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緋色の月に抱かれて ―永遠の孤独と四つ葉の誓い―  作者: 月代 緋色


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4/17

永遠の契約

処刑前夜。


月が高く昇り、牢獄を冷たい光で照らしていた。


撫子は藁の上に座り、目を閉じていた。明日の朝には、全てが終わる。処刑台に引き出され、衆人環視の中で首を落とされる。それが、自分に与えられた運命だった。


けれど、恐怖はなかった。


胸の奥で、消えない炎が燃えている。復讐の炎。清隆を殺したい。志乃を殺したい。あの二人を地獄に送るまで、死んでも死にきれない。


その執念だけが、撫子を生かしていた。


せめてあと一日。いや、あと数刻でいい。自由な時間があれば。


けれど、そんなものは与えられない。


撫子は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みすら、もう感じなかった。


その時だった。


空気が、変わった。


冷たい。牢獄の中が、急に凍りついたように冷え込んでいく。息が白く曇る。藁の上に霜が降りたかのように、肌を刺す寒さが広がっていく。


窓から差し込む月明かりが、異様に強くなった。まるで月そのものが近づいてきたかのように、青白い光が牢獄を満たしていく。


そして、影が蠢いた。


壁に落ちた影が、揺らめいている。風もないのに。まるで生き物のように、影そのものが呼吸しているかのように。


何かが、いる。


撫子は目を開けた。


月明かりの中に、一人の男が佇んでいた。


いつの間に入ってきたのか。足音も、気配も、何も感じなかった。まるで影そのものが人の形を取ったかのように、そこにいた。


圧倒的な存在感。


人間ではない。それは、見た瞬間に分かった。纏う空気が、この世のものではなかった。古く、冷たく、底知れぬ深さを持つ何か。千年の時を経た古木のような、あるいは深淵そのもののような。


「お前、死にたくないようだな」


低い声が響いた。声というよりも、空間そのものが震えたような感覚。


「...誰」


撫子は問うた。不思議と、恐怖は感じなかった。もう失うものなど何もない身には、恐れるものなど何もなかった。


「名乗るほどの者ではない」


男が一歩近づいた。月明かりがその顔を照らす。


端正な顔立ちだった。年齢は分からない。若くも見えるし、古くも見える。人間離れした美しさと、底知れぬ闇が共存する顔。


そして、瞳。


紅い瞳。血のような、深い紅。人間のものではなかった。


「ただ...お前の目が気に入った」


「私の目...?」


「普通の黒い瞳だ。何の変哲もない。特別な力も、特別な血筋も、何もない」


男の声には、どこか楽しげな響きがあった。


「だが、その奥に燃えているものが見える。消えない炎だ。復讐の炎」


撫子は黙って男を見つめた。


「あなたは、何者なの」


「アザール」


男は静かに答えた。


「何千年も前、人々はそう呼んだ。最近は呼ぶ者もいないがな」


何千年。その言葉を、撫子は理解できなかった。人間の寿命は、せいぜい数十年。それなのに、何千年も生きているというのか。


「世界は広い。私はそのほとんどを歩いてきた。砂漠の果て、氷の大地、海を越えた国々。どこに行っても、人間は同じだった。愛し、憎み、殺し、死んでいく。その繰り返しだ」


アザールの声には、感情がなかった。ただ事実を述べているだけ。


「何千年もだ...」


孤独。その言葉が、撫子の胸に響いた。


「あなたは...吸血鬼なの」


「そうだ。最も古い吸血鬼の一人だ」


アザールは微かに笑った。


「取引をしよう」


「取引...?」


「お前に力を与える。人間を超えた力を。代わりに、お前は人間ではなくなる」


撫子の心が揺れた。人間ではなくなる。それはどういう意味なのか。


「詳しく教えて。何を失うの」


「聞きたいか」


「聞きたい。全てを知った上で、決めたい」


アザールは少し驚いたような顔をした。それから、口元に微かな笑みを浮かべた。


「いいだろう。教えてやる」


アザールは一歩近づいた。


「まず、太陽だ」


「太陽...?」


「太陽は苦手だ、肌が焼け、力が弱まる。長時間浴びれば、火傷のような症状が出る。衰弱し、動けなくなる」


「死ぬの?」


「死にはしない。だが、苦しむ。夜の眷属にとって、太陽は敵だ」


撫子は頷いた。


「構わない」


「次に、血だ」


アザールの紅い瞳が、撫子を見据えた。


「血を啜らなければ、生きられない。人間の血が必要だ。それなしでは、飢えて狂う」


「人を殺すの?」


「殺さずに済む方法もある。だが、血は必要だ。それは変わらない」


撫子は少し考えた。人の血を啜る。それは、化け物になるということだ。


「構わない」


「まだある」


アザールは続けた。


「人間の感情が、薄れていく」


「感情...?」


「愛。喜び。悲しみ。人間らしい感情が、少しずつ消えていく。何百年も生きていると、何も感じなくなる。全てが色褪せていく」


撫子は黙っていた。


「今お前を突き動かしている復讐心も、いつか消える。何のために生きているのか、分からなくなる日が来る」


「...それでも」


撫子は答えた。


「構わない」


「最後に、一つ」


アザールは撫子に近づいた。


「鏡を見ても、水面を覗いても、お前の姿は映らなくなる。それが吸血鬼の証だ」


「自分の顔が見えなくなる...?」


「そうだ。永遠に」


撫子は自分の手を見つめた。この手も、この顔も、もう見ることができなくなる。


「それでも、復讐はできるの」


「できる」


アザールは断言した。


「お前を傷つけた者たちを、地獄に送る力を与えよう。人間では太刀打ちできない力だ」


沈黙が落ちた。


月明かりが揺れる。どこかで虫が鳴いている。


撫子は目を閉じた。


父の顔が浮かんだ。「生きろ」と言った、あの声。


母の顔が浮かんだ。「逃げなさい」と言った、あの涙。


小百合の顔が浮かんだ。抱き合ったまま倒れた、あの姿。


佳世の顔が浮かんだ。最後まで守ろうとしてくれた、あの背中。


そして、清隆の顔。嘲笑うあの顔。志乃の顔。歪んだあの笑み。


撫子は目を開けた。


「復讐のためなら、何でもする」


その声には、迷いがなかった。


「人間を捨てても。化け物になっても。地獄に堕ちても。あの二人を殺すまで、私は止まらない」


アザールは撫子を見つめた。その紅い瞳に、何かが宿った。感心か、哀れみか、あるいは懐かしさか。


「いい目だ」


アザールが近づいた。


「後悔するなよ」


「しない」


「永遠は長いぞ。人間の一生など、瞬きほどにも感じられなくなる。愛した者は皆死に、憎んだ者も死に、お前だけが残る」


「それでもいい」


撫子は迷わなかった。


「今の私には、復讐しか残っていない。それを遂げられるなら、その後のことなどどうでもいい」


「そうか」


アザールは撫子の顎を持ち上げた。その手は氷のように冷たかった。


「では、契約だ」



アザールの顔が近づいた。


首筋に、冷たい息がかかる。そして、鋭い痛み。


牙が、肌を貫いた。


「っ...!」


撫子は声を上げた。痛い。焼けるように痛い。牙が首筋に深く食い込み、血を吸い上げていく。


体から力が抜けていく。血と共に、命が流れ出していくような感覚。視界が霞む。意識が遠のいていく。


死ぬ。このまま死ぬのだ。


恐怖はなかった。ただ、体が冷たくなっていくのを感じた。心臓の鼓動が遅くなる。一拍。また一拍。その間隔が、どんどん長くなっていく。


やがて、鼓動が止まった。


死んだ。そう思った瞬間だった。


新しい何かが、体に流れ込んできた。


アザールの血だった。


冷たく、熱く、人間のものではない何か。それが喉を通り、胃を焼き、血管を駆け巡っていく。


苦痛が走った。全身の骨が軋む。肌が張り裂けそうになる。内臓が捻れる。止まったはずの心臓が、もう一度動き出そうとして、激しく痙攣する。


撫子は叫んだ。声にならない叫び。


やがて、苦痛が変わった。


熱さが心地よさに変わる。痛みが快感に変わる。体が作り変えられていく。人間のものではない、新しい体に。


意識が途切れた。


最後に見えたのは、月だった。


冷たく、美しく、全てを見下ろす月。


あの月は、これからもずっとそこにあるのだろう。


私がいなくなった後も。


私が変わった後も。


ずっと、ずっと。



目を開けた時、世界は変わっていた。


最初に気づいたのは、闇の中でも全てが見えることだった。


牢獄の隅々まで、はっきりと見える。壁の染み、天井の木目、石の隙間を這う虫。月明かりがなくても、全てが鮮明に見えた。


次に気づいたのは、音だった。


遠くで犬が吠えている。虫の羽音。風が木の葉を揺らす音。どこか遠くで、人が話している声。全てが耳に流れ込んでくる。


そして、匂い。


血の匂い。自分の体についた血の匂いだけではない。この牢獄全体に染みついた、古い血の匂い。そして、もっと遠く、人間の体から発せられる血の匂い。


撫子は自分の胸に手を当てた。


何も感じなかった。


鼓動がない。心臓が、止まっている。


息をしていないことにも気づいた。呼吸をする必要がない。胸が上下しない。空気を吸い込む必要がない。


これが、吸血鬼になるということなのか。


撫子は自分の手を見つめた。白く、冷たい。月明かりの下で、まるで陶器のように滑らかに見える。


もう人間の手ではなかった。


「目覚めたか」


声がした。振り向くと、アザールが牢獄の隅に立っていた。


「私は、何に...」


「吸血鬼だ。夜を生きる者。永遠の命を持つ者。人間の血を糧とする者」


撫子は立ち上がった。体が軽い。力が漲っている。今まで感じたことのない力。


牢獄の鉄格子を見た。あんなもの、もはや障害ではなかった。


撫子は格子に近づき、両手で掴んだ。力を込めると、鉄の棒がまるで飴のように曲がった。


「すごい...」


「それがお前の力だ」


アザールが言った。


撫子は格子の間から牢獄を出た。廊下に出ると、床に水溜まりがあった。


無意識に、撫子は水溜まりを見下ろした。


何も映っていなかった。


月明かりは映っている。廊下の壁も映っている。けれど、そこに立っているはずの自分の姿だけが、消えている。


「これが...」


「吸血鬼の証だ。鏡も、水面も、お前を映さない」


撫子は水溜まりを見つめ続けた。自分の顔が、もう見えない。これから永遠に、見ることができない。


けれど、後悔はなかった。


「行け」


アザールの声がした。


「お前の復讐を果たせ」


撫子は振り返った。アザールは既に影の中に溶け込もうとしていた。


「アザール」


「何だ」


「なぜ私を選んだの」


アザールは少し考えるような間を置いた。


「さあな。気まぐれだ」


それだけ言って、アザールは闘の中に消えた。まるで最初からそこにいなかったかのように。


撫子は一人、廊下に立っていた。


月明かりが差し込んでいる。遠くで、夜明けを告げる鳥が鳴き始めている。


もうすぐ太陽が昇る。太陽は苦手だと、アザールは言った。


急がなければ。


撫子は歩き出した。


清隆。志乃。必ず地獄に送る。


黒い瞳の奥で、紅い光が燃え始めていた。人間だった頃の優しさも、穏やかさも、全て燃え尽きた。残っているのは、復讐の炎だけ。


復讐が、今、始まる。


夜の闇が、撫子を歓迎していた。

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