紗世の決断
紗世の視点になります。
時系列も家襲撃前まで戻ります。
※この話には残酷なシーンが含まれます。
五
秋の朝は冷え込んでいた。
紗世は縁側で撫子の髪を梳きながら、穏やかな時間を過ごしていた。庭の紅葉が朝日に照らされ、赤や黄に輝いている。どこかで小鳥がさえずり、池の鯉が時折水面を跳ねる音がする。
いつもと変わらない、幸福な朝だった。
「紗世」
撫子が振り返った。その顔には、見たことのないほどの幸福が滲んでいる。頬は薔薇色に染まり、黒い瞳は輝いている。
「お願いがあるの」
「何でございましょう」
「隣町の神社に、良い縁結びのお守りがあるという話を聞いたの。清隆様に差し上げたいのだけれど」
撫子は少し恥ずかしそうに俯いた。
「本当は私が行きたいのだけれど、清隆様と離れたくなくて。だから、紗世にお願いできないかしら」
紗世は微笑んだ。撫子がこれほど幸せそうにしているのは、初めて見る気がした。
「かしこまりました。喜んで参ります」
「ありがとう、紗世。あなたがいてくれて、本当によかった」
撫子が紗世の手を握った。その手は温かく、幸福に満ちていた。
紗世は心から思った。撫子様が幸せなら、私も幸せだと。
*
翌朝、紗世は早くに屋敷を出た。
秋の空は高く澄み渡り、道端には色づいた落ち葉が積もっている。歩くたびに乾いた音が響き、冷たい風が頬を撫でていく。
隣町までは歩いて半日ほど。日帰りでは難しいが、一泊すれば十分に戻れる距離だった。
道中、紗世は撫子のことを考えていた。
撫子様と出会ったのは、十五年前。紗世が三歳、撫子が五歳の時だった。あの日から、紗世の世界は撫子を中心に回り始めた。
それから十五年。紗世はずっと撫子の傍にいた。撫子の笑顔が見たくて、撫子の幸せを願って、ただそれだけのために生きてきた。
そして今、撫子は恋をしている。清隆という男に心を奪われ、これまでにないほど輝いている。
紗世は嬉しかった。
撫子様が幸せなら、それでいい。たとえ自分の知らない世界に行ってしまっても、撫子様が笑っていてくれるなら。
日が傾く頃、紗世は隣町の神社に着いた。
小さいが由緒ある神社で、縁結びの御利益があると評判だった。紗世は本殿に参拝し、お守りを求めた。
赤と白の紐で結ばれた小さな袋。その表面には、四つ葉のクローバーの刺繍が施されていた。
紗世は思わず息を呑んだ。まるで、あの日のことを思い出させるような意匠。
「撫子様と清隆様が、永遠に結ばれますように」
紗世は手を合わせ、心から祈った。
*
翌朝、紗世は宿を出て帰路についた。
しかし、関所で足止めを食らった。
「今日は通れない。隣藩との揉め事で、通行止めだ」
役人は素っ気なく言った。
「いつまでですか」
「明日には解除されるだろう。それまで待て」
紗世は不安を覚えた。胸の奥で、何か嫌な予感がする。
仕方なく、もう一晩宿に泊まることにした。
その夜、紗世は眠れなかった。
撫子様は大丈夫だろうか。何か良くないことが起きているのではないか。根拠のない不安が、胸の中で渦巻いていた。
お守りを握りしめ、紗世は祈った。
どうか、撫子様が無事でありますように。
*
翌朝、宿の外が騒がしかった。
「号外だ、号外!」
人々が集まり、何かを読んでいる。紗世は嫌な予感を抱えながら、人垣をかき分けた。
号外を手に取った瞬間、血の気が引いた。
『○○藩重臣屋敷襲撃 藩の機密を隣藩に漏らした罪 一家全員処刑』
文字が目に飛び込んでくる。○○藩。撫子様の屋敷。
違う。何かの間違いだ。
紗世は号外を握りしめ、関所へ走った。今日は止められることなく通れた。
走った。息が切れても、足がもつれても、走り続けた。
撫子様。撫子様。撫子様。
その名前だけを心の中で叫びながら。
*
屋敷が見えた時、紗世は足を止めた。
そこにあるはずの屋敷がなかった。
代わりにあったのは、焼け落ちた残骸だった。黒く焦げた柱が折れ曲がり、灰が風に舞っている。かつて美しかった庭は踏み荒らされ、池は汚れた水を湛えている。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
紗世は震える足で、かつての屋敷跡を歩いた。焦げた木材の匂い。灰の匂い。そして、微かに残る血の匂い。
屋敷の門があった場所まで来た時、紗世は息を呑んだ。
さらし首が、並んでいた。
二十を超える首が、木の台に乗せられ、見世物のように並べられている。
紗世の足が止まった。
最初に目に入ったのは、旦那様だった。いつも穏やかな笑顔を見せてくれた、撫子様の父君。その首が、虚ろな目を開けたまま晒されている。
隣には、奥様。慈愛に満ちた優しい方だった。撫子様によく似た、穏やかな顔立ち。その首が、無惨に晒されている。
そして、小百合様。まだ十歳だった。無邪気に笑い、姉を慕っていた幼い少女。その小さな首が、大人たちの首と並んで晒されている。
紗世の視界が歪んだ。
さらに見ていくと、知っている顔が次々と現れた。
長年仕えていた侍女たち。厨房で働いていた料理人。庭を手入れしていた庭師。門を守っていた門番。馬の世話をしていた馬丁。
みんな知っている顔だった。毎日顔を合わせ、言葉を交わし、一緒に働いてきた人たち。
二十人、三十人。数えきれないほどの首が並んでいる。
その中に、紗世の父の首があった。
「お父さん...」
声が震えた。父は屋敷の下働きをしていた。無口だが真面目な人だった。紗世が小さい頃、肩車をしてくれた記憶がある。
そして。
紗世は、母の首を見つけた。
佳世。紗世を産み、育ててくれた母。撫子様の乳母として長年仕え、家族のように慕われていた母。
その顔が、紗世を見ていた。
目は閉じられていた。まるで眠っているかのような、穏やかな表情。
「お母さん...」
紗世の膝が崩れ落ちた。
「お母さん...!」
涙が溢れた。止められなかった。地面に手をつき、紗世は泣いた。
なぜ。なぜ。なぜ。
自分がいない間に、全てが壊れた。守りたかった人たちが、みんないなくなった。
どれくらいそうしていただろうか。
紗世ははっと顔を上げた。
撫子様の首がない。
もう一度、全ての首を確認した。旦那様、奥様、小百合様、父、母、家臣たち。けれど、撫子様の首だけがなかった。
「撫子様は...?」
紗世は近くにいた村人に駆け寄った。
「撫子様は、どこに...!」
「お嬢様か? 牢に入れられて、処刑を待っていたそうだが...」
「処刑...?」
「いや、昨夜逃げ出したらしい。山の方へ向かったとか」
生きている。撫子様は生きている。
紗世は立ち上がった。
*
牢獄のあたりへ向かったが、近づくことはできなかった。
「まだ逃げている者がいる。探し出せ」
兵士の声が聞こえる。紗世は慌てて物陰に隠れた。
見つかれば殺される。屋敷の関係者は、全員処刑の対象だった。
牢獄の周りは騒がしかった。松明の明かりが行き交い、怒声が飛び交っている。
「撫子が逃げた! 山へ向かったぞ!」
その声を聞いた瞬間、紗世は決めた。
山へ行く。撫子様を探す。
*
山の中は暗く、冷たかった。
紗世は必死で撫子を探した。名前を呼ぶこともできない。追手がいるからだ。
時折、松明の明かりが見えた。足音が聞こえた。そのたびに身を隠し、息を殺した。
夜が更けていく。気温が下がっていく。薄い着物一枚では、寒さが骨に染みた。
撫子様。どこにいるの。
紗世は縁結びのお守りを握りしめた。四つ葉のクローバーの刺繍。撫子様のために買ったお守り。
結局、渡すことはできなかった。
夜が明けた。紗世は疲労と寒さで朦朧としながら、山を下りた。
街に戻り、撫子の情報を探した。しかし、何も分からなかった。逃げたという話も、捕まったという話も、死んだという話も聞かない。
もう一度、屋敷跡に行ってみよう。何か手がかりがあるかもしれない。
*
日が暮れ、焼け跡は闇に沈んでいた。
紗世は一人、灰の中をさまよっていた。
「撫子様...どこにいるの...」
その時、背後で物音がした。
振り返ると、見覚えのある顔があった。
「志乃...!」
志乃だった。屋敷で働いていた女中。生き残っていたのだ。
「生きていたの? よかった...」
紗世が近づこうとした時、志乃が笑った。
嘲笑うような、歪んだ笑い。
「よかった? 何がよかったの?」
「え...?」
「あんたは何も知らないのね。この襲撃が、誰の仕業か」
志乃は高らかに笑った。
「私よ。私が清隆様に、全部教えたの」
紗世は凍りついた。
「屋敷の配置も、警備の時間も、旦那様の書斎の場所も。全部、私が教えた」
「なぜ...」
「撫子が憎かったから」
志乃の目が、暗い炎を湛えていた。
「ただいい家に生まれただけで、何不自由なく生きて。私がどれだけ苦しんできたか、知りもしないで」
「でも、みんな死んだのよ...! 旦那様も、奥様も、小百合様も...!」
「知ったことじゃない」
志乃は肩を竦めた。
「私には関係ない人たちだもの」
その時、闇の中から別の足音が聞こえた。
「やあ、待っていたよ」
現れたのは、清隆だった。
清隆は志乃の腰に手を回し、紗世を見下ろした。
「お前を待っていたんだ。撫子をおびき出すのに、お前が必要でね」
「撫子様を...?」
「あの女は逃げた。どこかに隠れている。だが、お前を餌にすれば、きっと出てくる」
紗世は後ずさった。
「お前も撫子の犬だろう? 主人を助けに来るはずだ」
「私は...」
「大人しくしていれば、殺しはしない。撫子を渡せば、お前は自由だ」
紗世の拳が握りしめられた。
撫子様を裏切ることなど、できるはずがなかった。
紗世は走り出した。
「逃げるな!」
清隆の怒声。追手の足音。
紗世は必死で走った。山へ。闇の中へ。
*
息が切れた。足がもつれた。
それでも紗世は走り続けた。
撫子様を守りたい。清隆を許せない。志乃を許せない。
母を殺した。父を殺した。みんなを殺した。
復讐してやる。必ず。
その時、月光が異様に強くなった。
紗世は足を止めた。周囲の空気が変わっている。冷たく、重く、この世のものではない何かが近づいてくる。
木々の間に、人影が現れた。
端正な顔立ち。そして、紅い瞳。
「だれ…?」
「名を聞いてどうする」
低い声が響いた。人間のものとは思えない、底知れぬ深さを持つ声。
紗世は直感した。この存在は、人間ではない。
「お前、撫子とやらに会いたいか」
「撫子様を知っているの...?」
「あぁ、会った。力を与えた」
紗世の心臓が跳ねた。
撫子様が生きている。しかも、力を得ている。
「私も...私にも、力をください」
紗世は跪いた。
「撫子様を守りたい。そして、復讐を果たしたい。母の仇を、父の仇を、みんなの仇を」
男は紗世を見下ろした。その紅い瞳に、何かが宿った。
「代償は大きいぞ。人間ではなくなる。太陽は敵になり、血を啜って生きることになる」
「構いません」
紗世は迷わなかった。
「撫子様のためなら、何でもします」
男は微かに笑った。
「いい目だ。お前には、特別な力を与えてやろう」
男が近づいた。冷たい手が、紗世の顎を持ち上げる。
「覚悟しろ。並の者なら、この苦痛に耐えられず死ぬ」
牙が首筋に刺さった。
*
痛みが走った。
血が吸われていく。命が流れ出していく。心臓の鼓動が遅くなり、やがて止まった。
死ぬ。そう思った瞬間、新しい何かが体に流れ込んできた。
冷たく、熱く、人間のものではない血。
そして、それだけではなかった。
力が流れ込んでくる。膨大な力。人間の体では到底収まりきらない力。
その瞬間、地獄が始まった。
骨が軋む。皮膚が裂ける。内臓が捻れる。全身の細胞が悲鳴を上げている。
紗世は叫んだ。声にならない叫び。
痛い。痛い。痛い。
体が燃えているようだった。いや、燃えているのではない。作り変えられているのだ。人間の体が、人間ではない何かに。
意識が途切れそうになる。けれど、途切れなかった。
苦痛は続いた。一刻も、一日も、休むことなく。
飢えが襲ってきた。血への飢え。喉が焼けるように渇く。何かを飲まなければ死んでしまう。けれど、水では駄目だ。血が欲しい。人間の血が欲しい。
紗世は叫び続けた。苦痛と飢えの中で、意識を手放すことすら許されなかった。
一日が過ぎた。二日が過ぎた。三日が過ぎた。
苦痛は和らがなかった。飢えは増すばかりだった。
撫子様。
紗世は心の中で、その名前を呼び続けた。
撫子様のために。撫子様を守るために。
その想いだけが、紗世を繋ぎ止めていた。
四日目。五日目。六日目。
永遠のような時間が過ぎていく。
そして、七日目の夜。
ようやく、苦痛が引いた。
*
目を開けた時、世界は変わっていた。
暗闇の中でも、全てが見える。遠くの音が聞こえる。血の匂いがする。
紗世は立ち上がった。体に力が漲っている。今まで感じたことのない力。普通の吸血鬼を遥かに超える力。
「耐えたか…」
声がした。あの男が、木の幹に寄りかかって立っていた。
「七日間、意識を保ち続けた者は珍しい。大抵は三日目で狂うか、死ぬ」
紗世は自分の手を見つめた。白く、冷たい。もう人間の手ではなかった。
「お前に与えた力は、特別だ。あの娘には与えなかった力だ」
「なぜ、私に...」
「気まぐれだ」
男は肩を竦めた。その紅い瞳が、一瞬だけ何かを映した。懐かしさか、執着か、紗世には分からなかった。
「行け。お前の主人を探せ」
男は闇の中に溶け込んでいった。
紗世は一人、森の中に立っていた。
手の中には、縁結びのお守りがあった。七日間、ずっと握りしめていた。赤と白の紐。四つ葉のクローバーの刺繍。
撫子様に渡すはずだった、永遠の縁を願うお守り。
皮肉なものだと、紗世は思った。
撫子様と清隆様の永遠の縁を願った。けれど、それは裏切りによって断ち切られた。
代わりに結ばれたのは、別の縁。
撫子様と紗世。主人と侍女。二人の永遠の絆。
紗世はお守りを胸に押し当てた。
「撫子様」
声に出して、誓った。
「必ず会いに行きます。そして、必ず守ります。永遠に」
復讐の炎が、胸の奥で燃えている。
清隆。志乃。許さない。母の仇。父の仇。みんなの仇。必ず取る。
紗世は歩き出した。
撫子を探すために。復讐を果たすために。
夜の闇が、紗世を包み込んだ。




