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緋色の月に抱かれて ―永遠の孤独と四つ葉の誓い―  作者: 月代 緋色


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血の殲滅

月明かりの下、二人は歩いていた。


焼け跡の村を離れ、山道を越え、やがて見えてきたのは、隣藩の領地だった。清隆の実家——藤原家の屋敷がある場所。


撫子は無言で歩き続けた。隣には紗世がいる。二人の足音だけが、静かな夜に響いている。


「撫子様」


紗世が、静かに口を開いた。


「私は、ずっと側にいます」


撫子は足を止めなかった。ただ、小さく頷いた。


「分かっているわ」


風が吹いた。木々がざわめき、月が雲間から顔を出す。銀色の光が、二人の姿を照らし出した。


「これで、本当に終わる」


撫子は呟いた。


「清隆を殺した。でも、あの男を送り込んだ一族がまだ残っている。父上を陥れ、母上を殺し、小百合を……」


声が震えた。撫子は唇を噛んだ。


「一人残らず、殺す」


その言葉には、揺るぎない決意が込められていた。


やがて、木々の向こうに灯りが見えてきた。藤原家の屋敷。高い塀に囲まれた、広大な敷地。


撫子の目が、紅く輝いた。


   *


藤原雅は、鏡の前に座っていた。


夜も更けたというのに、眠る気にはなれなかった。高価な化粧品を並べ、丁寧に肌を整えていく。鏡の中の自分を見つめながら、雅は微かに微笑んだ。


四十を過ぎても、まだ美しさは衰えていない。そう信じていた。そう信じなければ、生きていけなかった。


かつて、雅は「この地で一番美しい女」と呼ばれていた。


若い頃から、その美貌は誰もが認めるところだった。藤原家に嫁いできた時も、周囲の者たちは雅の美しさに息を呑んだ。夫である兼定も、最初は雅を宝物のように扱った。


全てが変わったのは、あの女が現れてからだった。


撫子の母。


隣藩の重臣の妻となったあの女は、雅よりも若く、雅よりも美しかった。茶会や宴で顔を合わせるたびに、周囲の視線があの女に集まるのを、雅は歯噛みする思いで見ていた。


「藤原様の奥方も美しいが、やはり……」


「そうですな。あちらの奥方には敵わない」


そんな囁きが、雅の耳に入ってきた。


許せなかった。


あの女さえいなければ。あの女さえ消えてくれれば。


だから、撫子の家が滅んだと聞いた時——。


雅は、喜んだ。


夫や息子たちが何を企んでいたのか、雅は知らなかった。政治のことなど、女には関係ないと思っていた。ただ、結果だけを聞いた。隣藩の重臣一家が滅んだ。謀反の罪で、一族郎党処刑された。


その中に、あの女もいた。


「これで、また私が一番になれる」


雅は、そう思った。鏡の前で微笑み、新しい紅を唇に引いた。


しかし、数日前から清隆が戻ってこない。


使いの者を出しても、行方が知れない。嫌な胸騒ぎがする。何か、良くないことが起きているような——。


その時だった。


遠くで、悲鳴が聞こえた。


雅は手を止めた。空耳だろうか。しかし、また聞こえた。今度は、もっと近くで。


そして、血の匂いが漂ってきた。


   *


撫子と紗世は、夜の屋敷に忍び込んだ。


塀を越え、庭を横切り、建物の中へ。吸血鬼の身体は、人間には不可能な動きを可能にした。音もなく、影のように。


廊下は静まり返っていた。障子の向こうに、微かな灯りが見える。


見張りの使用人が一人、廊下の角に立っていた。


紗世が動いた。


音もなく近づき、背後から首を折る。使用人は声を上げる間もなく、崩れ落ちた。


「行きましょう、撫子様」


紗世の声は、平坦だった。今しがた人を殺したとは思えないほど、冷静だった。


撫子は頷き、屋敷の奥へと進んだ。


血の匂いが、少しずつ立ち込めていく。


   *


最初に見つけたのは、三男の清秀だった。


部屋の中で、書物を読んでいた。十八歳ほどの、まだ若い顔。撫子が障子を開けると、清秀は顔を上げた。


そして、凍りついた。


「撫子様……?」


信じられないという顔で、清秀は立ち上がった。


「生きて……? そんな……処刑されたはず……」


「あなたも、知っていたのでしょう?」


撫子は一歩、踏み込んだ。


「私の家を滅ぼす計画を。父上を陥れる謀略を」


「僕は何も知らない!」


清秀は後ずさった。顔が青ざめている。


「父上と兄上が……僕は、ただ言われた通りに……!」


「嘘を」


撫子の声は冷たかった。


「清隆から文が届いていたでしょう? 計画が成功した、と。あなたは、それを読んで笑っていたはず」


清秀の顔が、さらに青くなった。図星だったのだ。


「お願いします……命だけは……」


清秀は膝をついた。両手を合わせ、必死に懇願する。


「僕は、直接手を下していない……! ただ、知っていただけで……」


「知っていて、止めなかった」


撫子は清秀の前に立った。


「それは、同罪よ」


刹那、撫子の手が閃いた。


清秀の首が、宙を舞った。


血飛沫が畳を染める。首のない身体が、ゆっくりと倒れていく。


撫子は、その光景を見下ろした。


「これが、復讐……」


しかし、心は満たされなかった。何も感じなかった。ただ、虚しさだけが胸に広がっていく。


   *


次男の清次は、自室で酒を飲んでいた。


女を二人侍らせ、上機嫌で杯を傾けている。撫子が障子を開けても、最初は気づかなかった。


「誰だ……?」


振り返った清次は、撫子の姿を見て目を見開いた。


そして——笑った。


「おや、これは。撫子殿ではないか」


清次は立ち上がり、撫子に近づいた。酒の匂いが漂ってくる。


「死んだはずでは? いや、幽霊か? それとも、処刑を逃れたのか」


「逃れた、というより……」


撫子は静かに言った。


「生き延びた。復讐のために」


「復讐?」


清次は嘲笑った。


「お前の家が燃えるのを、俺は見ていたぞ。高台から、酒を飲みながらな。面白かった。あの傲慢な重臣一家が、火に包まれていく様は」


撫子の目が、紅く燃えた。


「お前の母親も、妹も、使用人たちも、みんな燃えた。断末魔の悲鳴が、ここまで聞こえてきた。いい気味だと思ったよ」


「黙りなさい」


「お前の父親は、俺たちを見下していた。いつも偉そうに……だから、滅ぼしてやった。当然の報いだ」


「黙れと言っている」


撫子の手が、清次の首を掴んだ。


清次の顔が、恐怖に歪んだ。笑みが消え、目が見開かれる。


「な……お前、人間じゃ……」


「ええ、人間ではないわ」


撫子は囁いた。


「お前たちが、私を化け物に変えたの」


清次の首が、握り潰された。


侍っていた女たちが悲鳴を上げ、逃げ出していく。撫子は追わなかった。彼女たちに罪はない。


血に染まった手を見下ろし、撫子は呟いた。


「なぜ……なぜ、満たされないの……」


清次の死体が、床に転がっている。復讐を果たしているはずなのに、心は空っぽのままだった。


   *


雅は、恐る恐る廊下を歩いていた。


悲鳴が聞こえた方向へ。血の匂いが濃くなっていく。


清秀の部屋の前に来た時、雅は足を止めた。


障子が開いている。中を覗き込んで——雅は悲鳴を上げそうになった。


清秀の首が、転がっていた。


「そんな……清秀……」


雅は口元を押さえ、よろめきながら後ずさった。


清次の部屋へ向かう。そこにも、息子の死体があった。


「嘘……嘘よ……」


雅の足が震えた。何が起きているのか、理解が追いつかない。


廊下を歩く足音が聞こえた。


雅は振り返った。


月明かりの中に、人影が立っていた。


血に染まった着物。乱れた黒髪。そして——紅く輝く瞳。


「撫子様……?」


雅は呻いた。


「死んだはずでは……処刑されたはず……」


撫子は無言で近づいてきた。その後ろには、もう一人の影。


「私は……ただ……」


雅は後ずさった。


「私は、何も知らなかった……!」


「知らなかった?」


撫子の声は、冷たかった。


「夫や息子たちが何をしていたか、本当に知らなかったの?」


「知らなかった……! 政治のことなど、私には……」


「では、私の家が滅んだと聞いた時、何を思った?」


雅は言葉に詰まった。


撫子が、さらに一歩近づいた。


「嬉しかったのでしょう? 私の母が死んで、喜んでいたのでしょう?」


「それは……」


「母を、妬んでいたのは知っているわ。母が現れてから、あなたの顔はいつも歪んでいた。茶会で顔を合わせるたびに、憎悪の目で見ていた」


雅の顔が、蒼白になった。


「違う……私は……」


「関係ない?」


撫子の声が震えた。


「母が……」


一歩、近づく。


「小百合が……」


また一歩。


「なぜ、殺されなければならなかったの?」


雅は壁際まで追い詰められた。逃げ場がない。


「あなたは直接手を下していない。でも、喜んでいた。私の家族が死んで、喜んでいた」


「助けて……!」


雅は泣き崩れた。


「私は何も知らない……! 関係ない……! 私は関係ないのよ……!」


「関係ない人たちまで、死ななければならなかったの?」


撫子が、雅の首に手をかけた。


「使用人たちは、何も知らなかった。小百合は、まだ十歳だった。母は、ただ父の妻だっただけ。なのに、皆殺しにされた」


「やめて……!」


雅は喘いだ。


「清隆は……! 清隆なら、助けてくれる……!」


「既に、殺しました」


雅の目が、絶望に見開かれた。


「嘘……」


「あなたの息子は、最期まで醜かった。女や子どもの血を差し出すと言って、命乞いをしていたわ」


雅の顔から、血の気が引いた。


「さようなら」


撫子は、雅の首を折った。


軽い音がして、雅の身体が崩れ落ちた。鏡の前で美しさを競っていた女は、もう動かない。


撫子は、その死体を見下ろした。


何も感じなかった。


憎んでいたはずだった。母を妬み、私の家族の死を喜んでいた女。殺せば、少しは心が晴れると思っていた。


何も、変わらなかった。


   *


最後に残ったのは、藤原兼定。


清隆の父にして、全ての黒幕。


撫子は、兼定の書斎へと向かった。


障子を開けると、兼定は文机の前に座っていた。まるで、撫子が来ることを知っていたかのように、平然とした顔で。


「よく来たな、撫子殿」


兼定は立ち上がり、撫子を見た。


「いや、今は撫子殿とは呼べぬか。人間ではなくなったようだな」


「あなたが、全ての黒幕……」


撫子は言った。


「私の父を陥れ、家を滅ぼし、家族を殺した」


「その通りだ」


兼定は、悪びれる様子もなく認めた。


「お前の父は、邪魔だったのだ。有能すぎた。このまま出世を続ければ、我が藤原家を脅かす存在になる。だから、潰した」


「そのために、清隆を私に近づけたのですか」


「そうだ」


兼定は頷いた。


「清隆には、お前に取り入り、情報を集めるよう命じた。お前の父の弱みを探り、陥れる材料を集めろと。清隆は、よくやってくれた」


撫子の拳が、握りしめられた。


「全ては、我が家の繁栄のため」


兼定は続けた。


「お前の父が滅べば、その地位は我が家のものになる。実際、そうなった。今、この地で最も力を持つのは藤原家だ」


「だから、罪のない者たちまで殺したのですか」


「証人は、残してはおけぬ」


兼定は冷酷に言った。


「お前の母も、妹も、使用人たちも、全て始末する必要があった。一人でも生き残れば、真実が明るみに出る可能性がある」


撫子は、言葉を失った。


全てが計算づくだった。自分たちの命も、家族の命も、全てはこの男の野心のために奪われた。


「復讐では、心は満たされぬぞ」


兼定が言った。


「私を殺しても、お前の家族は戻らぬ。お前の人間としての日々も、戻らぬ。お前は永遠に、虚無を抱えて生きていくのだ」


「黙れ」


撫子の声は、低かった。


「お前に、何が分かる」


「分かるとも。私も、同じだからな」


兼定は微笑んだ。


「私とて、若い頃は野心に燃えていた。邪魔者を排除し、のし上がってきた。だが、気づけば心は空っぽだ。権力を手に入れても、何も満たされぬ」


「だから、私も同じだと?」


「そうだ。お前も、永遠にその虚無を抱えて生きていく。復讐を果たしても、決して満たされることはない」


撫子は、兼定の前に立った。


「それでも」


「構わない」


撫子は言った。


「満たされなくても、構わない。あなたたちを生かしておくことは、できない」


「そうか」


兼定は目を閉じた。


「ならば、好きにするがいい」


撫子の手が、兼定の胸を貫いた。


兼定の身体が、崩れ落ちる。血が畳に広がっていく。


「終わった……」


撫子は呟いた。


「これで、全て……」


しかし、心は空っぽだった。


兼定の言葉が、頭の中で響いている。


「復讐では、心は満たされぬ」


分かっていた。分かっていて、それでも止められなかった。


撫子は、血に染まった手を見下ろした。


何人殺しただろう。清隆、志乃、清秀、清次、雅、兼定。それ以外にも、道中で何人も殺した。


その全てが、無駄だったのだろうか。


答えは、出なかった。


   *


屋敷を出ると、紗世が待っていた。


月明かりの下、血に染まった着物で立っている紗世は、無表情だった。


「終わりましたか、撫子様」


「ええ……終わったわ」


撫子は立ち止まった。


「これで……終わったの……?」


声が震えた。


「清隆の家は、これで終わり……父上の仇は討った……母上の仇も、小百合の仇も……」


撫子は空を見上げた。月が、冷たく輝いている。


「これで、よかったのかしら……?」


答えは返ってこなかった。


復讐を果たした。でも、何も残らなかった。心は、空っぽだった。


撫子の目から、涙が溢れた。


止められなかった。堰を切ったように、涙が流れ出す。身体が震える。声を殺して泣いた。


紗世は、撫子を見つめていた。


その表情は、無表情だった。屋敷で何人もの人間を殺した。見張りの使用人たち、逃げ惑う女中たち。誰を殺しても、何も感じなかった。


紗世の心には、撫子しかいなかった。


撫子のためなら、何人でも殺せる。何百人でも、何千人でも。


それ以外のことには、何の感情も湧かない。


だが、今——撫子が泣いている。


紗世は、撫子に駆け寄った。そして、そっと抱きしめた。


「撫子様……」


撫子の身体が、紗世の腕の中で震えている。


「紗世……私は……」


「大丈夫です」


紗世は、優しく撫子を抱きしめた。


「私が、一緒にいます」


撫子は、紗世の胸で泣いた。声を殺して、嗚咽を漏らして。


「あなたを、守ります」


紗世は囁いた。


「どこへでも、一緒に行きます」


月明かりが、二人を照らしている。静かな夜。血の匂いが漂う中で、二人は抱き合っていた。


復讐は終わった。


でも、心は満たされない。


それでも、紗世がいる。


撫子は、ようやく涙を拭った。


紗世が、撫子の手を握った。冷たい手と手が、重なり合う。


「ありがとう、紗世」


「私は、ずっと撫子様の側にいます」


紗世の声は、静かだった。だが、その中には揺るぎない決意があった。


   *


二人は、村を離れた。


藤原家の屋敷を後にし、山道を歩いていく。血に染まった着物のまま、月明かりの下を。


「もう、ここには何もない」


撫子は呟いた。


「私の家も、清隆の家も、全て終わった」


紗世は黙って歩いている。


「私たちは、どこへ行けばいいの?」


撫子の問いに、紗世は答えた。


「どこへでも」


紗世は、撫子の手を握ったまま言った。


「撫子様の側に、私はいます」


空が、わずかに白み始めていた。夜明けが近い。


太陽が昇れば、二人は隠れなければならない。吸血鬼にとって、太陽は敵だ。


だが、撫子は不思議と怖くなかった。


紗世がいる。


それだけで、どんな夜明けも乗り越えられる気がした。


復讐は終わった。


これからは、ただ生きていくだけ。永遠の時の中を、二人で。


撫子は、東の空を見つめた。


薄明かりが、山の稜線を淡く照らしている。新しい一日が始まろうとしていた。


人間としての日々は終わった。


だが、吸血鬼としての日々は、これから始まる。


撫子と紗世は、手を繋いだまま、夜明けの中を歩いていった。

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