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緋色の月に抱かれて ―永遠の孤独と四つ葉の誓い―  作者: 月代 緋色


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紗世の決断

紗世の視点になります。

時系列も家襲撃前まで戻ります。

※この話には残酷なシーンが含まれます。

秋の朝は冷え込んでいた。


紗世は縁側で撫子の髪を梳きながら、穏やかな時間を過ごしていた。庭の紅葉が朝日に照らされ、赤や黄に輝いている。どこかで小鳥がさえずり、池の鯉が時折水面を跳ねる音がする。


いつもと変わらない、幸福な朝だった。


「紗世」


撫子が振り返った。その顔には、見たことのないほどの幸福が滲んでいる。頬は薔薇色に染まり、黒い瞳は輝いている。


「お願いがあるの」


「何でございましょう」


「隣町の神社に、良い縁結びのお守りがあるという話を聞いたの。清隆様に差し上げたいのだけれど」


撫子は少し恥ずかしそうに俯いた。


「本当は私が行きたいのだけれど、清隆様と離れたくなくて。だから、紗世にお願いできないかしら」


紗世は微笑んだ。撫子がこれほど幸せそうにしているのは、初めて見る気がした。


「かしこまりました。喜んで参ります」


「ありがとう、紗世。あなたがいてくれて、本当によかった」


撫子が紗世の手を握った。その手は温かく、幸福に満ちていた。


紗世は心から思った。撫子様が幸せなら、私も幸せだと。



翌朝、紗世は早くに屋敷を出た。


秋の空は高く澄み渡り、道端には色づいた落ち葉が積もっている。歩くたびに乾いた音が響き、冷たい風が頬を撫でていく。


隣町までは歩いて半日ほど。日帰りでは難しいが、一泊すれば十分に戻れる距離だった。


道中、紗世は撫子のことを考えていた。


撫子様と出会ったのは、十五年前。紗世が三歳、撫子が五歳の時だった。あの日から、紗世の世界は撫子を中心に回り始めた。


それから十五年。紗世はずっと撫子の傍にいた。撫子の笑顔が見たくて、撫子の幸せを願って、ただそれだけのために生きてきた。


そして今、撫子は恋をしている。清隆という男に心を奪われ、これまでにないほど輝いている。


紗世は嬉しかった。


撫子様が幸せなら、それでいい。たとえ自分の知らない世界に行ってしまっても、撫子様が笑っていてくれるなら。


日が傾く頃、紗世は隣町の神社に着いた。


小さいが由緒ある神社で、縁結びの御利益があると評判だった。紗世は本殿に参拝し、お守りを求めた。


赤と白の紐で結ばれた小さな袋。その表面には、四つ葉のクローバーの刺繍が施されていた。


紗世は思わず息を呑んだ。まるで、あの日のことを思い出させるような意匠。


「撫子様と清隆様が、永遠に結ばれますように」


紗世は手を合わせ、心から祈った。



翌朝、紗世は宿を出て帰路についた。


しかし、関所で足止めを食らった。


「今日は通れない。隣藩との揉め事で、通行止めだ」


役人は素っ気なく言った。


「いつまでですか」


「明日には解除されるだろう。それまで待て」


紗世は不安を覚えた。胸の奥で、何か嫌な予感がする。


仕方なく、もう一晩宿に泊まることにした。


その夜、紗世は眠れなかった。


撫子様は大丈夫だろうか。何か良くないことが起きているのではないか。根拠のない不安が、胸の中で渦巻いていた。


お守りを握りしめ、紗世は祈った。


どうか、撫子様が無事でありますように。



翌朝、宿の外が騒がしかった。


「号外だ、号外!」


人々が集まり、何かを読んでいる。紗世は嫌な予感を抱えながら、人垣をかき分けた。


号外を手に取った瞬間、血の気が引いた。


『○○藩重臣屋敷襲撃 藩の機密を隣藩に漏らした罪 一家全員処刑』


文字が目に飛び込んでくる。○○藩。撫子様の屋敷。


違う。何かの間違いだ。


紗世は号外を握りしめ、関所へ走った。今日は止められることなく通れた。


走った。息が切れても、足がもつれても、走り続けた。


撫子様。撫子様。撫子様。


その名前だけを心の中で叫びながら。



屋敷が見えた時、紗世は足を止めた。


そこにあるはずの屋敷がなかった。


代わりにあったのは、焼け落ちた残骸だった。黒く焦げた柱が折れ曲がり、灰が風に舞っている。かつて美しかった庭は踏み荒らされ、池は汚れた水を湛えている。


嘘だ。嘘だ。嘘だ。


紗世は震える足で、かつての屋敷跡を歩いた。焦げた木材の匂い。灰の匂い。そして、微かに残る血の匂い。


屋敷の門があった場所まで来た時、紗世は息を呑んだ。


さらし首が、並んでいた。


二十を超える首が、木の台に乗せられ、見世物のように並べられている。


紗世の足が止まった。


最初に目に入ったのは、旦那様だった。いつも穏やかな笑顔を見せてくれた、撫子様の父君。その首が、虚ろな目を開けたまま晒されている。


隣には、奥様。慈愛に満ちた優しい方だった。撫子様によく似た、穏やかな顔立ち。その首が、無惨に晒されている。


そして、小百合様。まだ十歳だった。無邪気に笑い、姉を慕っていた幼い少女。その小さな首が、大人たちの首と並んで晒されている。


紗世の視界が歪んだ。


さらに見ていくと、知っている顔が次々と現れた。


長年仕えていた侍女たち。厨房で働いていた料理人。庭を手入れしていた庭師。門を守っていた門番。馬の世話をしていた馬丁。


みんな知っている顔だった。毎日顔を合わせ、言葉を交わし、一緒に働いてきた人たち。


二十人、三十人。数えきれないほどの首が並んでいる。


その中に、紗世の父の首があった。


「お父さん...」


声が震えた。父は屋敷の下働きをしていた。無口だが真面目な人だった。紗世が小さい頃、肩車をしてくれた記憶がある。


そして。


紗世は、母の首を見つけた。


佳世。紗世を産み、育ててくれた母。撫子様の乳母として長年仕え、家族のように慕われていた母。


その顔が、紗世を見ていた。


目は閉じられていた。まるで眠っているかのような、穏やかな表情。


「お母さん...」


紗世の膝が崩れ落ちた。


「お母さん...!」


涙が溢れた。止められなかった。地面に手をつき、紗世は泣いた。


なぜ。なぜ。なぜ。


自分がいない間に、全てが壊れた。守りたかった人たちが、みんないなくなった。


どれくらいそうしていただろうか。


紗世ははっと顔を上げた。


撫子様の首がない。


もう一度、全ての首を確認した。旦那様、奥様、小百合様、父、母、家臣たち。けれど、撫子様の首だけがなかった。


「撫子様は...?」


紗世は近くにいた村人に駆け寄った。


「撫子様は、どこに...!」


「お嬢様か? 牢に入れられて、処刑を待っていたそうだが...」


「処刑...?」


「いや、昨夜逃げ出したらしい。山の方へ向かったとか」


生きている。撫子様は生きている。


紗世は立ち上がった。



牢獄のあたりへ向かったが、近づくことはできなかった。


「まだ逃げている者がいる。探し出せ」


兵士の声が聞こえる。紗世は慌てて物陰に隠れた。


見つかれば殺される。屋敷の関係者は、全員処刑の対象だった。


牢獄の周りは騒がしかった。松明の明かりが行き交い、怒声が飛び交っている。


「撫子が逃げた! 山へ向かったぞ!」


その声を聞いた瞬間、紗世は決めた。


山へ行く。撫子様を探す。



山の中は暗く、冷たかった。


紗世は必死で撫子を探した。名前を呼ぶこともできない。追手がいるからだ。


時折、松明の明かりが見えた。足音が聞こえた。そのたびに身を隠し、息を殺した。


夜が更けていく。気温が下がっていく。薄い着物一枚では、寒さが骨に染みた。


撫子様。どこにいるの。


紗世は縁結びのお守りを握りしめた。四つ葉のクローバーの刺繍。撫子様のために買ったお守り。


結局、渡すことはできなかった。


夜が明けた。紗世は疲労と寒さで朦朧としながら、山を下りた。


街に戻り、撫子の情報を探した。しかし、何も分からなかった。逃げたという話も、捕まったという話も、死んだという話も聞かない。


もう一度、屋敷跡に行ってみよう。何か手がかりがあるかもしれない。



日が暮れ、焼け跡は闇に沈んでいた。


紗世は一人、灰の中をさまよっていた。


「撫子様...どこにいるの...」


その時、背後で物音がした。


振り返ると、見覚えのある顔があった。


「志乃...!」


志乃だった。屋敷で働いていた女中。生き残っていたのだ。


「生きていたの? よかった...」


紗世が近づこうとした時、志乃が笑った。


嘲笑うような、歪んだ笑い。


「よかった? 何がよかったの?」


「え...?」


「あんたは何も知らないのね。この襲撃が、誰の仕業か」


志乃は高らかに笑った。


「私よ。私が清隆様に、全部教えたの」


紗世は凍りついた。


「屋敷の配置も、警備の時間も、旦那様の書斎の場所も。全部、私が教えた」


「なぜ...」


「撫子が憎かったから」


志乃の目が、暗い炎を湛えていた。


「ただいい家に生まれただけで、何不自由なく生きて。私がどれだけ苦しんできたか、知りもしないで」


「でも、みんな死んだのよ...! 旦那様も、奥様も、小百合様も...!」


「知ったことじゃない」


志乃は肩を竦めた。


「私には関係ない人たちだもの」


その時、闇の中から別の足音が聞こえた。


「やあ、待っていたよ」


現れたのは、清隆だった。


清隆は志乃の腰に手を回し、紗世を見下ろした。


「お前を待っていたんだ。撫子をおびき出すのに、お前が必要でね」


「撫子様を...?」


「あの女は逃げた。どこかに隠れている。だが、お前を餌にすれば、きっと出てくる」


紗世は後ずさった。


「お前も撫子の犬だろう? 主人を助けに来るはずだ」


「私は...」


「大人しくしていれば、殺しはしない。撫子を渡せば、お前は自由だ」


紗世の拳が握りしめられた。


撫子様を裏切ることなど、できるはずがなかった。


紗世は走り出した。


「逃げるな!」


清隆の怒声。追手の足音。


紗世は必死で走った。山へ。闇の中へ。



息が切れた。足がもつれた。


それでも紗世は走り続けた。


撫子様を守りたい。清隆を許せない。志乃を許せない。


母を殺した。父を殺した。みんなを殺した。


復讐してやる。必ず。


その時、月光が異様に強くなった。


紗世は足を止めた。周囲の空気が変わっている。冷たく、重く、この世のものではない何かが近づいてくる。


木々の間に、人影が現れた。


端正な顔立ち。そして、紅い瞳。


「だれ…?」


「名を聞いてどうする」


低い声が響いた。人間のものとは思えない、底知れぬ深さを持つ声。


紗世は直感した。この存在は、人間ではない。


「お前、撫子とやらに会いたいか」


「撫子様を知っているの...?」


「あぁ、会った。力を与えた」


紗世の心臓が跳ねた。


撫子様が生きている。しかも、力を得ている。


「私も...私にも、力をください」


紗世は跪いた。


「撫子様を守りたい。そして、復讐を果たしたい。母の仇を、父の仇を、みんなの仇を」


男は紗世を見下ろした。その紅い瞳に、何かが宿った。


「代償は大きいぞ。人間ではなくなる。太陽は敵になり、血を啜って生きることになる」


「構いません」


紗世は迷わなかった。


「撫子様のためなら、何でもします」


男は微かに笑った。


「いい目だ。お前には、特別な力を与えてやろう」


男が近づいた。冷たい手が、紗世の顎を持ち上げる。


「覚悟しろ。並の者なら、この苦痛に耐えられず死ぬ」


牙が首筋に刺さった。



痛みが走った。


血が吸われていく。命が流れ出していく。心臓の鼓動が遅くなり、やがて止まった。


死ぬ。そう思った瞬間、新しい何かが体に流れ込んできた。


冷たく、熱く、人間のものではない血。


そして、それだけではなかった。


力が流れ込んでくる。膨大な力。人間の体では到底収まりきらない力。


その瞬間、地獄が始まった。


骨が軋む。皮膚が裂ける。内臓が捻れる。全身の細胞が悲鳴を上げている。


紗世は叫んだ。声にならない叫び。


痛い。痛い。痛い。


体が燃えているようだった。いや、燃えているのではない。作り変えられているのだ。人間の体が、人間ではない何かに。


意識が途切れそうになる。けれど、途切れなかった。


苦痛は続いた。一刻も、一日も、休むことなく。


飢えが襲ってきた。血への飢え。喉が焼けるように渇く。何かを飲まなければ死んでしまう。けれど、水では駄目だ。血が欲しい。人間の血が欲しい。


紗世は叫び続けた。苦痛と飢えの中で、意識を手放すことすら許されなかった。


一日が過ぎた。二日が過ぎた。三日が過ぎた。


苦痛は和らがなかった。飢えは増すばかりだった。


撫子様。


紗世は心の中で、その名前を呼び続けた。


撫子様のために。撫子様を守るために。


その想いだけが、紗世を繋ぎ止めていた。


四日目。五日目。六日目。


永遠のような時間が過ぎていく。


そして、七日目の夜。


ようやく、苦痛が引いた。



目を開けた時、世界は変わっていた。


暗闇の中でも、全てが見える。遠くの音が聞こえる。血の匂いがする。


紗世は立ち上がった。体に力が漲っている。今まで感じたことのない力。普通の吸血鬼を遥かに超える力。


「耐えたか…」


声がした。あの男が、木の幹に寄りかかって立っていた。


「七日間、意識を保ち続けた者は珍しい。大抵は三日目で狂うか、死ぬ」


紗世は自分の手を見つめた。白く、冷たい。もう人間の手ではなかった。


「お前に与えた力は、特別だ。あの娘には与えなかった力だ」


「なぜ、私に...」


「気まぐれだ」


男は肩を竦めた。その紅い瞳が、一瞬だけ何かを映した。懐かしさか、執着か、紗世には分からなかった。


「行け。お前の主人を探せ」


男は闇の中に溶け込んでいった。


紗世は一人、森の中に立っていた。


手の中には、縁結びのお守りがあった。七日間、ずっと握りしめていた。赤と白の紐。四つ葉のクローバーの刺繍。


撫子様に渡すはずだった、永遠の縁を願うお守り。


皮肉なものだと、紗世は思った。


撫子様と清隆様の永遠の縁を願った。けれど、それは裏切りによって断ち切られた。


代わりに結ばれたのは、別の縁。


撫子様と紗世。主人と侍女。二人の永遠の絆。


紗世はお守りを胸に押し当てた。


「撫子様」


声に出して、誓った。


「必ず会いに行きます。そして、必ず守ります。永遠に」


復讐の炎が、胸の奥で燃えている。


清隆。志乃。許さない。母の仇。父の仇。みんなの仇。必ず取る。


紗世は歩き出した。


撫子を探すために。復讐を果たすために。


夜の闇が、紗世を包み込んだ。

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