血の殲滅
八
月明かりの下、二人は歩いていた。
焼け跡の村を離れ、山道を越え、やがて見えてきたのは、隣藩の領地だった。清隆の実家——藤原家の屋敷がある場所。
撫子は無言で歩き続けた。隣には紗世がいる。二人の足音だけが、静かな夜に響いている。
「撫子様」
紗世が、静かに口を開いた。
「私は、ずっと側にいます」
撫子は足を止めなかった。ただ、小さく頷いた。
「分かっているわ」
風が吹いた。木々がざわめき、月が雲間から顔を出す。銀色の光が、二人の姿を照らし出した。
「これで、本当に終わる」
撫子は呟いた。
「清隆を殺した。でも、あの男を送り込んだ一族がまだ残っている。父上を陥れ、母上を殺し、小百合を……」
声が震えた。撫子は唇を噛んだ。
「一人残らず、殺す」
その言葉には、揺るぎない決意が込められていた。
やがて、木々の向こうに灯りが見えてきた。藤原家の屋敷。高い塀に囲まれた、広大な敷地。
撫子の目が、紅く輝いた。
*
藤原雅は、鏡の前に座っていた。
夜も更けたというのに、眠る気にはなれなかった。高価な化粧品を並べ、丁寧に肌を整えていく。鏡の中の自分を見つめながら、雅は微かに微笑んだ。
四十を過ぎても、まだ美しさは衰えていない。そう信じていた。そう信じなければ、生きていけなかった。
かつて、雅は「この地で一番美しい女」と呼ばれていた。
若い頃から、その美貌は誰もが認めるところだった。藤原家に嫁いできた時も、周囲の者たちは雅の美しさに息を呑んだ。夫である兼定も、最初は雅を宝物のように扱った。
全てが変わったのは、あの女が現れてからだった。
撫子の母。
隣藩の重臣の妻となったあの女は、雅よりも若く、雅よりも美しかった。茶会や宴で顔を合わせるたびに、周囲の視線があの女に集まるのを、雅は歯噛みする思いで見ていた。
「藤原様の奥方も美しいが、やはり……」
「そうですな。あちらの奥方には敵わない」
そんな囁きが、雅の耳に入ってきた。
許せなかった。
あの女さえいなければ。あの女さえ消えてくれれば。
だから、撫子の家が滅んだと聞いた時——。
雅は、喜んだ。
夫や息子たちが何を企んでいたのか、雅は知らなかった。政治のことなど、女には関係ないと思っていた。ただ、結果だけを聞いた。隣藩の重臣一家が滅んだ。謀反の罪で、一族郎党処刑された。
その中に、あの女もいた。
「これで、また私が一番になれる」
雅は、そう思った。鏡の前で微笑み、新しい紅を唇に引いた。
しかし、数日前から清隆が戻ってこない。
使いの者を出しても、行方が知れない。嫌な胸騒ぎがする。何か、良くないことが起きているような——。
その時だった。
遠くで、悲鳴が聞こえた。
雅は手を止めた。空耳だろうか。しかし、また聞こえた。今度は、もっと近くで。
そして、血の匂いが漂ってきた。
*
撫子と紗世は、夜の屋敷に忍び込んだ。
塀を越え、庭を横切り、建物の中へ。吸血鬼の身体は、人間には不可能な動きを可能にした。音もなく、影のように。
廊下は静まり返っていた。障子の向こうに、微かな灯りが見える。
見張りの使用人が一人、廊下の角に立っていた。
紗世が動いた。
音もなく近づき、背後から首を折る。使用人は声を上げる間もなく、崩れ落ちた。
「行きましょう、撫子様」
紗世の声は、平坦だった。今しがた人を殺したとは思えないほど、冷静だった。
撫子は頷き、屋敷の奥へと進んだ。
血の匂いが、少しずつ立ち込めていく。
*
最初に見つけたのは、三男の清秀だった。
部屋の中で、書物を読んでいた。十八歳ほどの、まだ若い顔。撫子が障子を開けると、清秀は顔を上げた。
そして、凍りついた。
「撫子様……?」
信じられないという顔で、清秀は立ち上がった。
「生きて……? そんな……処刑されたはず……」
「あなたも、知っていたのでしょう?」
撫子は一歩、踏み込んだ。
「私の家を滅ぼす計画を。父上を陥れる謀略を」
「僕は何も知らない!」
清秀は後ずさった。顔が青ざめている。
「父上と兄上が……僕は、ただ言われた通りに……!」
「嘘を」
撫子の声は冷たかった。
「清隆から文が届いていたでしょう? 計画が成功した、と。あなたは、それを読んで笑っていたはず」
清秀の顔が、さらに青くなった。図星だったのだ。
「お願いします……命だけは……」
清秀は膝をついた。両手を合わせ、必死に懇願する。
「僕は、直接手を下していない……! ただ、知っていただけで……」
「知っていて、止めなかった」
撫子は清秀の前に立った。
「それは、同罪よ」
刹那、撫子の手が閃いた。
清秀の首が、宙を舞った。
血飛沫が畳を染める。首のない身体が、ゆっくりと倒れていく。
撫子は、その光景を見下ろした。
「これが、復讐……」
しかし、心は満たされなかった。何も感じなかった。ただ、虚しさだけが胸に広がっていく。
*
次男の清次は、自室で酒を飲んでいた。
女を二人侍らせ、上機嫌で杯を傾けている。撫子が障子を開けても、最初は気づかなかった。
「誰だ……?」
振り返った清次は、撫子の姿を見て目を見開いた。
そして——笑った。
「おや、これは。撫子殿ではないか」
清次は立ち上がり、撫子に近づいた。酒の匂いが漂ってくる。
「死んだはずでは? いや、幽霊か? それとも、処刑を逃れたのか」
「逃れた、というより……」
撫子は静かに言った。
「生き延びた。復讐のために」
「復讐?」
清次は嘲笑った。
「お前の家が燃えるのを、俺は見ていたぞ。高台から、酒を飲みながらな。面白かった。あの傲慢な重臣一家が、火に包まれていく様は」
撫子の目が、紅く燃えた。
「お前の母親も、妹も、使用人たちも、みんな燃えた。断末魔の悲鳴が、ここまで聞こえてきた。いい気味だと思ったよ」
「黙りなさい」
「お前の父親は、俺たちを見下していた。いつも偉そうに……だから、滅ぼしてやった。当然の報いだ」
「黙れと言っている」
撫子の手が、清次の首を掴んだ。
清次の顔が、恐怖に歪んだ。笑みが消え、目が見開かれる。
「な……お前、人間じゃ……」
「ええ、人間ではないわ」
撫子は囁いた。
「お前たちが、私を化け物に変えたの」
清次の首が、握り潰された。
侍っていた女たちが悲鳴を上げ、逃げ出していく。撫子は追わなかった。彼女たちに罪はない。
血に染まった手を見下ろし、撫子は呟いた。
「なぜ……なぜ、満たされないの……」
清次の死体が、床に転がっている。復讐を果たしているはずなのに、心は空っぽのままだった。
*
雅は、恐る恐る廊下を歩いていた。
悲鳴が聞こえた方向へ。血の匂いが濃くなっていく。
清秀の部屋の前に来た時、雅は足を止めた。
障子が開いている。中を覗き込んで——雅は悲鳴を上げそうになった。
清秀の首が、転がっていた。
「そんな……清秀……」
雅は口元を押さえ、よろめきながら後ずさった。
清次の部屋へ向かう。そこにも、息子の死体があった。
「嘘……嘘よ……」
雅の足が震えた。何が起きているのか、理解が追いつかない。
廊下を歩く足音が聞こえた。
雅は振り返った。
月明かりの中に、人影が立っていた。
血に染まった着物。乱れた黒髪。そして——紅く輝く瞳。
「撫子様……?」
雅は呻いた。
「死んだはずでは……処刑されたはず……」
撫子は無言で近づいてきた。その後ろには、もう一人の影。
「私は……ただ……」
雅は後ずさった。
「私は、何も知らなかった……!」
「知らなかった?」
撫子の声は、冷たかった。
「夫や息子たちが何をしていたか、本当に知らなかったの?」
「知らなかった……! 政治のことなど、私には……」
「では、私の家が滅んだと聞いた時、何を思った?」
雅は言葉に詰まった。
撫子が、さらに一歩近づいた。
「嬉しかったのでしょう? 私の母が死んで、喜んでいたのでしょう?」
「それは……」
「母を、妬んでいたのは知っているわ。母が現れてから、あなたの顔はいつも歪んでいた。茶会で顔を合わせるたびに、憎悪の目で見ていた」
雅の顔が、蒼白になった。
「違う……私は……」
「関係ない?」
撫子の声が震えた。
「母が……」
一歩、近づく。
「小百合が……」
また一歩。
「なぜ、殺されなければならなかったの?」
雅は壁際まで追い詰められた。逃げ場がない。
「あなたは直接手を下していない。でも、喜んでいた。私の家族が死んで、喜んでいた」
「助けて……!」
雅は泣き崩れた。
「私は何も知らない……! 関係ない……! 私は関係ないのよ……!」
「関係ない人たちまで、死ななければならなかったの?」
撫子が、雅の首に手をかけた。
「使用人たちは、何も知らなかった。小百合は、まだ十歳だった。母は、ただ父の妻だっただけ。なのに、皆殺しにされた」
「やめて……!」
雅は喘いだ。
「清隆は……! 清隆なら、助けてくれる……!」
「既に、殺しました」
雅の目が、絶望に見開かれた。
「嘘……」
「あなたの息子は、最期まで醜かった。女や子どもの血を差し出すと言って、命乞いをしていたわ」
雅の顔から、血の気が引いた。
「さようなら」
撫子は、雅の首を折った。
軽い音がして、雅の身体が崩れ落ちた。鏡の前で美しさを競っていた女は、もう動かない。
撫子は、その死体を見下ろした。
何も感じなかった。
憎んでいたはずだった。母を妬み、私の家族の死を喜んでいた女。殺せば、少しは心が晴れると思っていた。
何も、変わらなかった。
*
最後に残ったのは、藤原兼定。
清隆の父にして、全ての黒幕。
撫子は、兼定の書斎へと向かった。
障子を開けると、兼定は文机の前に座っていた。まるで、撫子が来ることを知っていたかのように、平然とした顔で。
「よく来たな、撫子殿」
兼定は立ち上がり、撫子を見た。
「いや、今は撫子殿とは呼べぬか。人間ではなくなったようだな」
「あなたが、全ての黒幕……」
撫子は言った。
「私の父を陥れ、家を滅ぼし、家族を殺した」
「その通りだ」
兼定は、悪びれる様子もなく認めた。
「お前の父は、邪魔だったのだ。有能すぎた。このまま出世を続ければ、我が藤原家を脅かす存在になる。だから、潰した」
「そのために、清隆を私に近づけたのですか」
「そうだ」
兼定は頷いた。
「清隆には、お前に取り入り、情報を集めるよう命じた。お前の父の弱みを探り、陥れる材料を集めろと。清隆は、よくやってくれた」
撫子の拳が、握りしめられた。
「全ては、我が家の繁栄のため」
兼定は続けた。
「お前の父が滅べば、その地位は我が家のものになる。実際、そうなった。今、この地で最も力を持つのは藤原家だ」
「だから、罪のない者たちまで殺したのですか」
「証人は、残してはおけぬ」
兼定は冷酷に言った。
「お前の母も、妹も、使用人たちも、全て始末する必要があった。一人でも生き残れば、真実が明るみに出る可能性がある」
撫子は、言葉を失った。
全てが計算づくだった。自分たちの命も、家族の命も、全てはこの男の野心のために奪われた。
「復讐では、心は満たされぬぞ」
兼定が言った。
「私を殺しても、お前の家族は戻らぬ。お前の人間としての日々も、戻らぬ。お前は永遠に、虚無を抱えて生きていくのだ」
「黙れ」
撫子の声は、低かった。
「お前に、何が分かる」
「分かるとも。私も、同じだからな」
兼定は微笑んだ。
「私とて、若い頃は野心に燃えていた。邪魔者を排除し、のし上がってきた。だが、気づけば心は空っぽだ。権力を手に入れても、何も満たされぬ」
「だから、私も同じだと?」
「そうだ。お前も、永遠にその虚無を抱えて生きていく。復讐を果たしても、決して満たされることはない」
撫子は、兼定の前に立った。
「それでも」
「構わない」
撫子は言った。
「満たされなくても、構わない。あなたたちを生かしておくことは、できない」
「そうか」
兼定は目を閉じた。
「ならば、好きにするがいい」
撫子の手が、兼定の胸を貫いた。
兼定の身体が、崩れ落ちる。血が畳に広がっていく。
「終わった……」
撫子は呟いた。
「これで、全て……」
しかし、心は空っぽだった。
兼定の言葉が、頭の中で響いている。
「復讐では、心は満たされぬ」
分かっていた。分かっていて、それでも止められなかった。
撫子は、血に染まった手を見下ろした。
何人殺しただろう。清隆、志乃、清秀、清次、雅、兼定。それ以外にも、道中で何人も殺した。
その全てが、無駄だったのだろうか。
答えは、出なかった。
*
屋敷を出ると、紗世が待っていた。
月明かりの下、血に染まった着物で立っている紗世は、無表情だった。
「終わりましたか、撫子様」
「ええ……終わったわ」
撫子は立ち止まった。
「これで……終わったの……?」
声が震えた。
「清隆の家は、これで終わり……父上の仇は討った……母上の仇も、小百合の仇も……」
撫子は空を見上げた。月が、冷たく輝いている。
「これで、よかったのかしら……?」
答えは返ってこなかった。
復讐を果たした。でも、何も残らなかった。心は、空っぽだった。
撫子の目から、涙が溢れた。
止められなかった。堰を切ったように、涙が流れ出す。身体が震える。声を殺して泣いた。
紗世は、撫子を見つめていた。
その表情は、無表情だった。屋敷で何人もの人間を殺した。見張りの使用人たち、逃げ惑う女中たち。誰を殺しても、何も感じなかった。
紗世の心には、撫子しかいなかった。
撫子のためなら、何人でも殺せる。何百人でも、何千人でも。
それ以外のことには、何の感情も湧かない。
だが、今——撫子が泣いている。
紗世は、撫子に駆け寄った。そして、そっと抱きしめた。
「撫子様……」
撫子の身体が、紗世の腕の中で震えている。
「紗世……私は……」
「大丈夫です」
紗世は、優しく撫子を抱きしめた。
「私が、一緒にいます」
撫子は、紗世の胸で泣いた。声を殺して、嗚咽を漏らして。
「あなたを、守ります」
紗世は囁いた。
「どこへでも、一緒に行きます」
月明かりが、二人を照らしている。静かな夜。血の匂いが漂う中で、二人は抱き合っていた。
復讐は終わった。
でも、心は満たされない。
それでも、紗世がいる。
撫子は、ようやく涙を拭った。
紗世が、撫子の手を握った。冷たい手と手が、重なり合う。
「ありがとう、紗世」
「私は、ずっと撫子様の側にいます」
紗世の声は、静かだった。だが、その中には揺るぎない決意があった。
*
二人は、村を離れた。
藤原家の屋敷を後にし、山道を歩いていく。血に染まった着物のまま、月明かりの下を。
「もう、ここには何もない」
撫子は呟いた。
「私の家も、清隆の家も、全て終わった」
紗世は黙って歩いている。
「私たちは、どこへ行けばいいの?」
撫子の問いに、紗世は答えた。
「どこへでも」
紗世は、撫子の手を握ったまま言った。
「撫子様の側に、私はいます」
空が、わずかに白み始めていた。夜明けが近い。
太陽が昇れば、二人は隠れなければならない。吸血鬼にとって、太陽は敵だ。
だが、撫子は不思議と怖くなかった。
紗世がいる。
それだけで、どんな夜明けも乗り越えられる気がした。
復讐は終わった。
これからは、ただ生きていくだけ。永遠の時の中を、二人で。
撫子は、東の空を見つめた。
薄明かりが、山の稜線を淡く照らしている。新しい一日が始まろうとしていた。
人間としての日々は終わった。
だが、吸血鬼としての日々は、これから始まる。
撫子と紗世は、手を繋いだまま、夜明けの中を歩いていった。




