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緋色の月に抱かれて ―永遠の孤独と四つ葉の誓い―  作者: 月代 緋色


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虚無の夜

今回は少し長くなりました

終わった。


撫子は、足元に転がる清隆の首を見下ろしていた。


月光が木々の隙間から差し込み、切り口から溢れる血を銀色に照らしている。森の中の小さな空き地。清隆が転び、這いつくばって命乞いをした場所。かつて甘い言葉を囁いた唇は半開きのまま凍りつき、撫子を見つめていた瞳は、もう何も映してはいない。


これが、復讐の結末。


これが、全ての終わり。


撫子は、自分の心の奥底を探った。勝利の喜び。達成感。満足。そのどれかがあるはずだった。父を殺し、母を殺し、小百合を殺し、屋敷の者たちを皆殺しにした男を、ついに討ち取ったのだ。


なのに。


胸の奥にあるのは、空洞だった。


「……なぜ」


声が漏れた。自分でも驚くほど、虚ろな声だった。


「なぜ、何も感じないの」


血の匂いが鼻腔を満たしている。清隆の血。道中で殺した者たちの血。この森は死の匂いで充満している。だが、その匂いさえも、撫子の心には何の波紋も立てなかった。


復讐を夢見ていた時は、違った。


牢獄の中で、処刑を待ちながら、撫子は復讐だけを考えていた。清隆を殺す。その瞬間を何度も想像した。首を刎ねる時、どれほどの喜びを感じるだろうか。どれほどの達成感があるだろうか。父や母や小百合の無念を晴らした時、どれほど心が満たされるだろうか。


だが、現実は違った。


清隆の首を刎ねた瞬間、撫子が感じたのは虚無だけだった。


何もない。


喜びもない。達成感もない。満足もない。


ただ、空っぽだった。


風が吹いた。冷たい山風が、木々の間を抜けて撫子の髪を揺らす。葉がざわめき、月明かりが揺らいだ。


ふと、視界の隅に影が見えた。


撫子は息を呑んだ。


木立の向こうに、人が立っている。


いや、違う。立っているのではない。そこに、在る。


父だった。


厳めしい顔つき。だが、その奥に隠された優しさ。撫子をいつも見守ってくれていた、あの眼差し。武士としての威厳を纏いながら、家族の前では穏やかだった父。


「父上……」


声にならない声が漏れた。


だが、父は何も言わなかった。ただ、悲しげな目で撫子を見つめている。月光を受けて、その姿は半透明に揺らめいていた。


「父上、私は……仇を討ちました。清隆を、殺しました」


父は答えない。


「お喜びください。父上の無念を、私が晴らしました。母上の無念も。小百合の無念も。屋敷の皆の無念も」


それでも、父は答えない。ただ、首を横に振った。ゆっくりと。悲しげに。まるで、それは望んでいなかったとでも言うように。


「なぜ……なぜですか、父上」


問いかけようとした瞬間、父の姿が揺らいだ。影が薄れ、月光に溶けていく。木の葉が風に舞い、その向こうで父の輪郭がぼやけていく。


「待って……」


手を伸ばした。だが、指先は虚空を掴むだけだった。冷たい夜気だけが、指の間をすり抜けていく。


父は消えた。


代わりに、別の影が現れた。


母だった。


穏やかな微笑み。優しい眼差し。いつも撫子を包んでくれた、あの温もりを纏った姿。絹のような黒髪を後ろで結い、上品な着物を纏っている。生前と同じ姿で、そこに立っていた。


「母上……」


母もまた、何も言わなかった。ただ、撫子を見つめている。その目には、言葉にできない悲しみが宿っていた。かつて撫子を優しく包んでくれたその目が、今は深い憂いを湛えている。


「母上、私は……」


何を言えばいいのか、分からなかった。


母は、ゆっくりと首を傾げた。まるで、「本当にそれでよかったの」と問うているかのように。その仕草は生前と同じで、撫子の胸が締め付けられた。


「私は……正しいことをしたはずです。父上と母上と小百合を殺した男を、討ちました。復讐を果たしました」


母の姿が揺らぐ。月光の中で、透明になっていく。


「待ってください、母上……」


だが、母もまた、月光の中に消えていった。風が吹き、落ち葉が舞い、その中で母の姿は霧のように散っていった。


そして、三つ目の影が現れた。


撫子の心臓が、止まった。


小百合だった。


十歳の妹。無邪気な笑顔。いつも撫子の後ろをついてきた、小さな影。あどけない顔。まだ幼さの残る頬。結い上げた黒髪に、小さな簪を挿している。


「お姉様」


声が聞こえた。幼い、澄んだ声。生前と変わらない、あの無邪気な声。


「小百合……」


「お姉様、どうして泣いてるの?」


泣いている?


撫子は頬に手を当てた。冷たい雫が、指を濡らしていた。いつの間にか、涙が流れていた。


「小百合、私は……」


「お姉様、血の匂いがする」


小百合が、首を傾げた。その仕草は無邪気だったが、目には戸惑いが浮かんでいた。


「たくさん、血の匂い。お姉様の着物も、手も、血だらけ」


撫子は自分の姿を見下ろした。着物は返り血で斑に染まり、手は乾いた血で赤黒くなっている。


「お姉様、怖い」


その言葉が、撫子の胸を貫いた。


「違う、小百合、私は……お前のために……」


だが、小百合の姿は揺らぎ始めていた。その幼い顔に、恐怖の色が浮かんでいる。大きな瞳が、怯えたように揺れている。


「お姉様じゃない」


小百合が、後ずさった。


「お姉様じゃない……化け物……怖い……」


「小百合……!」


手を伸ばした。だが、指先が触れる前に、小百合は消えた。月光の中に、影のように溶けて。悲鳴のような風の音だけが、後に残った。


森の中に、撫子だけが残された。


膝から力が抜けた。落ち葉の積もった地面に手をついて、撫子は呼吸を整えようとした。だが、息は乱れ、心臓は軋みを上げている。


幻だ。


父も、母も、小百合も、全て幻だ。


死者が現れるはずがない。彼らはもう、この世にはいない。


「分かっている……」


撫子は、自分に言い聞かせた。


「分かっている。でも……」


清隆の首が、少し離れた場所に転がっている。血溜まりの中で、虚ろな目が夜空を見上げている。


復讐は終わった。


なのに、なぜこんなにも虚しいのか。


家族の幻は、撫子を祝福してくれなかった。喜んでくれなかった。ただ、悲しげに見つめ、恐れ、そして消えていった。


「私は……間違っていたの……?」


問いかけても、答える者はいない。


死体だけが、沈黙の中で横たわっている。月だけが、冷たく見下ろしている。


撫子は立ち上がった。足が震えている。だが、ここにいてはいけない。ここにいたら、壊れてしまう。清隆の死体を見ていたら、何かが決定的に壊れてしまう気がした。


足音を立てず、撫子は森を歩き始めた。


どこへ向かうのか、自分でも分からなかった。ただ、ここではない場所へ。清隆の死体がない場所へ。


山の冷気が肌を包む。だが、吸血鬼となった今の体には、寒さなど感じない。ただ、心だけが凍えていた。


振り返ることはなかった。


月だけが、撫子の背中を照らしている。


「これで……終わった」


声に出してみても、その言葉は虚ろに響くだけだった。


復讐は終わった。


ならば、これからどうすればいい。


答えは、どこにもなかった。


   *


足が向くまま、撫子は山を下りた。


獣道を辿り、沢を越え、いつしか見覚えのある景色の中にいた。ここは、かつて撫子の家があった場所の近く。だが今は、焼け跡だけが広がっている。


歩きながら、撫子の脳裏に過去が蘇ってきた。


父との最後の会話を思い出す。


あれは、襲撃の前日のことだった。夕暮れ時、父の書斎に呼ばれた撫子は、畳に手をついて正座していた。障子の向こうには、茜色に染まった空が見えていた。


「撫子」


父の声は、いつになく硬かった。文机の向こうに正座した父は、厳しい表情をしていた。


「清隆のことだ」


その名前を聞いた瞬間、撫子の胸は高鳴った。父がようやく、二人の仲を認めてくれるのではないか。祝言の許しを得られるのではないか。そんな期待が胸に広がった。


「はい、父上」


「あの男とは、縁を切れ」


期待は、一瞬で砕け散った。


「なぜですか」


撫子は顔を上げた。父の顔は厳しく、だが、その奥に深い憂慮が見えた。眉間には深い皺が刻まれ、口元は固く結ばれている。


「あの男の目には、愛がない」


「そのようなこと……清隆様は、私を……」


「撫子」


父が遮った。その声には、有無を言わさぬ力があった。


「私は長年、人を見てきた。政の世界で、様々な者と渡り合ってきた。人の心の裏を読み、真意を見抜くことが、私の役目だった」


父は目を細めた。


「あの男の目は、何かを企む者の目だ。お前を見る目に、真の情がない。口では甘い言葉を並べているが、その奥にあるのは打算だ」


「父上の思い過ごしです」


撫子は反論した。若さゆえの、愚かな自信だった。


「清隆様は、優しい方です。私を大切にしてくださいます。文を交わし、共に過ごした時間の中で、私には分かります。あの方の愛は本物です。将来を約束してくださいました」


「言葉だけなら、いくらでも紡げる」


父は目を伏せた。


「撫子、お前は賢い子だと思っていた。だが、恋は人の目を曇らせる。愛していると思い込めば、真実が見えなくなる」


「父上……」


「頼む、撫子」


父が、頭を下げた。


撫子は息を呑んだ。威厳ある父が、娘に頭を下げるなど、見たことがなかった。畳に手をつき、深々と頭を下げる父の姿は、撫子の心を激しく揺さぶった。


「あの男から離れてくれ。お前を守りたいのだ。お前はこの家の宝だ。お前を失うわけにはいかない」


その時、撫子は何と答えたのだったか。


「……申し訳ございません、父上。私には、できません」


父は長い間、黙っていた。頭を下げたまま、動かなかった。やがて、ゆっくりと顔を上げた時、その目には諦めと悲しみが混じっていた。


「そうか」


短い言葉だった。だが、その中に、どれほどの想いが込められていたのだろう。


「ならば、せめて気をつけてくれ。何かあれば、すぐに私のところへ来るのだ。約束してくれ」


「はい、父上」


それが、父との最後のまともな会話だった。


翌日、屋敷は襲撃された。父は撫子を逃がすために戦い、そして死んだ。


「父上……」


月を見上げて、撫子は呟いた。


「あなたは、正しかった」


今なら分かる。父は全てを見抜いていた。清隆の本性を、その策略を。長年の経験で培った目は、若い娘が気づかなかった真実を見ていた。だが、撫子は父の言葉よりも、清隆の甘言を信じた。


その結果が、これだ。


思い出は続く。


小百合との日々が蘇る。


ある夏の日のことだった。庭の池のほとりで、撫子と小百合は並んで座っていた。蝉の声が響き、木漏れ日が水面にきらめいていた。


「お姉様、見て」


小百合が指さした先に、白い蓮の花が咲いていた。


水面に浮かぶ大きな葉。その上に、清らかな白い花弁が開いている。夏の日差しを受けて、花は神々しいまでに輝いていた。


「綺麗ね」


撫子が言うと、小百合は嬉しそうに頷いた。


「今朝咲いたの。昨日はまだ蕾だったのに」


「よく見ていたのね」


「毎日見てたもの。いつ咲くかなって」


小百合は花に見入っていた。その横顔は、まだ幼さを残しながらも、どこか芯の強さを感じさせた。


「お姉様」


「なに?」


「蓮って泥の中から咲くのよね」


「そうよ。汚い泥の中から、こんなに綺麗な花が咲くの」


「不思議ね」


小百合は首を傾げた。


「泥の中は暗くて冷たいのに、どうしてこんなに綺麗になれるの?」


「分からないわ。でも、だから蓮は特別なのかもしれないわね。汚れた場所にいても、汚れない花」


「へえ……」


小百合は、じっと花を見つめていた。そして、ふと顔を上げた。


「お姉様」


「なに?」


「蓮の花って、すぐ枯れちゃうの?」


「そうね。花は、いつか枯れるものよ」


小百合は少し悲しそうな顔をした。


「じゃあ、この花も?」


「ええ。でも、枯れても、また来年咲くわ。根はずっと生きているの。だから、花が枯れても、終わりじゃないのよ。また、新しい花が咲く」


「へえ……」


小百合は、じっと花を見つめていた。水面に映る蓮の影を、小さな指で追いかけるようにしていた。そして、ふと顔を上げた。


「お姉様」


「なに?」


「人間も、そうなの?」


「え?」


「死んでも、また会えるの?」


撫子は一瞬、言葉を失った。十歳の少女が問うには、あまりに重い問いだった。蝉の声が、急に遠くなったような気がした。


「……きっと、そうよ」


撫子は、精一杯の笑顔を作った。


「死んでも、魂はどこかで繋がっているの。だから、また会えるわ。蓮の花が毎年咲くように、私たちも、きっとまた会える」


「本当?」


「ええ、本当よ」


小百合の顔が、ぱっと明るくなった。向日葵のような笑顔だった。


「じゃあ、私がお姉様より先に死んでも、また会えるのね」


「縁起でもないことを言わないの」


撫子は笑って、小百合の頭を撫でた。柔らかい黒髪が、指の間をすり抜けていった。


「お姉様が守ってあげるから、そんなこと心配しなくていいのよ」


「うん!」


小百合は満面の笑みを浮かべた。


「私も、お姉様を守る!」


「あら、頼もしいこと」


二人は笑い合った。蓮の花が、夏の風に揺れていた。蜻蛉が水面を掠め、きらきらと光った。


あの日の約束を、撫子は守れなかった。


小百合は死んだ。守ると言ったのに、守れなかった。


そして今、撫子は人間ではなくなった。


死んでも、小百合と同じ場所へは行けないのではないか。永遠に、会えないのではないか。


蓮の花は毎年咲く。だが、小百合はもう二度と咲かない。


「小百合……」


月に向かって呟く声は、震えていた。


「ごめんなさい……」


謝っても、もう届かない。


紗世との日々も蘇る。三歳の時に屋敷に来て以来、十五年間ずっと傍にいてくれた。朝、着替えを手伝ってくれる時の真剣な顔。一緒に庭を散歩しながら交わした、何気ない会話。夜、眠れない時に付き合ってくれた月見の時間。


紗世は、撫子にとって侍女以上の存在だった。姉妹のような、あるいは半身のような。言葉にならない絆で結ばれた、かけがえのない人。


あの日、神社へ遣いに出したのが、全ての分かれ目だった。もし紗世が屋敷にいたら、一緒に死んでいただろう。それを思うと、胸が締め付けられる。


生きていてほしい。


どこかで、無事でいてほしい。


しかし、今の自分が紗世に会ったところで、何になる。化け物になった自分を見て、紗世は何を思うだろう。


そして、清隆のことを思い出す。


出会った頃の清隆。柔らかな物腰、穏やかな笑顔、知性溢れる会話。茶会で初めて言葉を交わした時、撫子の心は確かに高鳴った。文を交わし、密かに会い、将来を語り合った夜。


「撫子殿と出会えて、私は幸せ者だ」


あの言葉を、撫子は信じた。


全ては、嘘だった。


「あの日々は……全て、幻だった」


月に向かって呟く声は、震えていた。


幸せだと思っていた。愛されていると思っていた。未来を夢見ていた。


全てが、砂上の楼閣だった。


   *


気づけば、焼け跡の村を歩いていた。


かつて賑わっていたであろう通りは、今は瓦礫と灰に覆われている。家々は骨組みだけを残して崩れ落ち、焦げた匂いが夜風に混じっている。


人の気配はない。


生き残った者たちは、どこか別の場所へ逃げたのだろう。あるいは、清隆の軍勢に殺されたのかもしれない。どちらにせよ、ここには誰もいない。


撫子の足音だけが、静寂の中に響いている。


かつ、かつ、かつ。


冷たい石畳を踏む音。それは、まるで死者を弔う鉦の音のように、規則正しく鳴り続ける。


ふと、立ち止まった。


崩れかけた家の壁に、子どもの落書きがあった。人の形をした絵が三つ。父と母と子ども、だろうか。その隣に、太陽らしき丸い絵。幼い筆致で描かれた、幸せな家族の姿。


この家に住んでいた子どもは、今どこにいるのだろう。


「私は……何のために生きているのか」


問いかけても、答えは返ってこない。


   *


水の音が聞こえた。


村外れの小さな池。月明かりを受けて、水面が銀色に輝いている。焼け跡を免れたのか、周囲には枯れた葦が静かに揺れていた。


撫子は池の畔に立ち、ふと水面を覗き込んだ。


月が映っていた。


丸く、冷たく、美しい月。葦の影が揺れ、波紋が静かに広がっている。


だが、撫子の姿はどこにもなかった。


池の縁に立っているはずの自分が、水面には映っていない。月と、葦と、夜空だけが、まるで撫子など存在しないかのように揺らめいている。


「私は……化け物になった」


水面に向かって、撫子は呟いた。


手を伸ばし、水面に触れた。冷たい水が指先を濡らす。波紋が広がる。だが、その手は水面に映らない。


もう、父には会えない。


母にも、会えない。


小百合にも。


「もう……人間には戻れない」


何も映らない水面に向かって、撫子は告げた。


   *


アザールの言葉が、脳裏に蘇った。


「永遠に生きる力を与えよう」


あの夜、牢獄で出会った謎の男。最古の吸血鬼と名乗った彼は、撫子に力を与え、そして消えた。


永遠に生きる。


それは、祝福なのか、呪いなのか。


「永遠に……一人で……?」


問いかけても、答える者はいない。


この先、何百年、何千年と生き続けるとして、その間ずっと一人なのだろうか。誰とも心を通わせず、誰にも理解されず、夜の闇の中をさまよい続けるのだろうか。


恐ろしかった。


死よりも、その孤独が恐ろしかった。


今夜のような虚無を、永遠に抱え続けるのか。復讐を終えた空っぽの心で、果てしない時間を過ごすのか。


膝から力が抜け、撫子はその場にくずおれた。


冷たい土の上に座り込み、月を見上げる。丸い月が、無表情に撫子を見下ろしている。


「誰か……」


声にならない声が漏れた。


「誰か、いないの……」


答えはない。


風だけが、枯れた葦を揺らしている。


   *


「撫子様」


声が、聞こえた。


撫子の時間が、止まった。


夜風の音が遠のいていく。月光が強まり、世界が白く染まっていく。虫の音も、葦のざわめきも、全てが消えていく。


その声を、撫子は知っていた。


十五年間、毎日聞いてきた声。朝、「お目覚めでございますか」と起こしてくれた声。夜、「お休みなさいませ」と告げてくれた声。嬉しい時も、悲しい時も、いつも傍で響いていた声。


幻聴だ。


そう思った。孤独のあまり、聞きたい声が聞こえてしまったのだと。父や母や小百合の幻を見たように、今度は紗世の幻聴を聞いているのだと。


だが、その声は続いた。


「撫子様……!」


今度は、はっきりと聞こえた。


遠くから。だが、確かに。切実な響きを帯びて、夜の空気を震わせていた。


撫子はゆっくりと振り返った。


月明かりの中に、人影が立っていた。


距離がある。池の向こう、葦の茂みを越えた場所。だが、吸血鬼となった撫子の目には、はっきりと見えた。


黒い髪。細い体躯。風に揺れる着物の裾。


一歩。


人影が、踏み出した。


撫子の心臓が、大きく脈打った。止まっていたはずの心臓が、何かに応えるように動いた。


もう一歩。


人影が近づいてくる。月光を受けて、その輪郭がはっきりとしていく。葦を掻き分け、水際を回り込み、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。


撫子は動けなかった。足が地面に縫い付けられたように、動かない。


夢ではないか。


また幻を見ているのではないか。


父の幻は消えた。母の幻も消えた。小百合の幻も消えた。この人影も、きっと消えてしまうのではないか。


人影が、駆け出した。


足音が響く。草を踏みしめる音。荒い息遣い。それは幻ではありえない、確かな存在感を持っていた。


「撫子様……!」


その声が、近づいてくる。涙に濡れた、切実な声が。


撫子の目が、大きく見開かれた。


月光の下に現れたのは、紛れもなく紗世だった。


黒髪が風に乱れている。いつも丁寧に結い上げていた髪が、ほどけて肩に落ちている。着物は土埃で汚れ、裾は泥にまみれている。足袋はぼろぼろで、素足が見えている。何日も、何夜も、休むことなく走り続けてきたような姿。


だが、その顔は確かに紗世だった。


十五年間、毎日見てきた顔。撫子のために尽くしてきた、かけがえのない侍女の顔。


「紗世……?」


声が、掠れた。


信じられなかった。


夢を見ているのではないか。それとも、また死者の幻を見ているのか。消えてしまうのではないか。


だが、紗世は止まらなかった。


駆け寄ってくる。足音が近づく。月光の中を、一直線に。その足取りには迷いがなかった。まるで、何があってもこの瞬間を逃すまいとするかのように。


そして、撫子は気づいた。


紗世の瞳。


黒い瞳の奥に、紅い光が揺らめいている。人間のものではない、あの光が。


「紗世、お前……」


言葉を言い終える前に、紗世が飛び込んできた。


細い腕が、撫子の体を包み込む。強く。激しく。まるで、二度と離すまいとするかのように。十五年間、礼儀正しく控えめだった紗世が、全ての作法を忘れたかのように、撫子にしがみついていた。


「撫子様……」


紗世の声が、耳元で震えていた。


「撫子様……撫子様……」


名前を呼ぶ声は、嗚咽に近かった。


「ずっと……ずっと、探していました……」


細い肩が震えている。涙が、撫子の着物を濡らしていく。


「屋敷が焼けたと聞いて……皆が殺されたと……でも、撫子様の首だけがなくて……生きていると信じて……ずっと……」


撫子は、最初、動けなかった。腕を上げることも、言葉を発することもできなかった。


これは現実なのか。


本当に、紗世がここにいるのか。


だが、紗世の腕は確かに撫子を抱きしめていた。その温もりは幻ではなかった。震える肩も、濡れる涙も、全て現実だった。


紗世の体が、撫子を包んでいる。


温かかった。


いや、吸血鬼となった今、二人の体は同じ温度のはずだ。人間から見れば、冷たいのかもしれない。


だが、撫子には温かく感じられた。


心が、溶けていくようだった。


凍りついていた胸の奥が、少しずつ温もりを取り戻していく。虚無で満たされていた空洞に、何かが流れ込んでくる。


「紗世……」


撫子の腕が、ゆっくりと上がった。


紗世の背中に、手を回す。細い背中。華奢な肩。何日も走り続けたであろう、疲れ切った体。だが、その中に、計り知れない強さを秘めている。


撫子もまた、紗世を抱きしめ返した。


「紗世……」


声が震えた。


「生きて……いたの……」


「はい……はい……」


紗世の声も震えていた。


「撫子様こそ……ご無事で……よかった……本当に……よかった……」


二人は抱き合ったまま、しばらく動かなかった。


月だけが、静かにその姿を見下ろしている。風が止み、夜が静まり返る。世界に二人だけが存在するかのような、静謐な時間が流れていた。


どれほど時が経っただろう。


紗世が、ようやく顔を上げた。その目は赤く腫れ、頬には涙の跡があった。


「撫子様……お怪我は……」


「ないわ」


撫子は首を振った。


「私は……もう、怪我などしない体になったから」


「私も……同じでございます」


紗世が、小さく笑った。涙の跡が残る顔に浮かんだ、控えめな笑み。


「私も、撫子様と同じ存在になりました」


吸血鬼。


紗世もまた、人間ではなくなったのだ。


「なぜ……」


「撫子様をお守りするためです」


紗世は迷いなく答えた。


「屋敷が焼かれたと聞きました。皆が殺されたと。でも、撫子様の首だけがなかった。牢から逃げたと。きっと生きている、そう信じて……」


紗世の声が震えた。


「何日も、探しました。山を越え、野を渡り……途中で、あの方に会いました」


「あの方?」


「名は聞きませんでした。ただ……撫子様に会いたいかと。お守りするための力が欲しいかと」


アザール。


あの夜、撫子に力を与えた、最古の吸血鬼。


「紗世……」


撫子の胸が締め付けられた。


紗世は、撫子のために人間を捨てたのだ。永遠の孤独を、自ら選んだのだ。


「なぜ……そこまで……」


「お側に、いたかったのです」


紗世は静かに言った。


「撫子様のお側に、永遠に」


その言葉に、撫子は目を閉じた。


一人ではなかった。


永遠の孤独だと思っていた。誰にも理解されず、一人で夜を歩み続けるのだと。


だが、紗世がいた。


十五年の絆で結ばれた、かけがえのない存在が、傍にいてくれる。


   *


どれほど時が経っただろう。


二人は体を離し、向かい合った。紗世の目にも、涙の跡があった。だが、その瞳には確かな光が宿っている。


「撫子様」


紗世が、懐に手を入れた。


そして、何かを取り出した。


月光に照らされて、それが何かが分かった。


赤と白の紐で結ばれた、小さな袋。そこには、四つ葉のクローバーの刺繍が施されている。


縁結びのお守り。


あの日、撫子が紗世に頼んだもの。


「やっと……お渡しできます」


紗世が、両手でお守りを差し出した。その手は、かすかに震えていた。


「本当は、もっと早くお届けするはずでした。でも、関所で足止めされて……戻った時には、もう……」


紗世の声が途切れた。


撫子は、そのお守りを見つめた。


赤と白の紐。縁を結ぶ、二つの色。四つ葉のクローバーは、幸運と幸せの象徴。


清隆との縁を結ぶために、頼んだお守り。二人の未来を願って、神社で授かってもらったもの。


あの頃の自分は、なんと愚かだったのだろう。


「清隆と……結ばれるはずだったのに」


撫子は苦く笑った。


「全て、嘘だったわ」


「存じております」


紗世は静かに答えた。


「あの男が、撫子様を裏切ったことも。全ては、あの男の策略だったことも。志乃が手引きしたことも」


紗世の声に、静かな怒りがにじんでいた。


「あの男は……もう?」


「殺したわ」


撫子は短く答えた。


「志乃も」


「……そうですか」


紗世は深く頷いた。そして、再びお守りを差し出した。


「ですが、このお守りは無駄ではございません」


「どういうこと?」


撫子は眉をひそめた。


清隆との縁は、血で断ち切られた。あの男との未来など、最初から存在しなかったのだ。このお守りに、もう意味はないはずだった。


だが、紗世は穏やかに微笑んだ。


「縁結びとは、人と人との縁を結ぶもの」


紗世が、撫子の手を取った。そして、お守りを撫子の掌に載せた。


「清隆との縁ではありませんでした。ですが、このお守りは、別の縁を結んでくれたのだと、私は思います」


撫子は、掌の上のお守りを見つめた。


赤と白の紐。四つ葉のクローバー。


「撫子様と私の縁を」


紗世が言った。


「このお守りを届けるために、私は隣町へ行きました。そのおかげで、あの夜、屋敷にはいませんでした。生き延びることができました」


撫子の目が、大きく見開かれた。


「そして、撫子様を探すことができました。お側に行くことができました」


紗世が、撫子の手を両手で包み込んだ。


「このお守りが、私たちを結んでくれたのです」


皮肉だった。


清隆との縁を願って求めたお守りが、紗世との縁を結んだ。


偽りの愛のために手に入れたものが、真実の絆を繋いだ。


「紗世……」


撫子の声が震えた。


「私は、撫子様のお側にいます」


紗世の声は、誓いのように響いた。


「永遠に」


吸血鬼となった今、その言葉には文字通りの重みがあった。百年も、千年も、共に生きていくという誓い。


「どこへでも、お供します。どんな時も、お側にいます。どんな闇の中でも、撫子様をお一人にはしません」


紗世の目に、涙が光っていた。


「それが、私の望みです。私の、幸せです」


撫子は、握られた手を見つめた。


かつて、父や母、小百合と繋いだ手。清隆と繋いだ手。その全てが失われた今、紗世の手だけが残っている。


だが、その一つの手が、何よりも温かかった。


「ありがとう、紗世」


声が震えた。涙が頬を伝った。


「ありがとう……」


お守りを握りしめ、撫子は目を閉じた。


永遠の孤独だと思っていた。


光のない闇を、一人で歩み続けるのだと。


だが、違った。


闇の中にも、光はある。


紗世という光が、撫子の傍にいてくれる。


「行きましょう、紗世」


撫子は目を開いた。涙を拭い、紗世の手を握り返した。


「どこへ参りましょうか」


「分からないわ」


撫子は微笑んだ。


「でも、二人でなら、どこへでも行ける」


紗世も微笑んだ。十五年間、撫子のために尽くしてきた、あの穏やかな笑み。


二人は立ち上がり、並んで歩き出した。


月明かりの下、二つの影が寄り添うように進んでいく。焼け跡の村を抜け、野を越え、山の方へ。


復讐は終わった。


だが、これからが始まりだ。


人間ではなくなった二人が、これからどう生きていくのか。その答えは、まだ見えない。


だが、一人ではない。


それだけで、撫子の足は前に進むことができた。


夜風が、二人の髪を揺らす。遠くで、梟が鳴いた。空が、わずかに白み始めている。


夜明けが近い。


太陽は敵となった今、夜明けは恐怖のはずだった。だが、撫子は不思議と怖くなかった。


紗世がいる。


それだけで、どんな夜明けも乗り越えられる気がした。


縁結びのお守りが、撫子の掌の中で、小さく温もりを放っていた。


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