復讐の始まり
撫子の視点になります。
※この話には残酷な描写(大量殺戮、首をはねる、心臓を抉る等)が含まれます。苦手な方はご注意ください。
六
秋の夜、山の中を撫子は歩いていた。
吸血鬼として目覚めてから、既に数日が経っていた。昼は木陰に身を隠し、夜になると歩き続けた。太陽の下では肌が焼けるように痛み、力が抜けていく。それでも死にはしないと分かっていたが、夜の方が遥かに動きやすかった。
体は変わっていた。
肌は月明かりの下で青白く輝き、かつての温もりは消え失せている。瞳の奥には紅い光が宿り、暗闇の中でも全てが見えた。そして何より、喉が焼けるように渇いていた。
血への飢え。
それは日を追うごとに強くなっていった。
「私は化け物になった」
撫子は呟いた。
けれど、後悔はなかった。これでいい。復讐のためなら、化け物になっても構わない。
*
その夜、山中で猟師と出遭った。
男は松明を手に、獲物を探していたらしい。撫子の姿を見た瞬間、男の顔が強張った。
「誰だ...」
答える前に、飢えが撫子を突き動かした。
気づいた時には、男の首筋に牙を立てていた。
温かい血が喉を満たしていく。甘く、濃く、これまで口にしたどんなものよりも美味かった。
罪悪感が胸を掠めた。この男は何も悪いことをしていない。ただ、夜の山で狩りをしていただけだ。
けれど、止められなかった。
体が求めている。血を。命を。
男の体から力が抜けていく。心臓の鼓動が弱まり、やがて止まった。
撫子は男の体を離した。
血に染まった唇を拭い、空を見上げる。月が冷たく輝いている。
「これが私の生きる道」
撫子は呟き、歩き出した。
*
隣藩に入ると、清隆の噂はすぐに耳に入った。
「清隆様は大功を立てられた」
「重臣の屋敷を陥落させ、機密を手に入れたそうだ」
「藩主様から直々に褒美を賜ったとか」
村人たちの話を、撫子は物陰から聞いていた。
怒りが、腹の底から湧き上がってきた。
私の家族を殺した男が、英雄として讃えられている。父を、母を、小百合を、佳世を。みんなを殺した男が。
「清隆...」
撫子は拳を握りしめた。
「待っていろ」
*
清隆の屋敷へ向かう道中、何人もの人間を殺した。
関所の役人が撫子を止めようとした時、撫子は躊躇わなかった。
「何者だ。止まれ」
役人の声が途切れた。首が宙を舞い、血が噴き出す。もう一人が刀を抜こうとしたが、その手が動く前に胸を貫かれた。
清隆の部下らしき武士たちとも遭遇した。
「怪しい女だ。捕らえろ」
五人の武士が撫子を囲んだ。
撫子は無言で歩み寄った。
一人目の首を刎ねる。二人目の心臓を貫く。三人目の喉を裂く。四人目の胴を両断する。五人目が恐怖に駆られて逃げ出したが、一瞬で追いつき、背中から心臓を抉り出した。
血の海の中に立ち、撫子は息一つ乱していなかった。
かつての自分なら、このような光景を見ただけで気を失っていただろう。
けれど今は、何も感じなかった。
彼らが悪人だからではない。ただ、邪魔だったから殺した。それだけのことだった。
撫子は血に濡れた手を見つめた。
「私は化け物だ」
それを認めることに、もう抵抗はなかった。
*
清隆の屋敷に着いたのは、真夜中だった。
立派な門構え。広い庭。大きな屋敷。功績を認められ、こんな場所に住んでいるのだ。
門番が二人、槍を構えて立っていた。
「何者だ」
撫子は答えなかった。
門番の首が落ちた。二人同時に。血が地面に広がる。
撫子は門を蹴破り、屋敷に侵入した。
「曲者だ!」
悲鳴が上がる。家臣たちが刀を抜いて駆けつける。
撫子は容赦なく殺していった。
斬り、貫き、引き裂く。
人間の体など、紙のように脆かった。かつて自分を守ってくれた家臣たちと同じように、この屋敷の家臣たちも次々と倒れていく。
血の匂いが屋敷に充満する。
悲鳴が響き渡る。
逃げ惑う人々。泣き叫ぶ女中たち。
撫子は表情を変えなかった。
ただ、目的に向かって進んだ。
清隆の部屋へ。
*
廊下を歩く撫子の足元には、血の跡が続いていた。
奥の部屋から、声が聞こえてきた。
「何だ、あの悲鳴は」
清隆の声だった。
「清隆様、外が騒がしいですわ」
女の声。志乃だった。
撫子は扉の前で立ち止まった。
中から、二人の会話が聞こえてくる。
「お前のおかげで、功績を上げられた」
「私、清隆様のお役に立てて...嬉しいです」
「これからもよろしく頼むぞ、志乃」
「はい、清隆様」
撫子は扉に手をかけた。
*
扉が開いた。
部屋の中に、二人の姿があった。
清隆と志乃。寄り添うように座っている。
撫子が現れた瞬間、二人は凍りついた。
血まみれの着物。青白い肌。そして、紅く燃える瞳。
「久しぶりね」
撫子の声は、氷のように冷たかった。
「撫子...!」
清隆の顔が恐怖に歪んだ。
「お前、何を...外の者たちは...!」
「全員殺したわ」
撫子は一歩、部屋に踏み込んだ。
「化け物...」
志乃が震える声で呟いた。
「ええ、化け物よ。あなたたちが望んだとおりにね」
清隆は慌てて刀を抜いた。しかし、その手は震えている。刀の切っ先が、がたがたと揺れていた。
「来るな...来るな...!」
撫子はゆっくりと近づいた。
「待ってくれ、撫子!」
清隆が叫んだ。
「俺は仕方なかったんだ! 任務だった! お前を愛していたのは本当だ!」
「愛していた?」
撫子は足を止めた。
「そうだ! 本当に愛していた! だから...俺たちはまだやり直せる! 頼む、許してくれ!」
「やり直す?」
撫子の声は感情を持たなかった。
「私の家族を殺しておいて?」
「それは...それは...!」
清隆の言葉が詰まった。
撫子がまた一歩近づく。
その時、清隆が動いた。
*
清隆は志乃の髪を掴み、乱暴に自分の前に引きずり出した。
「痛い...清隆様...?」
志乃が困惑した声を上げた。
清隆は志乃の首に刀を当てた。
「来るな! 一歩でも近づいたら、こいつの首を刎ねるぞ!」
「清隆様...なぜ...私は...」
「黙れ!」
清隆は志乃の首筋に刀を押し当てた。血が滲む。
「痛い...やめて...」
志乃の声が震えている。
「撫子、お前はこいつを助けたいだろう? だったら引け!」
撫子は立ち止まり、冷たく二人を見つめた。
「助けたい?」
撫子は首を傾げた。
「なぜ、母を殺した女を?」
「え...?」
志乃の顔が凍りついた。
「くそっ...使えない女め!」
清隆が叫んだ。
次の瞬間、清隆は志乃の背中を刀で深く斬りつけた。
「あ...!」
血が噴き出した。志乃は床に崩れ落ちる。
「吸血鬼なら、こいつの血に気を啜れ!」
清隆は志乃を蹴飛ばし、撫子の足元に転がした。
「ほら、好きなだけ啜れよ、化け物!」
清隆は窓に向かって走り、そのまま飛び降りた。
*
志乃は血の海の中で横たわっていた。
呼吸は浅く、もう長くはない。
撫子は志乃を見下ろした。血の匂いが鼻を突く。飢えが疼く。けれど、撫子はその血を啜ろうとは思わなかった。
志乃の唇が動いた。
「なんで...」
かすれた声が漏れる。
「なんで...私が...」
志乃の目は虚ろだった。
「ただ...いい思いを...したかっただけなのに...」
「何が...いけないの...」
志乃の声は独り言のようだった。撫子に向けた言葉ではない。誰にでもない、自分自身への問いかけ。
「貧乏に...生まれて...」
「ずっと...苦しんで...」
「撫子様は...何もしなくても...幸せで...」
「私は...何をしてても...」
志乃の目から涙が溢れた。
「なぜ...」
「清隆様は...私を...愛してくれるって...」
「嘘...だった...のね...」
志乃の声が途切れ途切れになる。
「なんで...」
「なんで...私ばっかり...」
志乃の唇が最後の言葉を紡いだ。
「私...悪くない...のに...」
そして、動かなくなった。
撫子は志乃を一瞥した。
何も言わなかった。言う言葉など、なかった。
「清隆...」
撫子は窓から飛び降りた。
*
月明かりの下、撫子は清隆を追った。
清隆は必死で走っていた。森の中、木々の間を縫うように。息を切らし、何度も振り返りながら。
「くそ...くそ...!」
撫子は走らなかった。歩いた。ゆっくりと、確実に。
人間の足では、吸血鬼から逃げられない。
やがて、清隆は転んだ。木の根に足を取られ、地面に倒れ込んだ。
撫子がゆっくりと近づく。
「来るな...来るな...!」
清隆は後ずさりながら叫んだ。
撫子は無言で歩み寄った。
「待ってくれ...撫子...!」
清隆の声が裏返る。
「俺は...俺は仕方なかったんだ...! 任務だった...お前を愛していたのは本当だ...!」
「愛していた?」
撫子は立ち止まった。
「そうだ! 本当に愛していた! だから...俺たちはまだやり直せる...!」
「やり直す?」
撫子の声は氷のように冷たかった。
「私の家族を殺しておいて?」
「それは...それは...!」
清隆の言葉が詰まる。
壁際まで追い詰められた清隆は、膝をつき、両手を合わせて撫子を見上げた。
「待て...!待ってくれ...!」
その声は、かつて撫子を甘い言葉で惑わせた艶やかさの欠片もなく、ただ醜く震えている。
「金だ...!金ならいくらでもある...!この屋敷の財、全てお前にやる...!」
撫子は答えない。ただ、月光に照らされた紅い瞳で、這いつくばる男を見下ろしている。
清隆は撫子の沈黙に焦り、さらに言葉を重ねた。
「地位もだ...!俺の地位を...!お前の一族を滅ぼした功績、全てお前のものにしてやる...!望むなら、この藩の...!」
それでも撫子は動かない。
男の額に脂汗が浮かぶ。そして、彼の目に下卑た光が宿った。
「そうだ......お前は吸血鬼になったのだろう?」
清隆は唇を歪めた。追い詰められた獣が、最後の悪あがきで牙を剥くように。
「血が欲しいはずだ。人間の血が......」
這いながら、清隆は撫子に近づこうとする。
「女はどうだ? 若い女の血は甘いと聞く......俺の屋敷には、まだ女中が何人も隠れている。好きなだけ啜れ」
撫子の表情は変わらない。だが、その沈黙を肯定と受け取ったのか、清隆は続けた。
「それとも......子どもがいい?」
男の顔に、卑しい笑みが浮かぶ。
「小さい子どもの血は格別だと聞くぞ......? 柔らかくて、穢れがなくて......」
清隆は膝立ちになり、撫子の足元に縋りついた。
「この屋敷の近くに、貧しい村がある。子どもなら......いくらでも連れてきてやる。誰にも気づかれない。お前のために、俺が......」
その瞬間、撫子の手が動いた。
清隆の首を掴み、壁に叩きつける。骨が軋む音がした。
「......小百合」
撫子が口を開いた。その声は、凍てついた夜よりも冷たい。
「私の妹は、十歳だった」
清隆の目が恐怖で見開かれる。
「お前が殺した子どもたちの中に、私の妹がいた」
撫子の指に力が込められる。清隆の喉から、ひゅう、と空気が漏れる音がした。
「子どもを差し出す、と......?」
撫子の瞳が、月光を受けて紅く燃える。
「お前は、最後まで......」
首を絞める手に、さらに力が加わる。
「......救いようのない、屑だな」
*
最後の瞬間、清隆は隠し持っていた短刀を撫子に向けて突き出した。
「死ねぇぇぇっ!!」
撫子は清隆の手首を掴んだ。
ゴキッ。
乾いた音がして、清隆の手首が折れた。
「ぎゃああああっ!!」
清隆が絶叫する。短刀が地面に落ちる。
撫子は清隆を見つめた。
「最後まで...卑怯者ね」
撫子は落ちた短刀を拾い上げた。
「やめろ...やめてくれ...!」
清隆が後ずさる。折れた手首を押さえながら。
「許してくれ...頼む...!」
「俺は...俺は...!」
「さようなら」
撫子は一閃した。
清隆の首が宙を舞った。
血が噴き出し、首のない体が崩れ落ちる。
首は地面に転がり、目を見開いたまま止まった。
*
撫子は清隆の首を見下ろしていた。
恐怖に見開かれた目。歪んだ口元。醜い最期の表情。
月明かりが、その顔を照らしている。
「終わった...」
撫子は呟いた。
けれど、何も感じなかった。
達成感も、満足感も、喜びも。何もない。
ただ、虚しさだけが胸に広がっていた。
風が吹いた。撫子の髪が揺れる。
清隆の血が地面に広がっていく。黒く、どろりと。
撫子は立ち尽くしていた。
表情には、何の感情も浮かんでいなかった。




