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緋色の月に抱かれて ―永遠の孤独と四つ葉の誓い―  作者: 月代 緋色


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9/17

永遠の始まり

村を離れてから、どれほどの時が経っただろう。


撫子と紗世は、山道を歩いていた。血に染まった着物はとうに捨て、質素な旅装束に身を包んでいる。月明かりだけを頼りに、人里離れた道を進んでいく。


「復讐は終わった」


撫子は呟いた。


「清隆も、その家族も、全て殺した。父上の仇は討った。母上の仇も、小百合の仇も」


足を止めることなく、撫子は続けた。


「でも、心は空っぽのまま」


紗世は黙って撫子の隣を歩いている。


「撫子様、これからどこへ?」


撫子は空を見上げた。星が瞬いている。人間だった頃と同じ星空。だが、今の撫子にとって、それは永遠に変わらぬものの象徴だった。


「どこへでも」


撫子は答えた。


「もう、ここには何もない。私の家も、清隆の家も、全て終わった。戻る場所など、どこにもない」


「では、新しい場所を探しましょう」


紗世が言った。


「撫子様が安らげる場所を」


「安らげる場所……」


撫子は苦く笑った。


「そんなものが、あるのかしら。化け物になった私たちに」


「あります」


紗世は静かに言った。


「私がいる場所が、撫子様の居場所です」


撫子は紗世を見た。月明かりに照らされた紗世の顔は、穏やかだった。黒い瞳の奥に、紅い光が微かに揺らめいている。


「行きましょう、撫子様」


紗世が手を差し出した。


「どこへでも、一緒に」


撫子は、その手を取った。


二人は、新しい土地へ向かって歩き出した。


   *


数年が過ぎた。


撫子と紗世は、遠く離れた町で暮らし始めていた。江戸から離れた、小さな城下町。二人は「姉妹」として、静かに生きていた。


人間に紛れ込むのは、想像以上に困難だった。


まず、永遠に老いない身体。十年も同じ場所にいれば、周囲の者たちは不審に思い始める。なぜ、あの姉妹は年を取らないのか。なぜ、いつまでも若いままなのか。


だから、十年ごとに引っ越した。


新しい町へ移り、新しい名を名乗り、新しい人生を始める。それを繰り返した。


次に、血の問題があった。


吸血鬼である撫子と紗世は、人間の血を啜らなければ生きていけない。だが、町の人間を無闘に殺せば、すぐに噂になる。


だから、二人は工夫した。


夜だけ活動し、町外れの街道で旅人を襲う。あるいは、病で死にかけている者から血を貰う。殺さずに済む方法を、少しずつ学んでいった。


「私たちは、永遠に……こうして生きていくのね」


ある夜、撫子は呟いた。


二人は、借りている長屋の一室にいた。障子の向こうに、月が昇っている。


「十年ごとに引っ越し、新しい名前を名乗り、人間のふりをして生きる。そして、血を啜り続ける」


「はい」


紗世は静かに答えた。


「それが、私たちの生き方です」


「虚しいわね」


撫子は目を閉じた。


「何のために生きているのか、分からない」


「撫子様」


紗世が、撫子の手を握った。


「私がいます」


その言葉を、撫子は何度聞いただろう。


「紗世……」


「撫子様が虚しいと感じても、私は撫子様の側にいます。それだけは、変わりません」


撫子は、紗世の手を握り返した。


この手だけが、唯一の温もりだった。


   *


ある夜のことだった。


撫子が目を覚ますと、紗世の姿がなかった。


いつもなら、撫子が起きる前に紗世は傍にいる。だが、今夜は違った。


「紗世……?」


撫子は長屋を出た。月明かりの下、辺りを見回す。


やがて、紗世が戻ってきた。


「撫子様、お目覚めでしたか」


「どこへ行っていたの?」


「少し、外の様子を見てきただけです」


紗世は穏やかに微笑んだ。だが、撫子は気づいた。


「紗世、その着物……」


紗世の着物の裾に、わずかに赤い染みがあった。


「血……?」


「ああ、これは」


紗世は平然と答えた。


「野良猫に引っ掻かれただけです。大したことはありません」


「そう……」


撫子はそれ以上追及しなかった。


だが、撫子の知らないところで、紗世は動いていた。


   *


紗世は、撫子に知られないよう、夜ごと屋敷を抜け出していた。


この町に来てから、紗世は気づいていた。何者かが、二人の様子を窺っている。恐らく、藤原家の残党だろう。主だった者は撫子が皆殺しにしたが、生き残りがいてもおかしくない。


その夜も、紗世は気配を感じて外へ出た。


月明かりの下、三人の男が待ち構えていた。


「やはり来たか、化け物め」


男たちは刀を抜いた。


「藤原家の仇、討たせてもらう」


紗世は無表情だった。


「撫子様には近づかせません」


「ほざけ!」


男たちが斬りかかってきた。


紗世は動いた。


人間の目には追えない速さで、一人目の男の背後に回り、首を折る。二人目が振り向く前に、その喉を引き裂く。三人目が悲鳴を上げる間もなく、心臓を貫いた。


数秒で、全てが終わった。


紗世は、血に染まった手を見下ろした。何も感じなかった。


死体を始末し、血痕を消し、紗世は長屋へ戻った。


撫子は、何も知らずに眠っていた。


「お休みなさいませ、撫子様」


紗世は小さく呟き、撫子の傍に座った。


撫子を守るためなら、何人でも殺す。何百人でも、何千人でも。


それが、紗世の存在理由だった。


   *


また別の夜。


撫子が目を覚ますと、紗世が着物を着替えているところだった。


「紗世……?」


「あ、撫子様。お目覚めですか」


「その着物、どうしたの?」


紗世の着物は、明らかに別のものに変わっていた。そして、脱ぎ捨てられた着物には、赤黒い染みが広がっている。


「それ、血じゃないの?」


「いえ、これは……」


紗世は少し困ったように微笑んだ。


「転んでしまって。泥で汚れてしまったのです」


「泥には見えないけれど……」


「月明かりの加減です。大丈夫ですよ、撫子様」


撫子は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。


紗世は安堵した。撫子には、余計な心配をかけたくなかった。


刺客は、その後も何度か現れた。藤原家の残党だけでなく、山賊や野盗に襲われることもあった。旅の途中、街道で待ち伏せされたことも一度や二度ではない。


そのたびに、紗世は撫子に気づかれないよう、一人で片をつけた。


「紗世、また着物を変えたの?」


「ええ、少し汚れてしまって」


「最近、よく汚すのね」


「申し訳ございません。もう少し気をつけます」


紗世は微笑んだ。


撫子は不思議そうな顔をしていたが、深くは追及しなかった。


紗世は、それでよかった。


撫子の手を汚させたくなかった。撫子には、穏やかに過ごしてほしかった。


血に塗れるのは、自分だけでいい。


   *


時は流れた。


江戸時代の中期から後期へ。撫子と紗世は、様々な町を転々とした。


ある時は商家の下働きとして。ある時は町外れに住む謎めいた姉妹として。人間社会に溶け込みながら、二人は静かに生きていた。


その間に、多くの人間と出会った。


長屋の隣に住む老夫婦。よく話しかけてくる魚屋の娘。病を抱えながらも明るく生きる職人。


彼らは、撫子と紗世に優しくしてくれた。


だが、彼らは皆、死んでいった。


老夫婦は、穏やかな最期を迎えた。魚屋の娘は、嫁いだ先で子を産み、やがて老いて死んだ。職人は、病に勝てずに逝った。


「また……また、誰かが死んだ」


撫子は、葬列を見送りながら呟いた。


「私たちが出会った人間は、みんな死んでいく。私たちだけが、取り残される」


紗世は黙って撫子の隣に立っていた。


「人間は、こんなにも儚いのね」


撫子の黒い瞳に、哀しみが浮かんでいた。


「私も、かつては人間だった。こうして老いて、死んでいくはずだった。でも今は……」


言葉が途切れた。


「永遠に、こうして見送り続けるのね」


   *


さらに時は流れた。


幕末。


黒船が来航し、国中が騒然となった。攘夷だ、開国だと、人々は争い、血を流した。


撫子と紗世は、戦火の中を生き延びた。


ある夜、二人が宿をとっていた町が襲撃された。攘夷派の浪士と幕府方の武士が斬り合い、火の手が上がった。


「撫子様、こちらへ」


紗世が撫子の手を引き、裏口から逃げようとした時——。


「待て!」


数人の浪士が、二人の前に立ちはだかった。


「女だ。連れていけ」


下卑た笑みを浮かべる男たち。


撫子は身構えた。だが、紗世が一歩前に出た。


「撫子様は下がっていてください」


「紗世……?」


「すぐに終わります」


紗世の瞳に、紅い光が灯った。


次の瞬間、紗世は動いた。


一人目の浪士の首が飛んだ。二人目は胸を貫かれ、三人目は喉を裂かれた。四人目、五人目——誰も紗世の動きを捉えられなかった。


数秒後、紗世の周りには死体だけが転がっていた。


「終わりました」


紗世は振り返り、微笑んだ。


撫子は、呆然と紗世を見ていた。


「紗世……あなた、いつも……」


「さあ、参りましょう、撫子様。火が回る前に」


紗世は撫子の手を取り、その場を離れた。


撫子は気づいていた。紗世が、自分の知らないところで何かをしていることを。着物についた血の染み。時折感じる、かすかな血の匂い。


だが、撫子は何も言わなかった。


紗世が、自分を守ってくれている。それだけは分かっていた。


   *


「人間は、何度も同じ過ちを繰り返す」


ある夜、焼け野原となった町を見下ろしながら、撫子は言った。


「争い、殺し合い、そして滅びる。二百年前も、今も、変わらない」


紗世は黙って撫子の隣に立っていた。


「私の父も、こうした争いの中で陥れられた。清隆の一族も、権力のために私の家を滅ぼした。人間は、いつまでも変わらない」


撫子の声には、諦めが滲んでいた。


やがて、戦乱は終わった。


幕府は倒れ、新しい時代が始まった。


明治。


文明開化の波が押し寄せた。


西洋の文化が流入し、町の景色は一変した。髷を落とし、洋服を着る者が増えた。ガス灯が灯り、鉄道が走り、電信が届くようになった。


撫子と紗世は、新しい時代に適応しようとした。


和服から洋装へ。言葉遣いも、少しずつ変えていった。変わりゆく時代の中で、生き延びるために。


だが、心は変わらなかった。


   *


「二百年以上、生きてきた」


ある夜、撫子は鏡の前に立っていた。


鏡には、何も映っていない。自分の姿を確認することすらできない。


「復讐を果たして、二百年。その間に、何があった?」


町を転々とした。人間に紛れて生きた。多くの人間と出会い、その全てを見送った。


「何も、残らなかった」


撫子の声が、虚ろに響いた。


「撫子様」


背後から、紗世の声が聞こえた。


振り返ると、紗世が立っていた。洋装に身を包んだ紗世は、二百年前と変わらぬ姿だった。


「また、考え込んでおいでですか」


「紗世……」


撫子は目を伏せた。


「私は、何のために生きているの?」


「撫子様」


紗世が近づいてきた。


「私がいます」


また、その言葉。


二百年間、何度聞いただろう。だが、その言葉だけが、撫子を支えていた。


「紗世……あなたがいなければ、私は……」


「私は、ずっと撫子様の側にいます」


紗世が、撫子の手を取った。


「二百年前も、今も、これからも。永遠に」


撫子の目に、涙が滲んだ。


「ありがとう、紗世」


紗世だけが、撫子の唯一の支えだった。


この手を離したら、撫子は虚無の中に沈んでしまう。それだけは、確かだった。


   *


明治も終わりに近づいていた。


撫子と紗世は、また新しい町へ引っ越そうとしていた。十年が経ち、周囲の人間が不審に思い始めている。いつものことだった。


荷物をまとめながら、撫子は呟いた。


「まだ、終わらないのね……この永遠は」


「はい」


紗世が答えた。


「まだ、終わりません」


「何百年、何千年と、こうして生き続けるのかしら」


撫子は窓の外を見た。夜の町に、ガス灯が灯っている。二百年前には想像もできなかった光景。


「時代は変わっていく。でも、私たちは変わらない」


「撫子様」


紗世が、撫子の傍に立った。


「でも、撫子様。いつか……」


「いつか……?」


撫子は振り返った。


紗世は、微かに微笑んでいた。


「いつか、撫子様が笑える日が来ると信じています」


「笑える日……」


撫子は、その言葉を噛みしめた。


二百年間、心から笑ったことなどなかった。復讐を果たした後、撫子の心は空っぽのままだった。


だが、紗世はそう言った。いつか、笑える日が来ると。


「そんな日が、来るのかしら」


「来ます」


紗世は断言した。


「私が、そばにいますから」


撫子は、微かに微笑んだ。


心からの笑みではなかった。だが、紗世の言葉に、少しだけ救われた気がした。


「行きましょう、紗世」


撫子は立ち上がった。


「新しい町へ。新しい時代へ」


紗世が頷いた。


二人は、新しい時代へ歩き出した。


明治が終わり、大正が始まろうとしていた。


永遠は、まだ続く。

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