私がいます」
その言葉を、撫子は何度聞いただろう。
「紗世……」
「撫子様が虚しいと感じても、私は撫子様の側にいます。それだけは、変わりません」
撫子は、紗世の手を握り返した。
この手だけが、唯一の温もりだった。
*
ある夜のことだった。
撫子が目を覚ますと、紗世の姿がなかった。
いつもなら、撫子が起きる前に紗世は傍にいる。だが、今夜は違った。
「紗世……?」
撫子は長屋を出た。月明かりの下、辺りを見回す。
やがて、紗世が戻ってきた。
「撫子様、お目覚めでしたか」
「どこへ行っていたの?」
「少し、外の様子を見てきただけです」
紗世は穏やかに微笑んだ。だが、撫子は気づいた。
「紗世、その着物……」
紗世の着物の裾に、わずかに赤い染みがあった。
「血……?」
「ああ、これは」
紗世は平然と答えた。
「野良猫に引っ掻かれただけです。大したことはありません」
「そう……」
撫子はそれ以上追及しなかった。
だが、撫子の知らないところで、紗世は動いていた。
*
紗世は、撫子に知られないよう、夜ごと屋敷を抜け出していた。
この町に来てから、紗世は気づいていた。何者かが、二人の様子を窺っている。恐らく、藤原家の残党だろう。主だった者は撫子が皆殺しにしたが、生き残りがいてもおかしくない。
その夜も、紗世は気配を感じて外へ出た。
月明かりの下、三人の男が待ち構えていた。
「やはり来たか、化け物め」
男たちは刀を抜いた。
「藤原家の仇、討たせてもらう」
紗世は無表情だった。
「撫子様には近づかせません」
「ほざけ!」
男たちが斬りかかってきた。
紗世は動いた。
人間の目には追えない速さで、一人目の男の背後に回り、首を折る。二人目が振り向く前に、その喉を引き裂く。三人目が悲鳴を上げる間もなく、心臓を貫いた。
数秒で、全てが終わった。
紗世は、血に染まった手を見下ろした。何も感じなかった。
死体を始末し、血痕を消し、紗世は長屋へ戻った。
撫子は、何も知らずに眠っていた。
「お休みなさいませ、撫子様」
紗世は小さく呟き、撫子の傍に座った。
撫子を守るためなら、何人でも殺す。何百人でも、何千人でも。
それが、紗世の存在理由だった。
*
また別の夜。
撫子が目を覚ますと、紗世が着物を着替えているところだった。
「紗世……?」
「あ、撫子様。お目覚めですか」
「その着物、どうしたの?」
紗世の着物は、明らかに別のものに変わっていた。そして、脱ぎ捨てられた着物には、赤黒い染みが広がっている。
「それ、血じゃないの?」
「いえ、これは……」
紗世は少し困ったように微笑んだ。
「転んでしまって。泥で汚れてしまったのです」
「泥には見えないけれど……」
「月明かりの加減です。大丈夫ですよ、撫子様」
撫子は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
紗世は安堵した。撫子には、余計な心配をかけたくなかった。
刺客は、その後も何度か現れた。藤原家の残党だけでなく、山賊や野盗に襲われることもあった。旅の途中、街道で待ち伏せされたことも一度や二度ではない。
そのたびに、紗世は撫子に気づかれないよう、一人で片をつけた。
「紗世、また着物を変えたの?」
「ええ、少し汚れてしまって」
「最近、よく汚すのね」
「申し訳ございません。もう少し気をつけます」
紗世は微笑んだ。
撫子は不思議そうな顔をしていたが、深くは追及しなかった。
紗世は、それでよかった。
撫子の手を汚させたくなかった。撫子には、穏やかに過ごしてほしかった。
血に塗れるのは、自分だけでいい。
*
時は流れた。
江戸時代の中期から後期へ。撫子と紗世は、様々な町を転々とした。
ある時は商家の下働きとして。ある時は町外れに住む謎めいた姉妹として。人間社会に溶け込みながら、二人は静かに生きていた。
その間に、多くの人間と出会った。
長屋の隣に住む老夫婦。よく話しかけてくる魚屋の娘。病を抱えながらも明るく生きる職人。
彼らは、撫子と紗世に優しくしてくれた。
だが、彼らは皆、死んでいった。
老夫婦は、穏やかな最期を迎えた。魚屋の娘は、嫁いだ先で子を産み、やがて老いて死んだ。職人は、病に勝てずに逝った。
「また……また、誰かが死んだ」
撫子は、葬列を見送りながら呟いた。
「私たちが出会った人間は、みんな死んでいく。私たちだけが、取り残される」
紗世は黙って撫子の隣に立っていた。
「人間は、こんなにも儚いのね」
撫子の黒い瞳に、哀しみが浮かんでいた。
「私も、かつては人間だった。こうして老いて、死んでいくはずだった。でも今は……」
言葉が途切れた。
「永遠に、こうして見送り続けるのね」
*
さらに時は流れた。
幕末。
黒船が来航し、国中が騒然となった。攘夷だ、開国だと、人々は争い、血を流した。
撫子と紗世は、戦火の中を生き延びた。
ある夜、二人が宿をとっていた町が襲撃された。攘夷派の浪士と幕府方の武士が斬り合い、火の手が上がった。
「撫子様、こちらへ」
紗世が撫子の手を引き、裏口から逃げようとした時——。
「待て!」
数人の浪士が、二人の前に立ちはだかった。
「女だ。連れていけ」
下卑た笑みを浮かべる男たち。
撫子は身構えた。だが、紗世が一歩前に出た。
「撫子様は下がっていてください」
「紗世……?」
「すぐに終わります」
紗世の瞳に、紅い光が灯った。
次の瞬間、紗世は動いた。
一人目の浪士の首が飛んだ。二人目は胸を貫かれ、三人目は喉を裂かれた。四人目、五人目——誰も紗世の動きを捉えられなかった。
数秒後、紗世の周りには死体だけが転がっていた。
「終わりました」
紗世は振り返り、微笑んだ。
撫子は、呆然と紗世を見ていた。
「紗世……あなた、いつも……」
「さあ、参りましょう、撫子様。火が回る前に」
紗世は撫子の手を取り、その場を離れた。
撫子は気づいていた。紗世が、自分の知らないところで何かをしていることを。着物についた血の染み。時折感じる、かすかな血の匂い。
だが、撫子は何も言わなかった。
紗世が、自分を守ってくれている。それだけは分かっていた。
*
「人間は、何度も同じ過ちを繰り返す」
ある夜、焼け野原となった町を見下ろしながら、撫子は言った。
「争い、殺し合い、そして滅びる。二百年前も、今も、変わらない」
紗世は黙って撫子の隣に立っていた。
「私の父も、こうした争いの中で陥れられた。清隆の一族も、権力のために私の家を滅ぼした。人間は、いつまでも変わらない」
撫子の声には、諦めが滲んでいた。
やがて、戦乱は終わった。
幕府は倒れ、新しい時代が始まった。
明治。
文明開化の波が押し寄せた。
西洋の文化が流入し、町の景色は一変した。髷を落とし、洋服を着る者が増えた。ガス灯が灯り、鉄道が走り、電信が届くようになった。
撫子と紗世は、新しい時代に適応しようとした。
和服から洋装へ。言葉遣いも、少しずつ変えていった。変わりゆく時代の中で、生き延びるために。
だが、心は変わらなかった。
*
「二百年以上、生きてきた」
ある夜、撫子は鏡の前に立っていた。
鏡には、何も映っていない。自分の姿を確認することすらできない。
「復讐を果たして、二百年。その間に、何があった?」
町を転々とした。人間に紛れて生きた。多くの人間と出会い、その全てを見送った。
「何も、残らなかった」
撫子の声が、虚ろに響いた。
「撫子様」
背後から、紗世の声が聞こえた。
振り返ると、紗世が立っていた。洋装に身を包んだ紗世は、二百年前と変わらぬ姿だった。
「また、考え込んでおいでですか」
「紗世……」
撫子は目を伏せた。
「私は、何のために生きているの?」
「撫子様」
紗世が近づいてきた。
「私がいます」
また、その言葉。
二百年間、何度聞いただろう。だが、その言葉だけが、撫子を支えていた。
「紗世……あなたがいなければ、私は……」
「私は、ずっと撫子様の側にいます」
紗世が、撫子の手を取った。
「二百年前も、今も、これからも。永遠に」
撫子の目に、涙が滲んだ。
「ありがとう、紗世」
紗世だけが、撫子の唯一の支えだった。
この手を離したら、撫子は虚無の中に沈んでしまう。それだけは、確かだった。
*
明治も終わりに近づいていた。
撫子と紗世は、また新しい町へ引っ越そうとしていた。十年が経ち、周囲の人間が不審に思い始めている。いつものことだった。
荷物をまとめながら、撫子は呟いた。
「まだ、終わらないのね……この永遠は」
「はい」
紗世が答えた。
「まだ、終わりません」
「何百年、何千年と、こうして生き続けるのかしら」
撫子は窓の外を見た。夜の町に、ガス灯が灯っている。二百年前には想像もできなかった光景。
「時代は変わっていく。でも、私たちは変わらない」
「撫子様」
紗世が、撫子の傍に立った。
「でも、撫子様。いつか……」
「いつか……?」
撫子は振り返った。
紗世は、微かに微笑んでいた。
「いつか、撫子様が笑える日が来ると信じています」
「笑える日……」
撫子は、その言葉を噛みしめた。
二百年間、心から笑ったことなどなかった。復讐を果たした後、撫子の心は空っぽのままだった。
だが、紗世はそう言った。いつか、笑える日が来ると。
「そんな日が、来るのかしら」
「来ます」
紗世は断言した。
「私が、そばにいますから」
撫子は、微かに微笑んだ。
心からの笑みではなかった。だが、紗世の言葉に、少しだけ救われた気がした。
「行きましょう、紗世」
撫子は立ち上がった。
「新しい町へ。新しい時代へ」
紗世が頷いた。
二人は、新しい時代へ歩き出した。
明治が終わり、大正が始まろうとしていた。
永遠は、まだ続く。




