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緋色の月に抱かれて ―永遠の孤独と四つ葉の誓い―  作者: 月代 緋色


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3/17

裏切りの夜

※この話には残酷なシーンが含まれます。

晩秋のある夜。


夜も更けた頃、撫子は部屋で清隆への文を認めていた。


その時、突然、障子が乱暴に開けられた。


「撫子!」


血相を変えた父が、息を切らせて立っていた。いつも穏やかな父の顔が、見たこともない形相に歪んでいる。


「父上...? どうなされたのですか」


「時間がない」


父は部屋に入り、障子を閉めた。そして撫子の肩を掴み、真剣な目で見つめた。


「よく聞け。清隆のことだ」


「清隆様が、何か...」


「あの男が情報を漏らしていた」


撫子は言葉を失った。


「どういう...意味ですか」


「清隆は隣藩の間者だ」


父の声は低く、しかし明確だった。


「お前に近づいたのは、この屋敷に入り込むためだった。私の持つ藩の機密を探るために、お前を...利用したのだ」


「嘘です」


撫子は首を振った。


「嘘です。清隆様は私を愛して...私たちは...」


「愛してなどいない。全ては演技だ」


「そんな...」


「藩の者が突き止めた。清隆が隣藩に機密を渡していた証拠がある。お前との文のやり取りも、全て計算の上だったのだ」


証拠。その言葉が、撫子の心を砕いた。


「そして...今夜、奴らが来る」


「来る...?」


「清隆が手引きした。この屋敷を襲撃する」


父は撫子の手を強く握った。


「逃げろ、撫子。裏口から山へ向かえ。何があっても、振り返るな」


「父上は...!」


「私は足止めをする。家族を守るのが、当主の務めだ」


「嫌です! 父上を置いてなど...!」


「黙って従え!」


父は初めて、撫子を怒鳴った。その声には、怒りではなく、深い愛情が込められていた。


「お前だけでも生き延びろ。お前が生きていれば、この家は滅びない」


父は撫子の手を握りしめた。


「いいな。生きろ。何があっても、生きろ」


その時、屋敷の外から悲鳴が聞こえた。


続いて、炎の爆ぜる音。刀と刀がぶつかり合う金属音。


「来たか...!」


父は刀を抜いた。


「逃げろ、撫子。これは命令だ」


父は撫子を突き飛ばし、廊下へ飛び出していった。


その背中を見たのが、最後だった。


   *


屋敷は、地獄と化していた。


撫子は裏口へ向かいながら、信じられない光景を目にした。


炎。


屋敷のあちこちで火の手が上がっている。父が大切にしていた書院が、母が丹精込めて育てた庭が、赤々と燃え上がっている。


熱気が頬を焼く。煙が目を刺す。炎の爆ぜる音が耳を塞ぐ。


そして、悲鳴。


家臣たちが次々と斬り倒されていく。長年仕えてきた者たち。顔を知っている者たち。その命が、塵のように散っていく。


血の匂いが鼻を突く。鉄さびのような、生臭い匂い。


足元に何かがあった。見下ろすと、家臣の一人が倒れていた。目を見開いたまま、動かない。


撫子は悲鳴を呑み込んだ。叫んではいけない。見つかってはいけない。


父の言葉を思い出す。逃げろ。生きろ。


炎の向こうに、あの男が立っていた。


清隆。


月明かりと炎に照らされ、その端正な顔が浮かび上がる。けれど、その表情は撫子の知っている清隆ではなかった。冷たく、残酷で、嘲笑を浮かべている。


「おや、撫子。まだいたのか」


その声には、かつての優しさは微塵もなかった。


撫子の足が止まった。逃げなければ。分かっている。分かっているのに、体が動かなかった。


「なぜ...なぜこのようなことを...!」


「仕事だからさ」


清隆は肩を竦めた。


「お前の父親は、藩の機密を握っている。それを奪うのが、私の任務だった」


「でも...私を愛していると...」


「言ったな。確かに言った」


清隆は笑った。冷たい、嘲笑うような笑い。


「あれは嘘だ。最初から最後まで、全て演技だった。お前は最初から、ただの道具に過ぎなかった」


その時、廊下の向こうから声が聞こえた。


「撫子! 逃げなさい!」


母の声だった。


振り返ると、母が小百合を庇いながら立っていた。


「母上!」


「逃げなさい、撫子。あなただけでも...!」


「お母様! お姉様!」


小百合が泣き叫んでいる。


そして、佳世が駆けつけてきた。


「小百合様、こちらへ!」


佳世が小百合の手を引く。


「嫌! 母様のそばにいる!」


小百合は佳世の手を振り払った。


「私は母様と一緒にいる!」


小百合は母のもとへ走った。母は小百合を抱きしめ、撫子を見た。


「撫子...逃げなさい...」


敵の刃が振り下ろされたのは、その時だった。


母と小百合が、抱き合ったまま倒れた。


「母上!! 小百合!!」


佳世も、その刃に巻き込まれて倒れた。


「佳世!!」


撫子の叫びは、炎の中に消えた。


紗世の母が、目の前で死んだ。紗世が愛した母が、撫子の家族を守ろうとして死んだ。


全てが終わった。


撫子は走り出した。父の言葉を思い出して。生きろ。生き延びろ。


山中を走り続けた。息が切れ、足が動かなくなった時、撫子は追手に囲まれた。


「逃げられると思ったか?」


清隆が現れた。


「殺して...殺してください...!」


撫子は地面に崩れ落ちた。


「殺す? いや、それは勿体ない」


清隆は嘲笑った。


「お前は公開処刑にする。見せしめだ」


撫子は引きずられていった。抵抗する力など、残っていなかった。


   *


牢獄は冷たく、暗かった。


撫子は藁の上に座り、虚ろな目で壁を見つめていた。涙は既に枯れ果てていた。


明日には処刑される。


けれど、恐怖はなかった。死ぬことよりも、復讐を果たせないことの方が悔しかった。


その夜、牢獄に足音が響いた。


格子の向こうに、見覚えのある顔が現れた。


「志乃...」


屋敷で働いていた女中。けれど今の志乃は、歪んだ笑みを浮かべていた。


「やっと...やっとこうなった」


「何...を...」


「全部、私が教えたのよ。清隆様に。屋敷の配置、警備の時間、あなたの行動、全て」


撫子の目が見開かれた。


「志乃...あなたが...」


「そうよ。私が裏切ったの」


志乃は格子に手をかけ、撫子を見下ろした。


「驚いた? 私みたいな下女が、あなたを裏切るなんて」


「なぜ...!」


「あなたが憎かったからよ」


志乃の目から涙が溢れた。けれど、それは悲しみの涙ではなかった。


「あなたは何も知らない。私がどれだけ苦しんできたか」


志乃の声は、呪詛のようだった。


「私は貧しい家に生まれた。物心ついた時から働いて、それでも食べるものにも事欠いた。十二歳でこの屋敷に売られて、それから八年、毎日働いた。認められたかった。少しでもいい暮らしがしたかった」


志乃の声が震えた。


「でも、何も変わらなかった。そんな毎日の中で、私はあなたを見ていた。何の苦労もなく生まれてきた女。働かなくても食べられる女。同じ年に生まれたというのに、なぜこうも違うの」


「志乃...私は...」


「知らなかったでしょう? 私の苦しみなんて」


志乃は嘲笑った。


「あなたは何も知らずに、ただ幸せに生きていた。私がそういう目であなたを見ていたなんて、夢にも思わなかったでしょう」


撫子には、返す言葉がなかった。確かに、知らなかった。志乃がそんな思いを抱えていたなんて。


「でも、清隆様は私を見てくれた」


志乃の表情が変わった。憎しみから、恍惚へ。


「あの方は私に優しくしてくれた。『お前が一番だ。撫子なんて好きじゃない』って。あなたが処刑されたら、私があの方と一緒になるの」


撫子は志乃を見つめた。その目には、もう涙もなかった。代わりに、冷たい理解があった。


「志乃」


撫子の声は低く、静かだった。


「清隆は、私にも同じことを言ったわ」


志乃の顔が凍りついた。


「『お前が一番だ』と。あの男は、誰にでもそう言うのよ」


「嘘よ...!」


「嘘じゃない。あなたも私も、あの男に利用されただけ」


志乃の顔が歪む。


「でも、私は死なないわ」


撫子は立ち上がった。


「必ず生き延びて、復讐する。清隆にも、あなたにも」


撫子の黒い瞳が、暗闇の中で異様な光を放った。


「私は化け物になってでも、復讐する。あなたたちを、地獄に送る」


「ひぃ...!」


志乃は震えながら走り去った。


撫子はその背中を、冷たく見送った。

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