裏切りの夜
※この話には残酷なシーンが含まれます。
三
晩秋のある夜。
夜も更けた頃、撫子は部屋で清隆への文を認めていた。
その時、突然、障子が乱暴に開けられた。
「撫子!」
血相を変えた父が、息を切らせて立っていた。いつも穏やかな父の顔が、見たこともない形相に歪んでいる。
「父上...? どうなされたのですか」
「時間がない」
父は部屋に入り、障子を閉めた。そして撫子の肩を掴み、真剣な目で見つめた。
「よく聞け。清隆のことだ」
「清隆様が、何か...」
「あの男が情報を漏らしていた」
撫子は言葉を失った。
「どういう...意味ですか」
「清隆は隣藩の間者だ」
父の声は低く、しかし明確だった。
「お前に近づいたのは、この屋敷に入り込むためだった。私の持つ藩の機密を探るために、お前を...利用したのだ」
「嘘です」
撫子は首を振った。
「嘘です。清隆様は私を愛して...私たちは...」
「愛してなどいない。全ては演技だ」
「そんな...」
「藩の者が突き止めた。清隆が隣藩に機密を渡していた証拠がある。お前との文のやり取りも、全て計算の上だったのだ」
証拠。その言葉が、撫子の心を砕いた。
「そして...今夜、奴らが来る」
「来る...?」
「清隆が手引きした。この屋敷を襲撃する」
父は撫子の手を強く握った。
「逃げろ、撫子。裏口から山へ向かえ。何があっても、振り返るな」
「父上は...!」
「私は足止めをする。家族を守るのが、当主の務めだ」
「嫌です! 父上を置いてなど...!」
「黙って従え!」
父は初めて、撫子を怒鳴った。その声には、怒りではなく、深い愛情が込められていた。
「お前だけでも生き延びろ。お前が生きていれば、この家は滅びない」
父は撫子の手を握りしめた。
「いいな。生きろ。何があっても、生きろ」
その時、屋敷の外から悲鳴が聞こえた。
続いて、炎の爆ぜる音。刀と刀がぶつかり合う金属音。
「来たか...!」
父は刀を抜いた。
「逃げろ、撫子。これは命令だ」
父は撫子を突き飛ばし、廊下へ飛び出していった。
その背中を見たのが、最後だった。
*
屋敷は、地獄と化していた。
撫子は裏口へ向かいながら、信じられない光景を目にした。
炎。
屋敷のあちこちで火の手が上がっている。父が大切にしていた書院が、母が丹精込めて育てた庭が、赤々と燃え上がっている。
熱気が頬を焼く。煙が目を刺す。炎の爆ぜる音が耳を塞ぐ。
そして、悲鳴。
家臣たちが次々と斬り倒されていく。長年仕えてきた者たち。顔を知っている者たち。その命が、塵のように散っていく。
血の匂いが鼻を突く。鉄さびのような、生臭い匂い。
足元に何かがあった。見下ろすと、家臣の一人が倒れていた。目を見開いたまま、動かない。
撫子は悲鳴を呑み込んだ。叫んではいけない。見つかってはいけない。
父の言葉を思い出す。逃げろ。生きろ。
炎の向こうに、あの男が立っていた。
清隆。
月明かりと炎に照らされ、その端正な顔が浮かび上がる。けれど、その表情は撫子の知っている清隆ではなかった。冷たく、残酷で、嘲笑を浮かべている。
「おや、撫子。まだいたのか」
その声には、かつての優しさは微塵もなかった。
撫子の足が止まった。逃げなければ。分かっている。分かっているのに、体が動かなかった。
「なぜ...なぜこのようなことを...!」
「仕事だからさ」
清隆は肩を竦めた。
「お前の父親は、藩の機密を握っている。それを奪うのが、私の任務だった」
「でも...私を愛していると...」
「言ったな。確かに言った」
清隆は笑った。冷たい、嘲笑うような笑い。
「あれは嘘だ。最初から最後まで、全て演技だった。お前は最初から、ただの道具に過ぎなかった」
その時、廊下の向こうから声が聞こえた。
「撫子! 逃げなさい!」
母の声だった。
振り返ると、母が小百合を庇いながら立っていた。
「母上!」
「逃げなさい、撫子。あなただけでも...!」
「お母様! お姉様!」
小百合が泣き叫んでいる。
そして、佳世が駆けつけてきた。
「小百合様、こちらへ!」
佳世が小百合の手を引く。
「嫌! 母様のそばにいる!」
小百合は佳世の手を振り払った。
「私は母様と一緒にいる!」
小百合は母のもとへ走った。母は小百合を抱きしめ、撫子を見た。
「撫子...逃げなさい...」
敵の刃が振り下ろされたのは、その時だった。
母と小百合が、抱き合ったまま倒れた。
「母上!! 小百合!!」
佳世も、その刃に巻き込まれて倒れた。
「佳世!!」
撫子の叫びは、炎の中に消えた。
紗世の母が、目の前で死んだ。紗世が愛した母が、撫子の家族を守ろうとして死んだ。
全てが終わった。
撫子は走り出した。父の言葉を思い出して。生きろ。生き延びろ。
山中を走り続けた。息が切れ、足が動かなくなった時、撫子は追手に囲まれた。
「逃げられると思ったか?」
清隆が現れた。
「殺して...殺してください...!」
撫子は地面に崩れ落ちた。
「殺す? いや、それは勿体ない」
清隆は嘲笑った。
「お前は公開処刑にする。見せしめだ」
撫子は引きずられていった。抵抗する力など、残っていなかった。
*
牢獄は冷たく、暗かった。
撫子は藁の上に座り、虚ろな目で壁を見つめていた。涙は既に枯れ果てていた。
明日には処刑される。
けれど、恐怖はなかった。死ぬことよりも、復讐を果たせないことの方が悔しかった。
その夜、牢獄に足音が響いた。
格子の向こうに、見覚えのある顔が現れた。
「志乃...」
屋敷で働いていた女中。けれど今の志乃は、歪んだ笑みを浮かべていた。
「やっと...やっとこうなった」
「何...を...」
「全部、私が教えたのよ。清隆様に。屋敷の配置、警備の時間、あなたの行動、全て」
撫子の目が見開かれた。
「志乃...あなたが...」
「そうよ。私が裏切ったの」
志乃は格子に手をかけ、撫子を見下ろした。
「驚いた? 私みたいな下女が、あなたを裏切るなんて」
「なぜ...!」
「あなたが憎かったからよ」
志乃の目から涙が溢れた。けれど、それは悲しみの涙ではなかった。
「あなたは何も知らない。私がどれだけ苦しんできたか」
志乃の声は、呪詛のようだった。
「私は貧しい家に生まれた。物心ついた時から働いて、それでも食べるものにも事欠いた。十二歳でこの屋敷に売られて、それから八年、毎日働いた。認められたかった。少しでもいい暮らしがしたかった」
志乃の声が震えた。
「でも、何も変わらなかった。そんな毎日の中で、私はあなたを見ていた。何の苦労もなく生まれてきた女。働かなくても食べられる女。同じ年に生まれたというのに、なぜこうも違うの」
「志乃...私は...」
「知らなかったでしょう? 私の苦しみなんて」
志乃は嘲笑った。
「あなたは何も知らずに、ただ幸せに生きていた。私がそういう目であなたを見ていたなんて、夢にも思わなかったでしょう」
撫子には、返す言葉がなかった。確かに、知らなかった。志乃がそんな思いを抱えていたなんて。
「でも、清隆様は私を見てくれた」
志乃の表情が変わった。憎しみから、恍惚へ。
「あの方は私に優しくしてくれた。『お前が一番だ。撫子なんて好きじゃない』って。あなたが処刑されたら、私があの方と一緒になるの」
撫子は志乃を見つめた。その目には、もう涙もなかった。代わりに、冷たい理解があった。
「志乃」
撫子の声は低く、静かだった。
「清隆は、私にも同じことを言ったわ」
志乃の顔が凍りついた。
「『お前が一番だ』と。あの男は、誰にでもそう言うのよ」
「嘘よ...!」
「嘘じゃない。あなたも私も、あの男に利用されただけ」
志乃の顔が歪む。
「でも、私は死なないわ」
撫子は立ち上がった。
「必ず生き延びて、復讐する。清隆にも、あなたにも」
撫子の黒い瞳が、暗闇の中で異様な光を放った。
「私は化け物になってでも、復讐する。あなたたちを、地獄に送る」
「ひぃ...!」
志乃は震えながら走り去った。
撫子はその背中を、冷たく見送った。




